第一章 蝦夷編
文久二年の春の終わり。松前の通りは、魚の干物と潮の匂いが混じる賑わいに満ちていた。
毛皮商の店の軒下に一人のアイヌの少女が座っていた。黒髪とくりっとした目が印象深いその少女は、煎ったハシバミを齧っている。父親のキムンコルから渡されたもので、カリカリとした軽い食感と香ばしさがあり、ほんのり甘い。どちらかと言えば好きな味であるが、表情は暗く今一つ無感動である。「取引が終わるまでこれでも食って待ってな」とこれをどっさり与えてくれた父の愛情はよくよく分かっているつもりだが……母を亡くして数年、どうにも塞ぎがちなカピウであった。まだ口の刺青もしていない十歳の少女にとって、町の喧騒は眩しく、少々賑やか過ぎて、どうにも心が毟られるようだった。
ふと空を見上げると、一瞬の光が走った気がした。信心深いフチ(アイヌ語で祖母)ならば「カムイの知らせ」だと言い出すかもしれないな……と思っただけで、次の瞬間には忘れていた。
少し離れた奉行所の前が俄かに騒がしい。目を細めてそちらを見やれば、木戸の陰から、背の高い蓬髪の男が二人の役人に腕を掴まれて引きずり出されていた。
「いやいやいや、待つぜよ! 今のは偶然! もう一回!もう一回試して欲しいがじゃ! この銃は確かにちっくと古いけど、幕府が使ってたちゃんとしたやつじゃ! 鉄屑じゃないぜよ!調整しよう!そうしよう!港にまだあるから、そっちを見てくれ!」
蓬髪の男——坂本竜馬はなんとか食い下がろうとしていたが、石段で足を滑らせ、尻餅をついた。役人が「こんなもん要るか!二度と来るな!」と吐き捨て、何やら棒状の包みを投げつけた。
「違う!この銃はれっきとした――」
竜馬のセリフはズバンと閉まる木戸に遮られ、閂のかかる音で仕留められた。
「……ちぇっ、土佐を出た時からケチがつきっぱなしじゃ」と呟きながら立ち上がり、よれよれの袴の埃を掃い、包みを後生大事に拾い上げる。実は彼、勤王党の動きで手に入れたマスケットを売り払い、次の活動資金にしようと目論んでいたのだが……畿内では買い手がつかず、お尋ね者になっている江戸にも行けず困った挙句、北前船に目を付けた。有り金をはたきそれでも足りない分は荷物運びの手伝いをして、なんとか商品のマスケットと一緒に乗り込み、地の果ての蝦夷まで流れ着いたのだ。
カピウは相変わらず無感動にハシバミの実を齧りながら、じっと竜馬を見た、いや見下した。蓬髪の下の顔は汗と埃で汚れ、着物は皺だらけ。絵にかいたような小汚い浪人である。
(やだやだ、ああいうガサツそうな男には、綺麗なマキリメノコなんか一生作れないだろうな。絶っっ対にああいう男とは結婚したくない)と、心の中で呟く。アイヌの少女にとって、マキリメノコ——美しい彫刻の施された小刀を作る男こそが、生活力のある頼れる夫の証明なのだ。
と、今度は背後で新たな騒ぎが起こる。毛皮商の店から聞き覚えのある大声が響き、道行く人の鼓膜を打つ。
「おかしいぞ! この値段じゃ話にならん! 毛皮を買い叩くのもいい加減にしろ!」
キムンコルは拳骨に小さな鼻とギョロ目をつけ、立派なもみあげと髭を伸ばした強面の男で上背もかなりある。並の相手なら一喝ですっかり縮み上がってしまうのだが、和人の商人もさる者、涼しい顔である。
「いやいや、こんなに一気に持ち込まれてもねえ」
「たくさん持ってくれば色を付けると言っただろう!村のみんなでかき集めたんだぞ!それを……いつもの半額以下じゃないか!夏のヒグマは冬や春よりずっと強い!この値段じゃ冬を越せん!」
「そんなの知らないよ、アイヌは凍った鮭を食うんだろ?それなら雪でも食ってろよ、そうすりゃ生臭いのも少しはよくなるんじゃねえのか?」
「ンなんだとこの野郎!」
怒髪天のキムンコルが手に持った毛皮を振り回し、通行人が慌てて避けた。
「乱暴するなら奉行所に突き出すぞ!」商人が脅すが「やってみろ、舐めやがって!頭叩き割ってお前の脳みそで一杯やってやろうか!」とキムンコルが吼える。それこそヒグマのような勢いでとびかかろうとしたその瞬間、両者の間に竜馬が割り込んでいた。滑らかで鋭い体捌きは、離れて見ていたカピウでも信じられない程に速い。武術など知りもしないカピウの目にも、この男がただ者ではないのが判る。
「おいおいおい、これは確かに安すぎじゃあ」
龍馬は商人の算盤を指でつつき、しゃっと取り上げると、慣れた手つきでパチパチ弾き始めた。
「こがにでっかいクマを倒すがはそりゃあ命懸けじゃ、そうして手に入れた毛皮がこれっぽっちやらぁてひどい話じゃ。よく見りゃ結構キレイに処理されちゅうし……ん?こりゃまさか弓矢や槍で仕留めたがか?すごい度胸やねや。
処理とここまで運ぶ手間を考えりゃ……こればあ払うちゃらなきゃかわいそうじゃ」
算盤を覗き込んだキムンコルが大きく頷く。山育ちで目の良いカピウには、それが今までの三倍に近い高額だと見えた。
「もしかしてこれが和人の相場か?お前今までどれだけ買い叩いていたんだ!?」
更に食ってかかるキムンコルに、商人はまだ粘る。「フン!嫌なら他へ行くんだな!」
「グッ……!」
いつもならこれで折れていたのだろう、怯むキムンコルであったが、竜馬はニイッっと歯を剥いた。「お、言うたな?よし御仁、他へ行こう。一緒の北前船に大阪から来た毛皮商人がおった。こっちでがっつり商売したいそうじゃから、紹介しちゃる」
「それはありがてぇ!ニシパ、是非頼む!」
ぱあっと顔を明るくして毛皮をまとめるキムンコル、対して毛皮商人は渋い顔である。「何なんだお前は!商売を台無しにしやがって!おい!まとめてやっちまえ!」
怒鳴る店主の声に、奥から人相の悪いのが三人か飛び出してくる。用心棒である。父が村のみんなを代表して売りに来るのも、このタチの悪い連中を警戒してのことだった。
「ワシ一人でええ、あんたは毛皮を持って行け、急げ!」
大量の毛皮を担いで駆け出したキムンコルが、こちらを向いた。
「カピウ!このニシパを頼む!」
カピウは頷いてハシバミを飲み下すと、ばね仕掛けのように勢いよく駆け出す。しかし、駆け寄った頃にはもう勝負がつきかけていた。竜馬は既に軽々と一人を蹴転がし、もう一人を投げ飛ばしていた。最後の一人が不利を悟ってドスを抜き放って竜馬を睨みつけるが、竜馬は涼しい顔だ。
「バカタレ……刃物出したら死んでも文句言えんぞ」
足元に転がった旗竿を拾い上げて構えた。一見無造作に見えるが、正面から見れば正中線を見事に捉えた、一切の隙が無い美しい構えである。あんなにやかましい男が、武器を構えただけできりりと引き締まり、鏡のように凪ぐ湖面を思わせる静かな迫力をふりまいたのに、カピウは思わず足を止めて見惚れていた。
「なんだ、大口叩いた割には震えてるじゃねえか」
なるほど確かに竜馬の構える竿の先端は、セキレイの尾のように揺れている。
「知らんのか、田舎もん」
「お前もだろうが大訛り!」
二人の影が交差する。その一瞬で竜馬はとびかかるごろつきの腕を跳ね上げ、流れるように眉間を強く打ち据えていた。泡を吹いて倒れ込むごろつきに、これが北辰一刀流の構えじゃと言いかけた瞬間――
「何をやってんだそこのお前……さっきの浪人か!」
奉行所から役人が駆けつけてくるではないか。駆け付ける足音は十人を超えている。
「いかん、奉行所の真ん前じゃった!」
慌てふためく竜馬の袖を引く小さな手は、駆けつけたカピウであった。
「こっちに来て!」
「おお!地獄に仏じゃ!」
こうしてカピウは、竜馬を連れて路地裏やら雑木林を駆け抜け、役人の追跡を撒いたのであった。
その夜、松前の喧騒から少し離れたアイヌの集落、シリマと呼ばれるコタン(村)である。チセ(家)の軒下に吊るされた鮭の干物が春の夜風に揺れ、遠くで川のせせらぎが聞こえるのどかなコタンだ。その一軒、キムンコルの自宅に竜馬は招かれた。囲炉裏の火がチセの中を赤く染めるなか、キムンコルが木椀を手に豪快に笑った。
「いやぁニシパ、本当にありがとう!今回だけかと思ったら、とっくに買い叩かれていたとは気付かなかった!ニシパの見立て通りの値段で売れたな!」
「おう、あの商人も喜んどったしのう、ええことした後は酒がウマいわい。変わった酒じゃのう、始めて飲んだが甘酒に少し似ちょる、気に入った」
客人であり恩人である竜馬に振る舞われたのは、アイヌの仕込む濁酒であった。少々癖が強いが、金欠で酒にありつけなかった竜馬にとっては甘露である。
「おお、気に入ったか!見る目があるな、どんどん飲んでくれニシパ」
キムンコルは強面であるが、その拳骨のような顔一杯にあふれる笑顔は、なんとも不思議な温かみと人懐っこさがあった。
「それはええんじゃけど、さっきから言うとるそのニシパってのはなんじゃ?」
「おお、そういやそうか。こっちに来たばっかりのシサムに、アイヌの言葉は難しいよな」
「シサム?判らん言葉が増えたわい」
より一層困惑する竜馬に手を差し伸べたのはカピウであった。ついさっきまで囲炉裏のそばで黙って膝を抱えていたのだが、今はトノト(獨酒)の入った木桶を手に、竜馬にお酌しているのだ。
「シサムは和人、ニシパは偉いというか、ちゃんとした男の人に着ける呼び名だね、和人の言葉に直すなら……旦那呼びかな。はいどうぞ、和人の旦那」
「おおう、なるほど。ありがとうなお嬢ちゃん」
「カピウだよ、カモメって意味」
「そうか、いい名前じゃ。カモメはええのう、のんびりと飛んでて、自由そうで」
「で、ニシパは?」
カピウの大きな黒い目に覗き込まれてはじめて、竜馬はまだ自分が名乗っていないことに気づいた。
「ワシは竜馬、坂本竜馬じゃ」
「お、カピウが自分からお酌するなんて珍しいな!普段からそれくらい気を遣ってくれりゃいいのにな」キムンコルが髭を波打たせて笑うと、カピウが頬を膨らませた。
「うるさい!坂本ニシパは強いからいいの!」
酒が入ると笑い声が跳ね上がり、チセの中が一気に賑やかになった。ぎゃあぎゃあと大騒ぎする三人、その様子を囲炉裏を挟んで眺めている老婆がいた。どうやらアイヌ語しか喋れないらしく口を挟む様子はないが、微笑んでいるようであった。
「坂本ニシパ相当強いな。俺は走るのに一生懸命で見れなかったが、あの三人を叩きのめしちまうなんて、ただ者じゃないぞ!」
「すごかったんだよ!一瞬!武器持った相手も一撃でズバーン!って、なんだっけ?ホクシートーリュー?」
「北辰一刀流、江戸で一番の剣術じゃ!」
「そうか、剣の達人だったのか!そりゃあ強いわけだ!」
「おおよ、あんなごろつき何人おっても屁でもないわ!」
差し出された碗になみなみと盛られた山菜と熊の汁物は、味噌も醬油も使われていない素朴なものだったが、どういうわけか深い深い味わいがあった。木を輪切りにした皿に盛られたなめろうのような料理――聞けば鳥のほとんどまるごと包丁で叩き、山菜と混ぜたもの――は、おそるおそる口にしてみると、驚くほどまろやかで口当たりがよく、脂と肉の旨味溢れる逸品であった。
「お?おおっ……美味いッ!沁みるのう!」
普段なら、まして土佐の実家であれば目にすることもなかったであろう粗野な料理であったが、ひもじい船旅を乗り越えた竜馬にとっては、何物にも代えがたい絶品であった。冬を越すことも心配していた彼らが、貴重であろう食料や、ましてや酒までも惜しみなく振る舞ってくれることが、心の底から嬉しかった。それが、もてなしを更なる美味に昇華させていた。
「ウーイ……」
図体のわりにそれほど酒には強くないのか、やがてキムンコルは囲炉裏の傍で大の字になってしまった。この世のすべてを手に入れたような満足げな寝顔である。まったく、酔いっぷりまで豪快な男である。土佐にいたら親友だったかもしれない。
「ねえ、坂本ニシパはどこから着たの?」
「江戸ってどんなところ?どれくらい遠いの?」
「北辰一刀流って他には何ができるの?」
「何しに蝦夷まで来たの?」
「リョーマってどういう意味?」
それからはカピウの質問攻めであった。年頃の娘が、海の向こうという全くの異世界から来た腕の立つ青年と出会えば(第一印象が「小汚い」であったとしても)興味を惹かれるのは当然のことだったろう。
竜馬も竜馬で悪い気はしない。千葉道場のさな子より若い娘と喋るのはいつぶりだろうか。元来どちらかと言えば子供好きでもある、カピウの見立て通りガサツな男だが、そういう所は意外とつきあいがいい。
「サカモトニシパ」
怒涛の質問攻めが収まってきたところで、老婆が口を開いた。もちろんアイヌ語では、何を言ってるのか全く分からない。この琉球弁と関西弁を足して割らないような特異な言葉は、慣れない耳ではその音を聞き取ることも至難の業だ。
「フチ(祖母)がお礼を言いたいって言ってる」
「そうかそうか。ほいたらカピウ、訳してくれるか?」
「わかった、えっとね……」
『大体の話しは聞きました、貴方は息子と孫娘だけではなく、この村を救ってくれました、本当に、本当にありがとう』
竜馬の手を取りそう言う老婆の目には涙が浮かんでいる。
「いやいやおばあちゃん、大袈裟じゃ。ワシはそんなだいそれた事をしたつもりじゃないきに、気軽にしちくれんか、逆に居心地が悪うなる」
カピウがそれを伝えると、一転老婆は笑顔を作り、何かを続ける。
『特にこんなに笑うカピウは数年ぶりに見ました。この子は母を労咳(結核)で亡くしてから、めっきり笑うことが少なくなっていたので』
「そうじゃったかぁ。ワシの母上も労咳で亡くなっちょる、気持ちは分かるぜよ。カピウはいい子じゃ、勇気もあって機転も効く、きっと将来は素敵な女性になるじゃろう」
それに対してのフチの返答が、なかなか翻訳されないではないか。
「どういたカピウ、訳してくれんがか?」
カピウはさっと目を逸らすと、少し遅れて口を開いた。
「坂本ニシパは臭いからちゃんと水浴びしろって」
酒を飲んでいないカピウが、何故か耳まで赤くしているように見えるのだが……囲炉裏の火のせいだろうか。
「あららら、すまんのうおばあちゃん、臭っておったがか?いやぁ、北前船に乗る前からなんだかんだで一か月以上風呂入ってなかったからのう。なんかもっといっぱい喋っちょった気ィするが、これだけか?長々とお説教されるくらい臭かったがか?」
「うん。鼻が捻じれるくらいめちゃくちゃ臭いって」
カピウが笑って頷くが、本当は違う。フチは『坂本さん、あなたが良ければこの子を連れて……いつか嫁にしてやって欲しい。この子は少し愛想が悪いが、料理や裁縫はできる。この子が笑顔でいられるなら、私も息子もそれが何よりだ』と言っていたのだ。しかし、それを肝心のカピウ本人に訳させるのはいくらなんでも無茶と言うものだ。
やがてフチは伝わっていないと感じたのか、立ち上がり、小物入れから革袋を取り出した。見事なアイヌ模様が刻まれた、手のひらに乗る程の大きさのものだ。そっと竜馬の手に握らせると、見た目より重い。揉むと薄い手応えだけがあるので、中に液体が入っているようだった。
「なんじゃあ、これは?」
カピウがフチの言葉を訳した。『ライピルカ・カムイの血が入ったお守りです。貴方がここに無事に帰ってくる為に、どうか肌身離さず持っていてください』
「ライピルカ・カムイ? なんじゃそれ?」
竜馬が怪訝そうにしていると、フチは続きを語り、カピウは懸命にそれを訳した。
『この周辺に伝わる、炎を纏った鳥の姿をしたカムイです。永遠の命を持ち、破壊と再生を司る強大な存在です。和人はこのカムイを火の鳥と呼んでいました』
「火の鳥?」
そう言われてからよく見ると、施されたアイヌ模様からは、炎をまとった一羽の鳥が、翼と長い尾をはためかせている様子に見えた。
『このカムイの血を飲めば、永遠の命が得られると聞いています』
カピウも初耳らしく、訳しながら目を丸くした。「フチ、それ本当?」
竜馬は革袋を見つめ「これを飲むと、不死身になるがかい…?」と呟いた。囲炉裏の火が揺れ、チセに静寂が戻った——。ごくり、と竜馬が生唾を飲むのが聞こえるほどに。
フチは皺に覆われた手で革袋を抑え、首を左右に振った。
『絶対に飲んではいけません。ライピルカ・カムイは最も美しく、最も危険で、最も残酷なカムイです。血を飲めば破滅するとも伝わっています。誰も試していません。
私が生まれる前ですが、ライピルカ・カムイを探しにピㇼカムイ・ヌㇷ゚リへ行った和人は、全員非業の死を遂げた言い伝えがあります。ですが、その力にあやかって、こうしてお守りを持つだけなら、大丈夫だと聞いています』
唖然としていた竜馬だが、やがて一つの妙案が浮かんだ。
不死身の維新志士である。撃たれても斬られても死なない者たちがいれば、攘夷なんて簡単だ。極端な話、日本に押し寄せる異人をとにかく片っ端から斬ってしまえば、物理的に攘夷が完遂できるではないか。そうだ、資金調達に頭を悩ませる必要なんかないのだ。
「ありがとうおばあちゃん……ワシ、希望が見えてきた、人生の夜明けぜよ!」
革袋を懐に仕舞い込むと、とびきりの笑顔で礼をすると、ぐいっと獨酒を飲み干した。
翌朝、コタンの空に朝靄が漂い、チセの屋根から滴る露が春の土に落ちる頃合い。
「なあカピウ、ピㇼカムイ・ヌㇷ゚リって何じゃ?いや、どこじゃ?」
カピウの白く細い指が指したのは、少し離れた禿山である。朝陽に霞むその頂から、薄い煙が立ち上り、遠くでゴロゴロと低い音が響いていた。
「あの山だけど……何で知ってるの?」
「昨日おばあちゃんが言うとったろ、ピㇼカムイ・ヌㇷ゚リに和人が火の鳥を取りに行ったって」
「そっか……え、行くつもり?ダメだよ!危ないよ!よく見なよ、あの山は火山だよ?ライピルカ・カムイ関係なしに危ないよ!」
「頼む!カピウにしか頼めんがじゃ!案内しちくれ!」
キムンコルはどうやらコタンでは重要な人物らしく、毛皮云々以外でも朝から忙しそうだ。寝落ちの「ウーイ……」から一転、人望を集める立派なニシパのようである。かと言って老婆であるフチを連れまわすのは気が引ける。もちろんコタンには他のアイヌも住んでいるのだが……彼らは竜馬に興味を示しながらも、少し距離を置いていた。よれよれの袴と汗臭い風貌は、和人の中でも浮いて見えるのだから、警戒されて話がうまく進まない。そもそも彼らは毛皮商人に買い叩かれていたのだ、他にもああいう厄介ごとが起きているとしたら、和人を歓迎しない者がいてもおかしくなかった。
「私だけ?いやいや、でもやっぱり……危ないし、怖いし……」
「大丈夫じゃ!昨日も見たろ?ワシ、北辰一刀流の達人ぜよ、盗賊程度ならまとめてドーンじゃ!」
「いや、そう言う問題じゃ……」
と言いかけたカピウの台詞を遮ったのは、一陣の強い風であった。チセの屋根から落ちる露が舞い、コタンの木々がざわめいた。カピウが山を見上げ、
「……坂本ニシパ運良いね、もしかしたら行けるかも」
「本当か?ありがとうカピウ!よぉし、お駄賃はずんじゃる!」
「そんなもんないでしょ?見りゃわかるよ」呆れ顔のカピウ。
「いやいや、金はないが……なんか渡すもの……」
とガサゴソしていると、懐から転がり出たのは簪であった。竹で作られた簡素なもので、十数文程度の庶民向けの品であるが、海風に乗って優雅に舞うカモメが彫りこんである。
「これじゃ!これがええ、一番ええ!見てみいここ!」竜馬はすぱっとそれを拾い上げ、しゃがみ込んでカピウに目線を合わせ、ふわりと差し出した。
「あ……私だ」カピウが目を丸くする。
「素敵……ニシパが作ったの?」
「江戸の土産物じゃ……じゃが、ええじゃろ?」
からりと笑って見せた。土佐の浜風を浴びて育った竜馬にとって、カモメは最も身近な自由の象徴でもあった。江戸の道場の近くで買ったまま放置していたものだが、カピウにやるならこれ以上のものは用意できない。
「でも本当に危ないから……私の言う事聞いてね」
「いょし!行こう!」
竜馬とカピウがコタンを出て、春の森をゆく。エゾマツの枝が朝陽に煌めき、遠く「ピㇼカムイ・ヌㇷ゚リ」の頂が薄い煙を吐くのが見える。しばらく行くと、雑木林が緩やかな傾斜を帯びてきた。しかし甘くはない、そろそろだろうかと思っても、一向に距離が縮まない。
「思ったより遠いのお!」
「そりゃそうだよ、大きい山だもの、近くに見えても遠いんだ」
得意げに言うのは先導するカピウである。早速挿したカモメの簪がよほど気に入ったのか、その足取りは軽やかで、踊っているようでもあった。
「転ぶなよ、枝が刺さる」
「そんなヘマしないよ、慣れてるんだから。
それより先に約束して、もしもライピルカ・カムイの血を手に入れても……坂本ニシパは飲まないでね?」
「なぜじゃ?カピウは不死身になりたくないがか?」
少女の言葉に竜馬は首を捻った。労咳で母を亡くしたカピウなら、むしろ自分にも飲ませろと言ってもおかしくないだろうに。
「少なくともシリマアイヌにとって、死はそこまで悲しいことじゃない。あの世にもまたコタンがあって、今と同じような暮らしができる。ちゃんと死後の世界へ送ってもらえれば、こっちよりも豊かな生活ができるんだよ」
和人の竜馬には理解のできない生死感である。ひょっとしたら、些細なことが死に直結する過酷な狩猟生活が生んだ、僅かな慰めからきた独自の思想かもしれない。竜馬が思いを馳せるより先に、カピウは続けた。
「悲しくはないと言っても……別れは寂しい。私は、向こうの世界へ行っても、ニシパに会いたい。それで、もっと楽しく暮らすんだ。それにほら、フチが言ってたでしょ?取りに行った和人はヒゴーの死を遂げたって、きっとそいつらはライピルカ・カムイの怒りに触れたんだ」
「なんじゃ?カピウはワシに生きてて欲しいんか?死んで欲しいんか?こんがらがってきたのう」
竜馬が頭を掻いて笑うと、カピウは頬を膨らませた。
「いいの!とにかくニシパは使っちゃダメ!持ってるだけ!」
「わかったわかった、ワシは飲まんよ。
死後の世界で今よりもっと豊かな暮らしか、豊かなのはアイヌは想像力じゃのう」
望む答えでなかったのか、カピウの頬はまだ戻らない。少女の心が何よりも複雑で理不尽なものであることは、和人もアイヌも変わらないようだ。
「……あともう一つ約束、山では私が通った道だけを通ること!」
「はいはい」
「私が逃げろと言ったら逃げること!」
「おいおい、二つに増えたがじゃ!」
「実質一個でしょこんなの!」
「理不尽じゃのう」
「違う、それくらいあの山は危険なんだよ……見えてきた!」
林を抜けると一気に視界が開けた。あれだけあった草や木は嘘のようになくなり、その先は岩と礫ばかりが転がる殺風景な光景が、遠い遠い山頂まで続いていた。硫黄の臭いが僅かに鼻をついた。
「む、少し臭うのう」
「臭いのはニシパも負けてないけどね。これはカムイの吐く毒の息、吸い過ぎると本当に死ぬ。普段はここまで来るのだって危険なんだけど……見て」
カピウが遠く山頂を指す。そこから立ち上る白い煙は、今朝よりも高く高く、どこまでも立ち上っていた。
「季節の変わり目になると、一日だけ海風が強くなって、毒の息を押し返す。シリマ・カムイ・トクヌムって言う日なんだけど、この日は恐ろしいカムイが昼寝をしてるから、割と安全に山に登れるんだ。
硫黄とか、色んな鉱石をこの日に回収して売ってる人もいるらしい。たまにしかできない上に知識がいるから、あんまり人気ないけどね」
なるほど、さっきコタンで言われた「運が良い」とは風向きの事だったようだ。それにしても彼らの知恵には目を見張るばかりである。少なくともこの海風云々はただの迷信ではなく、気が遠くなるほどの経験則から生まれる教訓と思っていいだろう。
「なるほど、カムイと共に生活しちょるわけか、そうせねば蝦夷では生きていけんわけか。いやいやすごいな、カピウがいれば、蝦夷のどこへ行っても困らんのう!」
「言い過ぎだよ、私はこの辺しか知らないもん。小樽とか網走とか、東の方はまた全然違うらしいからね」
少々大袈裟な自覚はある。だが、他人を賞賛するときは少しくらい大袈裟な方が良いのだ。ある種これも、坂本龍馬という男の根の明るさと無意識の計算高さからくる経験則かもしれない。
「油断しちゃダメだよ、毒の息はなくても、蒸気や熱湯がいきなり吹き出して大やけどすることだってあるんだ。カムイが昼寝をしてても、ここが危険なのは変わらない。人間以外もみんな知ってる、だからこの山には、ヒグマもエゾシカも近寄らないんだ」
「ほうかい……聞けば聞くほどライピルカ・カムイのねぐらにふさわしいのう」
からりと笑った。不死身の志士による攘夷が、目と鼻の先まで来ている。懐にはキムンコルから借りた水筒がある。シカかだかなんだか、獣の膀胱で作った水袋だそうだ。若干気分が良くないが、水物を入れるならこれ以上適任の物はないだろう。
カピウには悪いが、いずれ自分は火の鳥の血を飲む、飲まねばならないだろう。同志にだけ飲ませて戦いを押し付け、自分だけ後ろでのうのうとしていては、今まで死んでいった仲間たちに申し訳が立たない。せめてもの言い訳に、フチからもらったこの小さな革袋の中身だけは、自分では飲まずにおこう―ささやかな言い訳を盾にして、陽気なフリをして瓦礫の山へ足を向ける。ほんの少し胸が苦しいのは後ろめたさか、あるいはカムイの毒の息なのか。竜馬には皆目見当がつかなかった。
足場の悪い殺風景な道をゆくのは、思ったよりも強敵であった。剣術修行と脱藩放浪でやたらと足腰の鍛えられた竜馬にとって、山道はそこまで苦ではない。退屈なのだ。険しい岩山なのでもちろん道は曲がりくねっているのだが、植生がほとんどないものだから見栄えがまるでない。そのくせライピルカ・カムイがいそうなところも見当たらない。でっかい岩が遮る足元の悪い道と、たまに転がっている妙な色をした石では、この男の好奇心を満たすには遥かに足りない。なによりもその退屈さが、生来落ち着きのないこの男にとっては一番の苦痛であった。
「どこじゃろうなぁ、カムイ」
「うーん、何かが住んでるようには見えないんだけど……でもフチの話じゃ鳥の姿なわけだし、やっぱり高いところにいると思うんだ。ライピルカ・カムイは強大なカムイだから、小鳥の姿じゃなくて、結構大きいと思う。でも……」ぐるりとあたりを見渡すが、あたり一帯光を放つものは見当たらない「となると、周りが囲まれてるところだよね。植物が生えてないから、岩でぐるっと囲われてるところだと……」ちらりと見上げたのは頂上、おそらくは更にその先であろう。
「火口かや?」
カピウの細い首が頷く。なんてこった、ある意味ここからこの山で一番遠い場所ではないか。
「よし、カピウ、ワシにおぶされ。火口まで一気に―」
「ダメ、ニシパ絶対突っ走るでしょ、すっ転んだら真っ逆さだよ?この山のヒゴーの死が増えちゃう」
「むぐぐ……」
なんとももどかしいがカピウの言うとおりである。肩を落とし、素直にカピウのあとを歩くことにしよう。
「どうにもワシは昔から、黙って何かをすることが苦手じゃ」
「うん、昨日からずっとそうだもんね。ニシパは寝てる時となんか食べてるとき以外はずーっと喋ったり走ったりしてるもんね」
「そうじゃ、姉上からは止まったら死ぬサメのような男じゃと、よく笑われたわい」
「へえ、お姉さんいるんだ、どんな人?」
「それはもう豪快な女じゃ、昔ワシが近所の悪ガキに泣かされて帰ってきたときは、やり返して来いと放り出されたもんじゃ」
やはりこの男、黙っていることができない性分らしく、よほど道が荒れない限り喋ること喋ること。昨日の感想から始まって、話がどんどんと遡っていく。話しているうちに、案外カピウの相槌が上手いのに気づいた。
「昨日銃を売りに来たって言ってたよね?どういうこと?」
「ダッパンって何?」
「剣術道場?じゃあニシパより強い人もいるの?」
「ああ……ニシパ変わってるもんね、変な友達多いんだ」
等々、受け答えも豊富ながら、こちらを持ち上げる一方ではなく、笑ったり、質問を重ねたり、時には小ばかにしてさらに話を引き出したりと、なかなかに話応えがある。そんなカピウにノせられて、ついつい、余計なことまで話してしまう。
「侍と言ってもワシの家は土佐の下士でのう、商売が順調だったから飯に困ることはなかったが……理不尽なメには、よう遭うたがじゃ……」
「……聞かせてよ、聞きたい」
いつもの竜馬なら、故郷への不満や愚痴など、子供に聞かせることはない。しかし、脱藩からここまでの不安、登山の険しさに気を取られたか、ついつい、胸の内の奥底をこぼしてしまった。
極めて簡単に言うなら、これは竜馬が胸の内に秘める闇だ。歴史的な背景があるので細かくは触れないが、この時代土佐における侍は「上士」と「下士」の二つに明確に分かれるという、全国的にも珍しい身分制度が設けられていた。石高には十倍以上の差が付けられ、身分をまたぐ婚姻も当然禁じられていた。下士の子供は藩校に通う権利も与えられなかったので、出世して藩内の政治に関わることはほぼ不可能であった。何より強烈だったのは、この経済的、社会的格差が生み出す屈辱である。道で両者が行き合えば下士は上士に道を譲り、馬に乗っていれば降りて頭を下げ、傘を差していれば(傘を持っているだけ裕福な下士であるのだが)雨の中それを閉じて頭を下げるのが慣例であったとされている。竜馬個人も上士の子供と揉めて、一方的に責任を押し付けられ、強制的に詫びさせられる極めて理不尽な経験を幾度も味わった。そんな男だから、土佐藩に対する忠誠心は低く、脱藩やら勤皇やら、過激な行動に走りがちなのだ。そんな闇を抱えて能天気でいられるのは、ある種の異常者か、精神のどこかが壊れているのかもしれない。
もちろん子供にこのまま聞かせることはできない、相当ぼかして話したが、話を聞いているうちにカピウは涙ぐんでいた。
「辛かったんだね……気持ち、わかるよ……」
「ありがとう。カピウは優しいのぅ」
竜馬は微笑むとしゃがみ込み、少女の涙を拭ってやった。確かに土佐における下士の扱いは強烈である、しかし、それでも一応、近畿を中心としていた同一文化圏内に収まっていた者への扱いである。これが、言葉も食べ物も大きく異なるアイヌ相手であったらどうだろうか……竜馬以上の辛酸を飲まされてきたであろうことは、想像に難くない。
「えずい話を聞かせてしもうたの、楽しい話に切り替えんとな」
「……坂本ニシパ、アイヌになろうよ」
「ん?なんじゃそれ」
「アイヌのお嫁さんをもらえば、アイヌになれるんだ。私たちは絶対にそんなひどい事しない。きっとみんな喜ぶよ」
アイヌとは血に依存しない。ある意味、民族と言う呼び方とは少々違う面がある。そもそもアイヌと言う単語自体が「人間」という意味なのだから。だからなのか、異邦人を迎え入れ、同胞とすることを厭わないアイヌは一定数存在する。事実蝦夷北部や東部のアイヌには、ロシアや樺太の血が入っているのか、日本人離れした体格の者も存在する。大柄なキムンコルも、何処かでその血が入っているのかもしれない。
「それも悪くないが……」
返答に困った。自分が闇をのぞかせてしまったせいで、もっと重い感情をぶつけ返されてしまった。しかし、今の竜馬には「日本を異人から守る」という大義があり、そのためには不死身の維新志士が、つまりは火の鳥の血が必要なのだ。その守るべき日本にはもちろんアイヌも蝦夷も含まれるの。多少の回り道はとまだしも、ここに根を下ろすわけにはいかないのだ。
しかし、それを語るには竜馬の視野はまだ狭く、カピウの世界もそれを受け入れられるものではなかった。要するに子供なのだ、程度はあれど両者ともに。
「アイヌの……女子は……結婚すると口に刺青をするじゃろ?……あれがどうにものう」
「え……嫌なの?」
冗談交じりに返したつもりが、これが良くなかった。カピウが本気で泣きそうな顔を作る。(うおお、いかん!返しを間違えた)これ以上話を無茶苦茶にはできない、慌てて笑顔を作った竜馬は、一瞬の間に脳をぐわんぐわん回転させ、なんとか言い訳をひねり出す。
「いやあ、違う違う!アイヌがそうするのはええんじゃ、鉄漿を口の外側にするようなもんじゃからな!ただ……そう、でっかい口!でっかい口に見えてびっくりしたんじゃ!最初はフチも怒ってるのかと思って、ワシ本当にびっくりしてたがじゃ!でも、でもでも喋ってみたらあんなにやさしいおばあちゃんは他におらん、ワシの間違いじゃった!すまんな!」
自分の間抜けな勘違いを晒して、すかさずフチを褒める。強引な話題転換であるが、素直な少女は見事に誘導されてくれた。
「そうだよ、フチは優しいんだ」
ほっと胸をなでおろす。しんどくなってきた、山への道案内を頼んだつもりが、姪の子守を押し付けられた気分になってきた。例えどんなに可愛かろうが、しんどいものはしんどいのだ。
「さ、気を取り直して行こ……うん?カピウ、あっちの道はどうなんじゃ?」
岩陰から脇道が続いている。一旦狭く切り立った谷を下りるが、それからぐいっと火口へ向けて登っていく、登っていくにはうってつけの道ではないか。
「こっちなら三倍くらいはやいじゃろ、一気に登るぜよ!」
空気を一変しようと駆け出す。一気に駆け下り駆け上れば、火口はあっという間だろう。
「ダメ!そっちの道は危ないよ!」
「大丈夫じゃ!ほら、足元もいいし……うん、蒸気やお湯の気配もせん、ちっくと臭いが……むっ!ウムム……ウーン」
一瞬の立ち眩みを覚えたかと思うと、竜馬はあっという間に昏倒した。
「カムイだ!毒の息を吸ったんだ!」
跳び上がったカピウは取り出した布で鼻と口を覆い、一目散に駆け寄る。
「ニシパ!坂本ニシパ」
僅かに目に染みる、これがカムイの毒だろうか。とにかく息を止めたまま、倒れた竜馬を引っ張る。なんとか生きてはいるものの、意識が朦朧としているようだ。
「聞こえる?しっかり、私の肩につかまって!ほら、こっち!死んじゃうよ!……ふんぬっ!んぐぐぐぐぐっ!」
キムンコル程ではないが、竜馬の上背もなかなかのものだ、小柄なカピウでは骨が折れる。それでも懸命に引っ張る、火事場の馬鹿力を炸裂させて、とにかく死に物狂いで引っ張り上げ、芋袋のように引きずりながら火山を下りる。
「息をしろ!吐け!毒を全部吐くんだ!……ここはもう危険だ、逃げなくちゃ!死ぬなよ……リョーマ!」
カピウの必至な叫びが、地獄のような谷に響いた。
意識が戻ると、竜馬は雑木林の草むらに寝かされていた。先ほどまでと違う、冷たく湿った青臭い空気に、肺が休まるのを感じる。
「お?ここは……火の鳥は……どこじゃ?」
身を起こすより早く、弾丸のような勢いでみぞおちに突っ込んできたのはカピウであった。
「生きてたぁあっ!リョーマ!私の後を歩けって言ったじゃないか!勝手な事するから死にかけたんだぞ、馬鹿ッ!」
「わかった、わかった。謝るから、怒るんか泣くんかどっちかにせえ」
まだ少し眩暈が残っているし、軽くだが吐き気も残っている。本当に死にかけたらしい。行っておいてなんだが、本当にこんな目に遭うとは思ってもいなかった。
竜馬の症状は火山が噴き出すガスに含まれる硫化水素や二酸化硫黄のものだ。強い海風によって上空に飛ばされるはずの今日のような日でも、空気より比重の重いガスが谷や窪地に残っていることは、決して珍しくはない。カピウとの約束を守れなかった、竜馬の自業自得である。
「歩ける?これ以上は無理だ、コタンへ帰ろう」
「……いや、それでは火の鳥の血が……」
食い下がる竜馬に対して、カピウはきっぱり言って首を振った。
「もう時間切れだ、もう夕方が近い。同じ海風でも昼と夜では違う、カムイの毒が戻ってくる」
見上げれば既に太陽は下り坂、確かに今からではどんなに急いでも明るいうちに火口へはたどり着けない。万が一血が手に入っても、帰り道で毒に巻かれて死ぬ。竜馬一人なら不死身になっても構わないが、血を飲みたがらないカピウがいては、殺してしまう。
「ぐぐぐ……」
それは絶対に嫌だ。日本のためと嘯いて、易々と日本人を見殺しにするようなヤツには成り下がれない。そんなお為ごかし野郎は、いずれ、日本のためと言って自分以外をすべて見殺しにする。そんな人間に、国を憂える資格はない。
「なら明日じゃ、今度はちゃんとカピウの後を―」
「ダメだ、海風が強くなるのは今日一日、次は三か月後だよ……それまでコタンにいるなら……私は歓迎するけど」
「流石に長すぎる……しくじった。ワシはまっこと、大馬鹿モンじゃあ……」
苦々しく呻いて項垂れた。流石に夏の終わりまでここにいついていたら、それこそ本当にコタンへ根をおろしてしまうだろう。
「わかった……帰ろう」
まだ少し足がふらつく。カピウは肩を貸そうとしてくれたが、何しろ背が低く過ぎてこちらの腰が痛くなる。「手ごろな棒を探してきてくれんか」竜馬が嗤うと、カピウはこの木が山杖に向いていると、しなやかで強い木の棒を持ってきた。なんとか立ち上がってみると、全身埃塗れの擦り傷だらけであることに気が付いた。
「命に比べれば安いもんじゃ」力なく笑うと、コタンへと戻った。
何度も何度も深呼吸して、途中の川で顔も洗って水も飲んだ、山から離れたことで徐々に体調は戻り、ふらつく足取りでも、なんとか夕方にはコタンへと戻ってこれた。
「風邪ひいただぁ?」
安全に登れる日とはいえ、一人娘をピㇼカムイ・ヌㇷ゚リへ連れて行ったと聞けばキムンコルは激怒するだろう。そう思った二人は口裏を合わせていた。
「そう、リョーマと一緒に山菜を探そうと思ってたんだけど、途中から具合が悪くなったみたいで」
「そう……か。まあ、今日は海風が強かったからなぁ、慣れないシサムが体を冷やした……のかな。まあ、暖かくして寝とけ、明日も辛かったらトゥス(祈祷師)にお祈りをしてもらおう」
怪訝そうなキムンコルであるが、竜馬の体調がすぐれないのは一目瞭然だったせいか、深追いはせず気遣ってくれた。フチも大層心配してくれているようで、風邪に効くとハッカを煎じて薬湯を作ってくれたり、温まるようにと汁物を勧めてくれたりと。その暖かさが本当に身に沁みた。
(本当に暖かい。いかんなぁ……居心地が良すぎて……戻れんようになってしまう)
薬湯を啜り、遠い目をする竜馬。武器は売れず、不死身の志士もうまくいかず……結局何も変わっていない。自分の運と要領の悪さにため息が出る。
「坂本ニシパ……話せるかい?」
キセルを燻らせるキムンコルが切り出したのは、カピウがすっかり寝付いた後だった。
「娘から聞いたよ。あんた、銃を売りに蝦夷まで来たそうじゃないか」
「そうじゃ」
「どれくらい?」
「全部で二十丁、船に預けてある」
竜馬は内心ほくそ笑んだ。先日見かけた毛皮の状態からして、彼らはヒグマ狩りに鉄砲を使っていない。好機だ。しかし、商売と言うものは厄介で、売り手が「買って欲しい」と顔に出せば相手は必ず足元を見る。下手に出てはいけないが、出し渋れば機会を逃す、文字通り命のやり取りに匹敵する主導権の奪い合いなのだ。あるいはアイヌが毛皮を買い叩かれるのも、言葉の壁による交渉の難航が一枚かんでいるかもしれない。
「ほいで、これが見本用に持ってきた一丁じゃ。火打石が減っとるから交換が必要じゃが、道具も予備もあるから困らん」
奉行所でつまみ出された時からずっと持っていた長い荷物を解く、中身はマスケット銃である。土佐勤皇党の活動の一環として、武器庫から盗み出した物の一部だ。出かけている間に覗き込まれて良いよう、あえて乱雑に包みを緩めておいたのだが、その形跡はない。彼らの真摯さが見えるのは嬉しい。
「なんだこの銃は?」
「見たことないじゃろう、種子島は三百年前に発明されたもんじゃが、これはもっと後にイギリスで発明されたマスケット銃じゃ、火縄ではなく、ここに火打石を挟んでおる。だからちょっとくらいの雨や雪の日でも使えるし、装填もずっと早い」
さっきまでの陽気な田舎者はどこへやら、立て板に水の如くぺらぺらと並ぶ利点に、キムンコルは目を丸くして聞き込んでいる。それがどうにもうれしくて、銃を構えて見せた。
「火縄銃はどういても両手を使わねばならんが、マスケットなら慣れれば片手でも撃てる、射程もぐっと伸びるから、クマ狩りも安全になるじゃろうし、散弾も撃てるから鳥なんかにも使えるぞ」
手渡すとキムンコルは目つきを鋭くして見入る。見る場所や構え方が板についている、どうやら火縄銃の経験があるようだ。
「……うん、使えそうだ」
「そりゃあええ。ほいたら何丁欲しい?」竜馬が能天気ににかっと笑う、しかし、キムンコルは静かに返した。
「全部だ」
「全部!?」竜馬が目を丸くして座ったまま跳び上がると、キムンコルはキセルを置いた。それはもはや狩猟やシャレでは済まない歴とした戦力だ、ちゃんと扱えれば奉行所の制圧くらいは容易い。
「キムンコルさん……本気か?それは武装蜂起を疑われる規模じゃ。天下を揺るがす大事になってしまう」頭を掻いて笑おうとしても、乾いた笑いすら出てこない。
「わかっている。だが……カピウからほんの少しだけ聞いた。ニシパも故郷で辛い目に遭ったと」
「む……」竜馬が言葉に詰まると、キムンコルが涙をにじませて続ける。
「私の母が和人の言葉を離せないのはな、昔はアイヌが和人の言葉を話すことさえ禁止されたからだ。もちろんそれだけじゃない。交易の搾取はさっき見た通り、昔はもっと酷かった。鮭百匹が錆びた包丁一本に、毛皮十枚が酒一合になったりと、無茶苦茶だった……地域によっては、カムイを送る儀式や、伝統の着物や髪型を禁じられたことも……すまん、恨み言は何も生まないな、やめておこう。
だが、わかってくれニシパ、当時我らは『夷人』と呼ばれた。極端に言えば『人にして人に非ず』だ」
「うっ……」
キムンコルの吐き捨てた言葉は、故郷で『武士にして武士に非ず』の扱いを受けた竜馬に深く刺さった。しかし彼らが味わった屈辱や怒りは、竜馬が感じたそれよりも、遥かに大きかった。
「坂本ニシパ、あなたなら分かってくれるはずだ。こんなこと普通の和人には口が裂けても言えん。気難しいあの子が懐いて、その上同じ経験をしているニシパにだからできるんだ……頼む、この通りだ」
キムンコルは一切のためらいなく頭を下げた。そんなことをされては竜馬もたまったものではない。
「ちょ!キムンコルさんやめえや、頭を上げちくれ!あんたも立派なニシパじゃろうに、そんな姿ワシも見とうない。軽々と頭を下げんでくれ」
「軽くない!これは今だけ、俺だけの問題ではない。カピウの、その子孫にまで関係する大きな問題だ。そのためなら、俺の頭なんかいくらでも下げる」
責任ある男が誇りと未来のために頭を下げる姿は、恐ろしいまでの迫力と美しさを放っている。家族を捨てて脱藩した竜馬にとって、これは非常に重かった。
「負けじゃ。キムンコルさん……でも、大事にはせんでくれよ?お尋ね者にはなりとうない」
「わかっている。今はまだ、その時ではない」
火縄銃の経験があったとしても、扱いの訓練は今日の明日では済むまい。かなり危ない橋であるが、竜馬はその橋を渡ることにした。
「それは構わんが……マスケットは高いぜよ?しかもこいつは輸入もんじゃ、普通なら十五から二十五両はするぞ?」
「小判はないが、これでどうだろうか」
すっと床を滑らせてきたのは、丼にすっぽり収まる程度の大きさの革袋であった。拾い上げようとしたが、見た目よりずっと重い。首をひねって中身を覗くとまばゆい輝きが見える。砂金だ、大粒の砂金がぎっしりと詰まっている。
「お、おおお?」あまりの驚きに語彙がすっとんで口をパクパクさせる竜馬を見て、キムンコルは笑った。
「びっくりしただろう?蝦夷には砂金が取れる川がいくつかあるんだ、やりすぎると川を汚して漁に響くから、今はぐっと小規模なんだがね。それでも大昔からの積み重ねがある、バカにならん」
「お、おう。心臓が止まるかと思ったぜよ」
「その革袋一つで一ノウ、大体二十両の価値がある。それをニ十個と……迷惑料にもう二つ渡そう」
竜馬の母の実家は両替商であり、彼も幼少期はその手伝いをしていたので多少の知識はある、砂金は小石や砂も含まれているが、それでもこの重さなら、キムンコルの言う価値を下回ることはあり得ないだろう。それが二十二個、合計で四百四十両になる。個人が持ち歩く金額としては破格も破格だ。盗んだものがこれだけの金に化ければ、文字通り大金星である。
「よし売った。明日、港へ取りに行こう。撃ち方はワシが教えちゃる」
竜馬が勢いよく膝を打つと、キムンコルは大きく頷いた
かくして翌日、銃と砂金は無事に交換された。二十二ノウの砂金はなかなかの重量だが、マスケット銃に比べれば手軽なものだ。
「ようし、ほいたら最低限撃てるまでは面倒見ちゃる。一発撃つから、見とき」
奉行所に勘づかれないよう、森の奥で調練することとした。コタンの男たちが押しかける。昨日までは竜馬を警戒して近寄らなかったのにすごい変わりようだ。好奇心が強いのは、見ていて気分がいい。
立て板に水。ぺらぺらと喋りながら銃口から火薬を流し込むと、弾丸を押し込んだ。
「火縄銃はわかるがか?ほうか、ほしたらここは同じじゃ。今回は省くけんど、弾丸を布で包んで押し込むと、弾が真っすぐ飛ぶようになる。内部の保護にもなるから、あった方がええぞ」
込め棒でしっかり奥まで突き固めたら、銃の側面にある撃発皿にも火薬を乗せる。
「こっちは点火用の火薬じゃ、少しありゃええ。まあ火縄と変わらんな。
一番違うのはここじゃ、ようく見ろ。火縄ではなく、フリント、火打石が挟んである」
撃鉄の部分をよく見せる。ネジで固定された火打石が、この銃のキモである。
「ほんで、撃鉄を起こして、撃発皿の蓋を閉じる。この蓋と火打石がぶつかって火花が起きる、これで火薬が爆発する仕組みじゃ。んで、撃つ。どけどけ、危ないぞ」
流れるように構え、引き金を引く。カシャンと撃鉄が落ちると火花が飛び、内部の火薬が炸裂、ズドンと打ち出された弾丸は、少し離れた的の端を捉えた。ぱらぱらと拍手が上がる。
「む……まあ、当たったからよしとしようか」
「ほう……弾が出るまでが速いな」
火皿の燃焼を奥まで引き込む構造上、引き金を引いてから弾が撃ち出されるまで、結構な時間差がある。マスケットは火縄銃に比べ、それが半分程度である。それだけで射撃の精度は格段に跳ね上がる。
「まあ……こんなところじゃ」
「素晴らしい、これは良いものを買った。さあみんな、練習しよう」
キムンコルの号令で、それぞれが銃を手にする。その様子を見ていると、キムンコルが話しかけてきた。
「まさかここまでしてくれるとは……ありがたい」
「世話になっとるからな、これくらいはしちゃる」
「すごいんだね、リョーマ」
気が付くと、すぐそばでカピウが竜馬の袴の裾を握っていた。どうやら、一連の様子を見ていたらしい。
「なんじゃ、カピウ。銃に興味があるがか?」
こくりと頷いたのを見て、竜馬とキムンコルは目を丸くした。しかし、
「怖いけど……みんなを守るには、きっと必要だから」
キムンコルの大きな掌が、その頭を優しく撫でた。
「泣いてばかりのカピウが、そんなことを思っていたとはなぁ……」
「いやいや、自分で一生懸命考えたんじゃろ?偉いぞカピウ。じゃが、今のカピウにはまだ早い、反動でひっくり返ってしまうからの。あと……五、六年もして手足が伸びきるまでは我慢じゃ」
「そしたら……リョーマが教えてくれる?」
「それはどうかのう。その頃にはアイヌの方が上手くなってそうじゃ」
「……そうだね」
あっさりとしたカピウの切り返しに、竜馬とキムンコルは大笑いであった。
流石狩猟民族と言うべきか、アイヌは手先が器用で飲み込みが良い。一人か二人志士に引き抜きたいくらいであったが、彼らを連れて江戸やらへ向かうのは悪目立ちが過ぎるし、いずれ不死身の志士を作る際も大反対しそうだと考え直した。
ともあれ、一か月もする頃には、多くの者がマスケット銃を使いこなせるようになり、コタンのアイヌもすっかり竜馬をニシパ呼びしてくれるようになっていた。
夏の終わりまでピㇼカムイ・ヌㇷ゚リに立ち入れない今、竜馬にはもはや蝦夷にとどまる理由がなくなってしまった。
その日、蝦夷の空は快晴であった。空に手をかざせば、染まりそうに青い。
「本当に世話になった、坂本ニシパ」
豪快に笑って、キムンコルは肩を叩いた。アイヌの別れは、軽快でさりげないものだ。
「いやいや、こちらこそ世話になりっぱなしじゃ。毎日たらふく食わせてもろうて、太ってしもうたわい」と腹を叩いてもう一度笑う。ぐいっと袖を引かれて振り向けば、やはりそこにはカピウの姿があった。
「リョーマ……本当に行っちゃうの?」
うっすらと涙を浮かべるカピウの頬を、竜馬はやさしく撫ぜた。
「ワシにはやることがある。なあに、いずれまた遊びに来る。世話になったのカピウ。次に会うまでには、少しは弱虫を治すんじゃぞ」
「絶対だよ!約束だよ!」
「ああ、カピウの泣き虫が治ったらな」
「じゃあ……これ」とカピウが竜馬の腕に腕輪を結わえた。タマサイと呼ばれる、ガラス玉を革紐に通した飾りだ。鮮やかな色遣いが小汚い竜馬の身なりの中で一点の光を放つ。
「ほう、きれいじゃのう。気に入った、ありがとうカピウ、大切にする」
「お守りだよ、リョーマか無事で帰ってこれますように、カムイに祈ったんだ」
「ありがとう、これだけでワシは不死身になれるがじゃ」
こうして竜馬は、コタンの人々に見送られて蝦夷を後にした。精一杯大声で呼ぶカピウの声が消えるまで、竜馬は何度も振り返り、そのたびに大きく手を振った。その日の空よりも明るい笑顔であった。
「さぁて!北は来るとこまで来た……次は南へ行ってみるかの!いや、一旦江戸に寄れば換金もできるかのう!」