第五章 函館編その3 宮古湾海戦ー土方歳三のケンカ法度ー
北の血での奇妙な彼らの生活に、ある船の情報が入ってきます。
そこそこ入っていたフィクションが、ここからかなり大きくなっていきます。
今回は特に長丁場です、お付き合いください。
春が近づくころのことである。駈足ですっ飛んできた馬が、陸軍府の庭先で荒々しく止まり、嘶いた。
「どうどう、どう」
馬上には鉄之助の姿がある。土方が奉行所 ――改め総裁府の榎本に呼ばれている間、馬術の訓練として、ぐるりと一周駆けてきたのだ。
「おおー、すごい。上手くなったね、テツ」
カピウが拍手で迎えた。ここしばらく、カピウは仕事のない日も顔を出すようになっていた。
「ああ、これなら戦でも活躍できる」
「あらま偉そうに、チビのくせに」
「関係ないだろ、やるか、やらないかだ」
「へー、言うようになったね」
「……乗せてやろうか?」
手を差し出すと、カピウは少し逡巡してから、その手を取った。
「あんまり飛ばすなよ、怖いから」
鉄之助も後ろに人を乗せるのは初めてだったので、馬をゆっくりと慎重に歩かせる。人間が歩くよりはやや速い程度にすると、さっきの駈足で身を切るようだった冷たい風も、幾分か和らいでくる。
「やっぱり蝦夷は、春が遅いんだな」
「内地はもう春なの?」
「うん。そろそろ桜が、梅はとっくに咲いてると思う」
「もう?こっちは早くても四月に梅だよ……おわっと」
生まれて初めて馬に乗るカピウにとって、馬上の揺れは未知の領域だ。少し揺れるだけでも、驚いて反社的に鉄之助にしがみつく。そのたびに鉄之助は、背中にカピウの体温と柔らかさを感じる。
「春が来ると……戦が始まるの?」
「そうだと思う。こんな風に遊んでらんないや」
蝦夷の冬は厳しい。新政府軍には厳しい蝦夷の冬を乗り越える技術も、熟練した海軍もなかったため、冬の間に大きな攻勢はなかった。この間に、如何に力を蓄えられるかが、蝦夷共和国の運命を左右する。
「土方ニシパと……テツも戦うの?」
「そりゃそうさ、土方さんは陸軍奉行並、陸軍で二番目に偉いんだ。土方さんが先頭で戦うから、陸軍は奮い立つんだ。自分はそのお付き、戦わないわけにはいかないよ」
「……怖いよ」
「ん?」
「テツや土方ニシパが死んだらと考えると……怖い」
カピウの声が震える。立ち直りつつあるとはいえ、竜馬の死は、まだカピウの心に深い傷を負わせているのだ。
「大丈夫だ。自分と土方さんは、今までいくつもの戦場を生き抜いてきたんだから」
「土方ニシパはなんかすごく強そうだけど……テツは強いの?」
「土方さんほどじゃないけど、そこらの連中よりは強いさ。新政府の刺客だって倒したんだ」
「そっかぁ……強いんだ、テツ。なんか意外」
「そうさ。安心しろ、自分と土方さんは不死身だ」
「不死身?じゃあ、二人はライピルカ・カムイ……火の鳥の血を飲んだの?」
「飲んでない、そんなもの要らない。特に土方さんはすごいんだ、戦場のど真ん中で胡坐をかいて座るもんだから、弾の方から避けていくんだ」
「弾の方から?そんなまさか、テツはそれを見たの?」
「見てないけど……だからあの人はここにいるんだ。だって想像つかないだろ?土方さんが跳び回って銃弾避ける姿なんて」
「……そうだね。そっかぁ……土方ニシパはそんなにすごい人なんだ……ん?」
「どうした?」
「じゃあ私はこの前、そんなに偉い人に殴りかかったの?」
「そうだよ、殺されてもおかしくない。だからキムンコルさんがあんなに謝ってたんだ。昔の幕府だったら二人そろって打ち首かもしれない」
「……あ、危なかった……」
今更震え上がるカピウに鉄之助は滑り落ちそうになる所だった。
「カピウ……お前なぁ」
うんざりして肩越しに振り返ると、カピウと目が合った。大きくて深い瞳に白い肌、通った鼻筋に赤い唇。いきなりそれらを間近で見たせいか、一瞬胸が高鳴った。
「……ッ!」
「ごめんて、もう土方ニシパを殴ったりしないよ」
「……分かればいいんだ」
「なんだよ、怒るなよテツ」
「怒ってなんかいないッ……いつも通りだ」
「ええ?嘘だぁ、なんか急に変だぞテツ……あ、土方ニシパ帰ってきた」
慌てて馬を止める。道の向こうから幾ばくかの書類をもって歩いてくる土方にすら、今の鉄之助は気付けていなかった。
「おう鉄。馬術か……ん?カピウも乗せて……邪魔したな」
「いいえ、そんなことはありませんッ。今、お茶を淹れます」
「……後でもいいぞ。いいじゃないか、もう一周して来いよ」
「いいえ、仕事優先です。さあ、カピウ降りてくれ」
「わかった。結構面白いもんだね、また乗せてねテツ」カピウはポンと鉄之助の肩を叩いて飛び降りる。それに無言で、すこしぎこちなく頷いた鉄之助が馬をつなぎに行った。土方は薄く笑いながらそれを見ていた。
「若ぇな……いいや、俺が老けちまったのかねぇ」
独り言が聞こえたのか、カピウが不思議そうな顔をしていた。
執務室には土方と鉄之助だけがいた。カピウに聞かせられる話ではない。
椅子に腰かけた土方は、地図やら船の図面やらを広げその表面を撫でまわしている。
「新政府は開陽の偽装に気付いていない。大成功と言っていいだろう。だが、その分開陽に匹敵する軍艦を引っ張り出してきた」
「開陽に匹敵?そんな軍艦があるんですか?」
「ある。世界の広さが恨めしいよな」
甲鉄。排水量は二千に及ばないが、恐るべきはその防御力である。開陽よりひと世代新しい軍艦であり、アメリカの南北戦争の為に建造されたが、終戦で行き場所をなくしていた。これが江戸湾に運び込まれ、新政府に購入されていた。
「今まで開陽を鉄の船と呼んでいたが、ありゃ厳密には『鉄を張った木の船』だ。銃程度ならびくともしないだろうが、近代砲が直撃すれば、ガワはともかく内側が耐えられん。そうやって船底を破られれば沈んでしまう。
だが、甲鉄は枠も骨組みも全てが鉄、文字通りな。大砲が直撃しても抜けん」
「ええ……バケモノじゃないですか」
「しかもこのバケモノは足も速い。帆を張らなくても、蒸気だけで走れるらしい。
積んでる大砲の数だけは開陽に分があるが……開陽の大砲がずらっと腹側に固定されていただろ?甲鉄は、こう、回るらしい。大砲を乗せた台座が旋回するそうだ」
「旋回?」
人差し指を横向きに伸ばし、手首を捻って見せた。開陽と違い、相手が射線に入るのを待つ必要がないのだ。瞬間最大火力は劣っても、無駄になる火線が存在しない、効果的な装備である。その分多くの砲弾や武器が積めるのだ。
「……やたら強くないですか?」
「そうだ、やたら強い」
甲鉄は強い。攻撃力だけはわずかに開陽に分があるが、防御力と速力は遥かに甲鉄が優れている。しかも大砲が直撃しても甲鉄が沈むかは怪しい。甲鉄の情報は榎本からの受け売りであるが。例え開陽が健在であっても、真っ向勝負では勝てないだろう。
「そう……そのやたら強いバケモノを、海軍は奪うつもりでいる」
「は?」
開陽が沈んで海防に穴が開いた。その上甲鉄は強い。ならば甲鉄を奪えば両方を解決できる!という、無茶苦茶な発案であった。
「無茶苦茶ですよ……」
「お前の無茶が伝染したんだろ。作戦もすごいぞ、無茶なんてかわいいもんじゃない」
土方が嗤った。回天と蟠竜に外国の旗を揚げさせて接近、甲板に上陸部隊を突貫、手早く制圧して強奪する。これが全てであった。
「手早く制圧って……具体的に何をするんですか?」
「さあ?頑張るんだろうな」
「外国の旗を揚げて接近って……他に偽装は?」
「しないらしい。ほら、この前の嵐で回天のマストが一本折れたろ?二本マストなら見た目で気付かれないだろう、ってさ」
「見た目?……え?まさか昼に突っ込むんですか?」
「らしいぞ。まさか昼に来るはずもない、と意表を突くんだとさ……なあ鉄、どう思う?」
土方が嗤った。笑っているのではない、海軍のずさんな戦法を嘲り笑っているのだ。
「え?あの……バカなんですか?海軍は」
思わず口走った鉄之助に、土方は唇を吊り上げ、ふんふんと頷いた。
「そう見えるか。じゃあ、お前ならどうする?」
「まずは夜襲にすべきですッ。外国の旗を掲げたって見る人が見ればすぐ船はバレます。そもそも甲板にいるの日本人ですし。最初から外国の舟を装うより、ギリギリまでどこの舟か判らないほうが効果的ではないでしょうか?
仮に奪った後も、昼間なら慣れない船を水平線の向こうまで走らせなければなりません。しかし夜なら?夜なら、ずっと簡単に相手を撒けるじゃあありませんかッ」
土方は小さく頷く。
「ほほう、それで?」
「回天と蟠竜の役割を決めましょう、回天は敵をひきつけて砲戦。甲鉄の大砲の数が少ないなら、好都合です。その間に蟠竜が接近して突入したほうがいいッ」
「ふむ……どうやって制圧する?」
「それは……新撰組ですッ。陸軍、その中でも最も精強な新撰組を送り込みます」
「それで?制圧できるのか?出来なかったら?」
「ええと、出来なかったら……火を放ちますッ。万が一奪えなくても、航行不能に追い込めれば儲けものです」
物騒なことを真っ直ぐの目で言い張る鉄之助に、土方は頷いた。
「なるほどな。及第点をやろう」
「恐れ入ります。ちなみに海軍の案は?」
「落第。乗り込んで奪うという発想以外全部バツだ」
土方はずばっと立ち上がると、今度こそ笑った。
「見とけよ鉄。世にも珍しい土方歳三の海戦を見せてやる。
情報では、甲鉄は三月二十日ごろには三陸沖に来る。三陸に大型軍艦が停泊できる港はそう多くない。宮古、釜石、あとは気仙沼と石巻ぐらいだな。
忙しくなる。寝る暇もねえぞ、覚悟はいいな?」
「ハイッ!」
土方の練り直した戦術は、榎本の案として海軍に通達された。
蝦夷共和国で自分より多くの死線を潜り抜けた者はいない。土方にはその自負があった。しかし海軍と陸軍は同格の存在である。海戦に関して素人の土方の案を、どうだと言わんばかりに叩きつけしまってては、彼らのメンツを潰してしまう。だから榎本の案とした。共和国内での不和を生まない為の配慮であった。ただし、蟠竜に乗る突入部隊は土方の直轄とした。
そう、土方は蟠竜に乗る。海軍の案では土方は検分役として、ある程度の現場判断権を許された指揮官として回天に乗る筈であったが、自ら突入部隊を率いることにした。
「無理を言う男だな、土方さんは」
土方の上役に当たる陸軍奉行、大鳥圭介は苦笑いであった。榎本の口から通達させたり、部隊編成に口を出させたりと、この裏工作のために、彼には色々と無理を言ってしまった。
「申し訳ありません。ですが、やらねば蝦夷共和国はおしまいなのです」
「その上……小姓の彼を副官に任命ですか」
「ええ。この戦いの準備には、信用できる者に動いてもらわないと、とても間に合いません。ただの小姓に命令されるのは、現場も不愉快でしょう。形だけでも私の副官なら、不平不満は私に飛んでくる。私ならそんなものひと睨みだ」
「なるほど……噂より随分と、面倒見のいい鬼ですな、土方さんは」
「仮にも一国の幹部です、若者への指導も必要でしょう?若者に実績を積ませ、未来の指導者を育成する。叩き上げだ、血筋で襲名するよりずっといいでしょう?」
少しだけ早口になる土方に、大鳥は笑った。
「そういう事にしましょう。わかっています。皆、必死なのだから」
そう答える大鳥の目の下にも濃いクマがあった。みな、戦っているのだ。
それから土方や鉄之助は調練の合間を縫うように、連日寝る間も惜しんで函館とその近隣を駆け回った。
「何人かフランス人の軍事顧問いるだろ、とっつかまえてこの絵を図面におこさせろ。滑腔砲使えよ、絶対にな!」
「釧路や空知の鉱山をとにかく当たって下さい!石炭をかき集めて下さい!量ですか?ありったけです!……え?小僧の命令が聞けるか?違いますよヤだなぁ、土方陸軍奉行並から指示ですよ、そこを何とかお願いしますよ、ね?」
最初こそ現場では「こんな小僧の命令が聞けるか」という多少の反発もあったようだが、土方の命令を伝えに来た、という形でどうにか現場を動かした。
「函館や松前の鍛冶屋から職人を総動員しろ!新政府軍に踏み潰されたくなけりゃ手伝えってな!」
「函館造船所と弁天台場兵器工房のうち、空いてるところを全部使わせてくださいッ。鍛冶職人を連れてきます。あ、図面はこれです、よろしくお願いします」
「蝦夷中から遊んでる鉄をかき集めろ、本州からの仕入れは無理だ」
「遠くまで飛ばない?大丈夫、そのへんは承知の上なんで、ぶち込めればいいんです」
「さあさあ急げ急げ!三交代制で回せ回せ!炉を焼き潰しちまえ!」
「調練は……ああ、偽装開陽の甲板使いましょう、条件も多少近いですし」
函館の炉という炉が昼夜ぶっ通しで赤々と燃え続け、弁天台場の工房では職人たちが槌を振るう。市中の小さな鍛冶屋まで駆り出して、土方はある物を作らせ、更にそれの激しい調練を山と積んだ。
そんなこんな連日の激務に二人は疲れ果てていた。しかし、兵の士気を考えると、目のあるところでだらけることはできない。二人が唯一ぐったりできるのは、一日一度の休憩、カピウが持ってくる茶請けでの一服の時間だけであった。
流石に軍事機密満載の土方の執務室にカピウを通すわけにはいかない。隣の部屋で座卓を囲んでいる。
「二人とも……大丈夫?土方ニシパなんて、顔真っ青だよ?」
「大丈夫、土方さんは元々白いから。実は急に蛾とか出てくるだけで真っ青になるから」
「うるせえな……なんで知ってんだよ……」
「そりゃそうですよ、何年仕えてると思ってるんですか」
「ほら、これ食べなよ。疲れてるときは甘いものが欲しくなるでしょ?」
「ああ、そうだな……お、美味いなこれ。サルナシの干したやつか、おお、久しぶりに食ったな」
口の中でサルナシを転がしながら茶を啜る。甘酸っぱさが体にじんわりと沁みる。
「自分は初めて食べましたけど、美味しいですね……そうだカピウ、アイヌが集められる中で、燃えやすい物とかない?」
「燃えやすいもの?うーん……松脂とか、白樺の皮とか?……燃えるものに染み込ませれば、ヒグマの脂もいいかな?」
「はいはいはい……うん、いいですよね?」
「上出来だ」
ちらりと見やる鉄之助の目線の先で、いつの間にか土方は座布団を枕にしていた。しかし即答を返したあたり、会話は耳に入っていたらしい。
「それも一緒に集めて欲しい。食料と一緒に持ってきてもらって、その二つは武器庫の方に運んでもらいたいんだ」
「うん……手配しとく」
「無理にとは言わないけど……なにかまずいことが?」
鉄之助がカピウの顔を覗き込んだ。いつぞやニシンを売り込んだ時と比べて、明らかに声の調子が低い。
「ううん……いや、その様子だと、戦に使うんだろうなぁ……って」
「ああ……まあね」
和人と比べ、アイヌは殺人を忌避する傾向が非常に強い。自分達が売った物資が戦に直接使われるのは、抵抗があるのだろう。すっかり軍人になっていた二人は、連日の激務ですっかりそれが抜け落ちていた。言葉に詰まる鉄之助に、土方はむくりと起き上がった。
「すまん。我らの配慮が足りなかったな……悪いことをした。辛いなら、無理しなくていい。食料や薪だけでも、十分助かっているんだ」
土方が優しい目で語りかける。だが、カピウは少し考えて首を横に振った。
「いいんだ。蝦夷共和国の……戦ってる人たちに食料を売ってる時点で、戦の手助けだからね。気にしないで……いや、手伝わせて欲しい。二人の力になれるのは、うれしいから」
「……そうか、かたじけない」
そう言って土方は干したサルナシをもう一つ口に放り込んで、再び寝転がる。それを口中で転がしながら続けた。
「それじゃあ……明日の茶請けも、甘いものを所望しようか」
「うん、わかった。楽しみにしててね」
「いつだったか、百合根の団子に蜂蜜をかけたやつがあったろ、あれが美味かった」
「ああ、土方ニシパ舌肥えてるね、あれはすごくいい粉使ってるんだよ」
「やっぱりな、やたら美味かった」
「……土方さん甘いのもそうですが、もちもちしたの好きですよね、食感というか。白玉とか……あ、甘くなくてもおこわも好きですよね」
「あ?……ああ、言われてみればそうだな」
珍しく素直に同意する土方に、カピウと鉄之助は目を合わせて笑った。
それからしばらく経った三月十九日深夜。函館港から極秘に三隻の船が出航した。甲鉄強奪作戦の決行である。当初の出撃は三月二十一日ごろであったが、昼夜問わずせわしなく動き、激しい調練を積む土方たちに煽られてか、蝦夷海軍も俄かに活気づき、出撃は二日前倒しされた。
出港する蟠竜の甲板には、軍服姿の土方に並んで鉢金と襷掛けをした鉄之助の姿があった。
「いいな鉄。この戦で、お前は俺の片割れを務めてもらう。今までの仕事を回すための名目じゃない、本寸法の副官だ。俺一人じゃ前線が回らん」
けろりと言う土方に対し、鉄之助は身震いしてみせた。
「じ、自分のような若輩者が……よろしいのでしょうか?」
「お前も武士なら腹を括れ。あれの調練も、後半はお前に任せてたろ、できないとは言わせん。他にいるか?俺と、お前以外に指揮できる奴」
「いませんッ」
即答である。例え若くとも、未熟者でも、積み上げた研鑽は自分のものだと、鉄之助には確信があった。
「できるな?」
「はいッ」
鉄之助が力強く答えた。土方はこの会話を、わざわざ蟠竜の甲板でやってみせた。突貫部隊に「こいつは俺の片割れだ」という念を押したのである。
艦隊の先頭は回天。排水量千六百トンは開陽と比べれば小さく聞こえるが、屈指の大型艦である。外輪船でありながら四百馬力の蒸気機関にモノを言わせる快速艦が旗艦を務める。
それに曳航される帆船が美賀保である。元は商船であったが幕府に購入され、艦隊では運送や輸送や予備を務めていた。
最後に蟠竜。排水量三百七十トン。排水量の割に船体は回天の七割程度とこちらも十分に大型艦である。かつてイギリス王室の遊覧船として建造されながらも、幕府の手によって砲艦に改造された異例の船である。バランスの取れた美しい外装と、かつてを思わせる豪華な内装が施された船である。
開陽なき今、回天と蟠竜は蝦夷共和国海軍の主力である。今後の戦況を大きく左右するこの作戦にこの二隻を投入するのは当然だ。だが、美賀保は浮いている、悪い意味で。
「なぜ今更、あのおんぼろ戦を引っ張り出すのだろうか?」
「囮にでもするのだろう、船の維持だけでも大変だからな、厄介払いにちょうどいい」
と水夫たちがぼそぼそ話しているのが聞こえた。そう、美賀保はボロボロだ。本来船というものはあっという間に劣化する。塩水に弱い木と鉄の塊を海に浮かべるのだから、当然のことだ。そのため船は常に保守管理が必要なのだが、これが非常に金と人手がかかる。当然、戦力になる大型の蒸気船が優先されるため、後回しになった美賀保は、かなり劣化が進んでいた。とても戦力になりそうにない。実際、人員も最低限船を動かせる人数のみで、戦闘員は乗っていない。
美賀保起用に対する酷評の嵐を聞くたびに、土方と鉄之助は唇の端が吊り上がっていく。これでよいのだ。誰がどう見ても戦力にならない船だからこそ、出来ることがある。
翌二十日、八戸近辺に寄港して情報収集すると、甲鉄は確かにこの南、宮古湾にいることが分かった。本州は既に新政府の支配下である。長居するだけこちらの行動が筒抜けになる。三隻の艦隊は補給だけ済ませてすぐに港を発った。
22日夕暮れ、甲鉄を含む新政府軍の艦隊が停泊する宮古湾は目前である。一旦、ここで美賀保の曳航を切り上げ、ここで待機させる。
「手はず通り、一刻経ったらゆっくり静かに入ってこい、一切戦わなくていいからな!」
甲板から声をかけると、水夫が手を振って答える。こちらは一旦これで良い。
次に移ろうとしたところで、蟠竜の蒸気機関に異常が発生した。ボイラーが不安定になったらしく、出力が大きく落ちてしまったのだ。江戸を離れてそろそろ一年、本格的な整備ができない環境での酷使が、ここへきて露呈したのだ。航行不能でこそないが、まるで速力が出ない。これからというところで出鼻をくじかれたせいか、船長に詰め寄る土方は久々に鬼の形相であった。
「すぐには直らんのだな?」
「応急手当はしますが、気休めです。本格的に修理するとなれば、一度どこかの港に入る必要があります」
「くそ……こんな時に」
蒸気船はボイラーに火を焚き湯を沸かし、その蒸気でタービンを回し、その力で外輪やらスクリューやらを回す仕組みである。一度ボイラーの火を落とせば、再び湯が沸くまでは並の帆船以下の速度しか出せなくなる。
「回天に曳航を頼みましょう」
「それしかないか……」
戦に限らず勝負は足が速ければ速いほど有利である。それが曳航という手を引かれて突っ込むような幕開けは著しく不安だが、背に腹は代えられない。旗を上げさせる。船舶間の意思疎通には、ある程度の定型文を決めた旗の組み合わせがあるのだ。
蟠竜が上げた旗は「機関異常」「曳航求ム」であった。だというのに回天は減速どころか加速していくではないか。どういうことだと目を見張ると、回天の旗による返信は「敵艦隊発見」「応援不可」「先行する」であった。
「馬鹿野郎!それができねえから言ってんだろうが!」
思わず声を荒げるが、その程度で回天が止まるはずもない。敵艦隊を発見したこの状況で、もたもたするわけにはいかない。蟠竜はますます煙を吹き出し懸命に追いすがろうとするが、その差は開く一方であった。
ばたばたと甲板に上がってきた鉄之助は、どこから持ってきたのか双眼鏡をのぞき込んでいた。
「回天がアメリカの旗を掲げていますッ……接敵します!」
海上では日が沈むのがずっと早く感じる。既に夜のとばりが下りかけていた。マストを失い変わった船影と、闇と、嘘の旗の三つの偽装工作はどこまでもつだろうか……昼間なら、もうバレていただろう。
「鉄之助……よく聞いとけ。土方歳三のケンカ法度その一だ『おっぱじめるまで徹底的に隠れろ』だ、闇でも嘘情報でも何でもいい、一秒でも見つかるのを先延ばしにしろ」
「はいッ……あ、甲鉄甲板が騒がしい……撃ってきた!バレました!」
いくら新政府の海軍が不慣れであろうと、流石にこれで制圧されるほどの間抜けではなかった。
砲撃音が轟く。戦いの火蓋が切って落とされた。
「回天は接近を諦めて旋回、砲戦に移行したようです」
「ようし……折角の作戦をブッ壊すほどバカじゃねえか。船長、取り舵、甲鉄の背後から急襲をかける」
土方が考え榎本が下した作戦では、本来蟠竜は回天と同行し、回天の横をすり抜けて突貫を仕掛ける予定だったのだが、仕方ない。せめて背後を突こう。
「土方さん、甲鉄はもう蟠竜にも気付いているのでは?」
「そうだろうな。だが、気付いても対応できるとは限らん」
甲鉄の旋回砲塔は強力な武器だ。こちらは船の腹を見せねば砲撃できないのに、向こうは船がどこを向いていても砲撃できるのだから。しかし、甲鉄はその分砲の数自体は少ない。現に甲鉄の甲板の大砲は、正面に三百ポンドの超大口径砲が一門、後部左右の副砲は七十ポンドが二門。副砲も蟠竜の主砲よりよっぽど大きいのだが、既に回天と砲弾の応酬を始めている甲鉄の甲板は、迂回して突っ込んでくる蟠竜にまで手が回らない。
「鉄、土方歳三のケンカ法度その二『役割分担はきっちりやっとけ』だ!」
「はいッ!」
人間、多少頭の回転や手先の器用さに差があっても、所詮腕は二本しかない。一度にやれることはには限度がある。だから、出来ることは事前に可能な限り分担すべきだと土方は考えている。丁度今、回天が砲戦、蟠竜が突貫を分担しているように。
「このまま接近しろ!そんなでっかい大砲じゃ、至近距離からは撃てまい」
大砲の砲弾は銃とは違い、放物線を描いて相手にぶつける。そのためやや上を向けて撃つ必要がある。これが長射程を可能にしているのだが、反面巨大な砲弾を打ち出すため、大口径砲は火薬の使用量も、砲口から吹き出す炎や衝撃も比例して巨大になる。そのため、水平や俯角で撃つことはあまり想定されていない。無理に撃てば甲板や人員の損傷につながるのだ。
ここで一気に距離を詰めたいのだが、蒸気機関が不調なせいでそれができない。
「クソ……鉄!揚げろ!」
「はいッ!」
双眼鏡を放り出した土方の後ろで、鉄之助が誠の旗を掲げた。篝火に照らされ、夜の海にうっすらと浮かび上がる巨大な誠の文字は、甲鉄に対し新撰組ここにあり、土方歳三ここにありと宣言していた。
「さあ、俺はここだぞ!雑魚どもよぉく狙え、陸軍奉行並の手柄首だぞ!」
どんどん近づく甲鉄と蟠竜の間で激しい銃撃戦が始まる。距離はどんどん縮まるものの、両者ともに揺れ動く甲板上では当たる物も当たらない。その上向こうのほとんどは土方狙い、大してこちらの兵は落ち着いて甲鉄の甲板の兵を撃てる。
「どうした下手くそ、当てられんのか?俺の首で出世したくないのか?」
土方が敵兵を煽りながら甲板をひらひらと踊るように歩く。それに乗せられ怒った兵の狙撃など、ここが陸上でも当たる気がしない。思うつぼだ。挑発というものは冷や汗一つかけば崩れる。降り注ぐ銃弾の雨の中、土方は薄笑いを浮かべて呟く。
「土方歳三のケンカ法度その三『怒ったら負け、焦っても負け、怯んでも負け』だ」
もはや甲鉄との距離は至近距離である。頃合いだろうと土方は、懐から小さな呼子笛を取り出した。甲高い笛の音が戦場を貫くと、どこかで鉄之助が声を張り上げるのが聞こえた。
「改造捕鯨砲隊、砲撃準備!」
甲板上にズラッと並ぶ小型砲十門。元はただの旧式大砲であるが、珍しいのは装填される砲弾である。巨大で凶悪な先端が砲口からはみ出ている。元は捕鯨用の銛である。これこそ、土方たちが函館の鍛冶屋を総動員して作り上げた改造捕鯨砲であった。
この時代、捕鯨砲は北欧の一部では実験的に導入されていた。しかし、ときに発明というものは同時期に複数発生することがある。銛による捕鯨文化と大砲があれば、それを思いつく下地は世界中に点在しているのだ。一部で使われていた原始的な捕鯨砲に目をつけ、フランス人軍事顧問に再設計させ、強引な軍事転用を施したのだ。
銛と蟠竜は太い綱で結ばれている。銛の数は予備も含めて数十本、甲鉄の動きを止めるもよし、強奪できれば曳航して帰るもよし、まさに切り札であった。無論銛の形状もクジラのものとは異なる。クジラの皮も分厚かろうが、甲鉄の装甲はそれ以上。鋭くするよりも、先端から鎖分銅を何本もぶら下げたり、頑丈な鉤爪を仕込んだりと、刺さらなくても至る所に絡みつくようにしてある。
「準備次第砲撃開始ッ!各自よく狙え!」
捕鯨砲は取り回しを考え小型のものを使っている。これが綱のついた巨大な銛を打ち出すため、有効射程は精々七間程度、それでも甲鉄の装甲を打ち抜くのは不可能だろう。
狙いは上部構造物である。鉄の船だがどでかい煙突やマストまで鉄の塊ではないし、低くて狙いにくいが甲板は木製、他にも操舵室、ましてや扉は確実に薄い。更に言うなら窓や換気口も狙い目だ。万が一煙突を潰せれば、蒸気機関の機能停止や煤煙の逆流によるいぶりだしすら狙える。そう、甲鉄は決して無敵の軍艦ではないのだ。
もちろん銃撃と同じく、揺れる船の上で精密な砲撃は至難の業である。だが捕鯨砲はそれぞれに装填手、射撃手、照準手を配置してある。それぞれの砲が各々揺れと機会を見計らって撃てば良い。この至近距離で試行回数を稼げば、消して分の悪い勝負ではない。
「ジャンジャン打ち込め!甲鉄をがんじがらめにしてやれッ!」
これによって甲鉄甲板は地獄絵図となった。
如何に甲鉄が鉄の船と言えど、そこで戦うのは人間だ。回天の砲撃は甲板に穴を開けるし、人間なら吹き飛ばす。砲撃を無視することは決してできないのだ。そこに蟠竜の突貫が突き刺さり、しかも捕鯨砲で拘束まで仕掛けてくるのだからたまったものではない。
回天の砲撃に気を取られれば蟠竜が食らいつき、蟠竜を振り払おうとすれば回天の砲撃が降り注ぐ。そうしている間にも銛につながれた太い綱は揺れを複雑にし、回天への反撃はますます当たらなくなっていく。もちろん捕鯨砲も止まらない、時間経過で蟠竜を振り切ることもどんどん難しくなっていくのだ。
そうしている間にも、地獄の底は更に開いていく。遂に蟠竜が接舷したのだ。誠の旗が戦場の風に大きく翻った。土方率いる新撰組と土方軍歴戦の猛者どもが、一斉に甲鉄へと飛び移る。
「新撰組進め!今夜は俺が死番だ!斬って斬って斬りまくれ!」
土方を先頭に切り込み、更なる猛攻を仕掛ける。
「新政府はイギリス式らしいが……イギリスは教えてくれたか?土方歳三の対策をよ」
閉所の切り合いで新撰組に敵う者はいない。否、世界中探したっていてたまるか。土方には絶対の自信があった。目の前の副砲を瞬く間に制圧すると、半数を主砲の制圧へ向かわせ、自らは後部の操舵室へ向かう。
「――!」
背筋にうすら寒い気配を感じ横っ飛び、物陰に隠れると同時に銃声。それが一つや二つではない。嵐のような無数の連射に、反応が遅れた数人が巻き込まれ、ハチの巣になった。
「な、なんだ今の?」
懐から手鏡を取り出し、覗き込む。台車である、やたら大きな車輪の間に据え付けられているのは、十本ほど束ねられた銃と、そこにつながる帯状に纏められた金属薬莢の弾丸である。
「が、ガトリング砲だとぉ……アメリカの最新兵器じゃねえか、なんでそんなものが……」
後部のハンドルを回すと束ねられた銃身が回転し、機械式に装填と発射を繰り返す。文字通り弾丸の雨をばら撒く兵器であった。そういうものがあるとだけは聞いたことがあった。しかしまさか、こんなところで遭遇するとは夢にも思わなかった。
「いかんな」
ここで隠れているわけにもいかない。あれが気まぐれを起こして蟠竜甲板に狙いを変えれば、鉄之助や捕鯨砲は一巻の終わりである。これが一対一の勝負であるならば、とにかくやり過ごして無駄撃ちを誘い、弾切れを誘うのもアリなのだが今日はそうもいかない。甲鉄は単独行動ではない。目視では甲鉄以外の軍艦があと三隻、輸送艦が四隻は見える。泡を食っているうちにカタをつけねば、こちらが押し切られてしまう。仕方がない、土方はあっさりと強奪は諦め、次の作戦に切り替えた。呼子を二回、長く吹き鳴らした。
蟠竜甲板、鉄之助は最前線にいた。作戦の要である捕鯨砲を、その射手たちを守るべく、自ら躍り出て、左手には誠の旗、右手には刀を構え、獅子奮迅の働きであった。
「落ち着けッ、銛はまだまだある!丁寧に、とにかく当てることを考えろ――むッ?!」
聞こえた。銃声砲声怒号に悲鳴、船がぶつかり軋む音、混乱を極める大混戦の中でも、土方の呼子が二度、長く鳴ったのが確かに聞こえた。
「一番から五番は砲撃中止!第二段階に切り替えッ!六番から十番は続けろッ!遅くなってもいいから煙突を狙えッ!
投擲部隊前へ!味方の背中に当てるなよッ!」
鉄之助の号令に、十数名の兵隊が飛び出してくる。全員が大きな背負い籠を背負っている。中身は、茶碗を二枚貝のように合わせ、縄で縛った簡素な弾であった。
「焦るな!よく狙え、山なりで相手の甲板に放り込めッ!投擲開始ッ!」
「投擲開始ッ!」
鉄之助の声は良く通る。投擲開始の号令と同時に、土方も懐から同じものを取り出し、ガトリングへ向けて投げつける。反射的に火を噴いたガトリングがそれを打ち落とすと、それは空中で粉々に砕け、中身をばら撒いた。
「うわっ……なんだこれ!くせえ!」
中身のどろりとした粘液は、油で伸ばした松脂に、白樺の樹皮をたっぷり混ぜ込んだ、簡易燃料弾である。ヒグマの脂も混ぜたせいか、かなり粘りが強い。次々と投げ込まれる燃料弾に、甲鉄は所構わず、甲板もマストもどこもかしこもベタベタである。
「上出来だ」
土方がつぶやくと、再び蟠竜から鉄之助の号令が響く。
「一番から五番、装填完了次第発射!今度は上から浴びせかけろ!焼夷攻撃開始ッ!」
砲声。五本の捕鯨砲に銛の代わりにぎゅうぎゅうに詰め込んだのは、油を染み込ませた紙や布、綱の切れ端である。当然砲身内での炸裂はそれらを悉く引火させる。
「土方歳三のケンカ法度その四『無理なら目標は妥協しろ、なんにもできねえよかマシだ』ってな」
真っ赤な火柱となって夜空に噴き出したそれらは、夜風に煽られてふわりと広がり、甲鉄に火の雨を浴びせかける。もちろん甲板には、土方が投げたものと同じ、ねばつく脂の着火剤が広がっている。
「焼き討ちだぁああっ!」
誰かの絶叫が聞こえるがもはや打つ手はない。一瞬で甲鉄の甲板上は火の海となった。いきなりのことに慌てふためく新政府軍に、土方はにやりと嗤い、陽炎の中ゆらりと立ち上がった。
「奪えねえなら……丸焼きにして沈めてやらあ……」
回天による砲撃。蟠竜による捕鯨砲の拘束からの切り込み部隊。焼き討ち。三本柱の攻撃は、甲鉄の応戦能力をとっくに超えていただろう。もはやどれから手をつければいいのか、明確な答えを出せる者はいない。ダメ押しに投げつけた着火弾はガトリングの射手の足元で広がっていく。
「撃ってみろよ。丸焼けになりたきゃあ」
実際にガトリングの発火炎やら廃薬莢やらで足元まで引火するかは分からない。しかし、自信満々に言い切れば、燃えるかもと一瞬躊躇わせることはできた。
その隙に一気に間合いを詰め、飛び蹴りで射手を思い切り蹴り飛ばす。
「おっし!」
ガトリング砲を強奪した土方は渾身の力でそれを押し、蟠竜とは反対側の舷墻へつける。そこからは、甲鉄の異変を察知した他の船から、応援の兵隊を乗せた小舟が近づいて来るのが見えた。土方はそいつらにガトリングを向け、間髪入れずにハンドルを回した。
「これでも喰らえやぁっ!」
雷鳴をつなぎ合わせたような炸裂音と、文字通り弾丸の嵐が、応援の小船を蜂の巣にして吹き散らしていく。目をらんらんと輝かせ、血の雨を撒き散らしての大暴れ、土方にとって久しぶりの楽しい大喧嘩であった。
「ふふん、こいつは爽快だ。気分いいぜ、蝦夷でも買えねえかなァ!」
連射、連射、まだ連射。近づく小船を沈めきった頃には、すっかり弾切れであった。
「新選組の土方だ!」
ガトリングの乱射に心奪われている間に、新政府軍の兵隊に取り囲まれていた。壁を背にして相手は五人。剣術だけでは切り抜けられないが、ここは剣術道場ではない。声をかける暇があれば斬りつけねば、この男は止められない。
「邪魔すんじゃねえよ三下ぁ!」
力任せにガトリングを回頭、こちらとの間に割り込ませる。弾切れを知らない連中が怯んだ隙にガトリングを蹴り飛ばして一人を撥ね飛ばす。更に流れるように拳銃を抜いた、二発打ち込みもう一人。包囲は一瞬で三人まで減った。
「どうしたよ。新選組の土方がいるのに、見てるだけか?」
炎燃え広がる甲板で、鬼神の如き戦いを繰り広げる土方の姿が、蝦夷共和国軍を更に奮い立たせる。
「この賊軍共が!」
「見栄を張りたきゃ殺してみせろよ、芋と蝙蝠のクソッタレどもがよぉ!」
土方の戦い方は見苦しく泥臭い。目潰しや足払いは当然のこと、ハッタリも挑発も、背後からの不意打ちも何でもありだ。だからこそ、生き抜いた者勝ちの戦場でのみ、鬼のように強い。
「どうした官軍サマよぉ、賊軍に三対一で押し切れねぇのか?あ?
なァにが官軍だ、そのうち攻めっ返して、てめえらを賊軍に押し込んでやるから楽しみにしとけ!今から阿蘇にでも隠れといたらどうだ?あれ?イギリスにやられて焼け野原だったか?悪いなぁ、ド田舎だから知らねぇんだ」
口汚く罵り、吠えては切り結ぶ。しかし埒が開かない。一度吹き切らした援軍も、再び集まりつつあるようだ。新政府軍はみるみる数を増やし、甲鉄だけではなく、蟠竜にも接近しつつある。現に土方の包囲は斬っても斬っても増える一方だ。
土方の罵倒に乗せられて突出してくる馬鹿はどうとでも斬り伏せられるが、ジリジリと包囲を詰められるのは厳しい。気がつけば、すぐ後ろは舷墻、壁際まで追い詰められた。更にその上には、吹き散らされて泳いできたと思しき新政府軍の士官の姿まであった。既に刀を抜き、飛びかかる体制である。
「げぇ……え?」
好機と見たか、包囲網が一気に飛びかかる。しかし、次の瞬間蹴散らされ甲板に倒れ込んだのは、切りかかった新政府軍の方だ。舷墻から飛びかかった士官が蹴散らしたのである。
「やはり土方さんでしたか……相変わらず、やり方が派手だ」
「お前……斎藤か?」
「はい」
この平坦な即答、肩越しに見せてくる僅かに微笑むような顔、紛れもなくかつて会津で別れた斎藤一であった。
「なんで……こんなところに?」
「偽名で新政府軍に潜り込んでおりました」
唖然とする土方に、斎藤はさも当然と言うように答える。
「話は後です。紛らわしいのでこれだけ」
手早く額に巻きつけたのは、誠の文字が刻印された鉢金。新選組の装備であった。
「お前……」
「さあ、切り抜けましょう」
斎藤一は会津で戦った土方軍の、たった一人の敗残兵であった。しかし、一騎当千の敗残兵である。洗練された剣技も、泥臭い小技も使いこなす斎藤は、まさに清濁併せ呑む達人であった。
銃撃も、包囲も、この二人の前には意味がない。互いの頭の中を読んでいるかのような連携は、混乱する新政府軍を翻弄していた。何より大きいのは『新政府軍内に敵が紛れんでいた』という事実が広まることだ。兵隊同士の疑心暗鬼は、果てしない士気の低下を招く。
「このまま焼け落ちるまで粘るのですか?」
「そのつもりだったが……そろそろ時間だ」
「時間?どういう意味ですか?」
「土方歳三のケンカ法度その五『ここぞの不意打ちに全力をぶち込め』ってことさ」
土方の視線の先には、甲鉄も蟠竜も回天も無かった。ただゆっくりと湾に侵入する帆船があった。先程回天から切り離された美賀保である。事前の手筈どおり、一刻待って突入してきたのだ。
蝦夷共和国の軍艦が現れ、大混乱大混戦の宮古湾内において、おんぼろの上に武装もしていない帆船がゆっくり入ってきたことなど、新政府軍の誰も気にしている暇がなかった。
甲板に兵隊の姿もなく、銃や大砲を持ち出す気配もない美賀保。それがゆうゆうと進む先は甲鉄でも、回天でも、蟠竜でも、ましてや新政府軍の他の船でもない。港である。
「港は絶対に動けねぇだろ?だからどんなにゆっくりな弾でも、当たるんだ」
今さら異変に気付いた連中が散発的な砲撃を開始する。いくらおんぼろ帆船であっても、排水量八百トンの船を瞬時に沈めるのは難しい。甲板にちらりと火の手が上がるのが見えた。船の進路を固定した時点で水夫は火を放って海に飛び込んでいるため、あの船は完全に無人である。もはや誰にも止められない。
今の美賀保は船ではない。ありったけ爆薬を満載した、巨大な砲弾である。それが今、港のど真ん中へ突っ込む。
「全員伏せろ!耳を押さえて口開けろ!」
大爆発。閃光と爆風が港を大きく揺さぶった。桁外れの爆風は棒立ちの兵士を吹き飛ばし、燃える甲鉄のマストをへし折った。腹の底どころか魂まで突き刺さるような爆音は、耳を塞がなかった者の一部を気絶させた。
一瞬だけ火球に飲み込まれた美賀保は、辺り一面に瓦礫と炎をまき散らし、周囲の船と港の一部を、文字通り跡形もなく消し飛ばした。粉々に吹き飛ばされた瓦礫に熱風が叩きつけ、爆心地の周囲ではちらほらと炎が上がり始めた。
沈黙を破って真っ先に号令を飛ばしたのは土方。それに次いで檄を飛ばしたのは鉄之助であった。
「退却!退却だっ!美賀保水夫の回収急げ!」
「綱を切れ!全部だ!総員退却、負傷者を回収しろッ!」
余りの衝撃に大混乱を通り抜けて呆然とする新政府軍。それを尻目に、蝦夷共和国は撤退を始めた。突貫部隊はまだ息のある負傷者を担ぎ上げ、蟠竜に引きずり上げる。やがて捕鯨砲は綱を切り落とし、蟠竜がゆったりと甲鉄から離れていく。
余りの出来事に何が起きたか分からない新政府軍は、何を撃てばよいのかも分からず、震える手で銃を握っていた。
蟠竜の蒸気機関は不調のままであったが、ボロボロにされた甲鉄と、不意の大爆発に巻き込まれた艦隊に、蝦夷共和国海軍を追い討ちする程の戦意は残されていなかった。
「聞こえるか、鉄!これが土方歳三のケンカ法度その六『ずらかる時は嵐のように』だ!」
「すみません土方さん!三、四、五は聞こえませんでしたッ!」
姿は見えないが、鉄之助がどこからか律儀に大声を返してくるのか聞こえた。
「正直でよろしい、あとで教えてやる」
「はいッ!」
更にその後三陸沖を襲った暴風雨は、新政府軍の追跡を完璧に煙に巻いた。
撤退する蟠竜の中で、やっと一息ついた土方は、斎藤に声をかけた。
「斎藤お前、なんであんなところに?」
「会津で……死に損ないまして。土方さんを追おうにも一人ではどうしようもない、そこで新政府に連れて行ってもらおうと、名を変えて潜り込みました」
「……お前も大概大胆だな」
「なかなか気付かれないのです。どこにでもいる顔なので」
「肝の太い野郎だ」
肩をすくめる土方を遠目に見つけて、鉄之助が駆け寄ってきた。
「土方さん!ご無事でしたか!……うぉわ!斎藤さん?!いつの間に?!」
「やあ市村君。あの声はやはり君か、逞しくなったものだ……おや?顔が切れてますね」
えっ、と頬を触った手が赤い。頬がざっくりと切れていた。戦の興奮に当てられて痛覚が麻痺していたのだろう、斎藤に言われるまで全く気付かなかった。
「捕鯨砲を守るのに最前線で旗と刀振り回してましたから……そのとき切れたのかな……いけね、案外深いかもこれ」
「どれ、見せてみろ……おお、結構切ったなぁ。こいつで押さえとけ」
懐から出した小綺麗な布で簡単に止血してやる。顔をぐるりと巻いているので大怪我に見えるが、幸い頬を貫通した様子はなかった。
「ま、前がほとんど見えません……」
「しばらく我慢しろ、すぐ止まる」
「市村君、早めに縫ったほうがいい……跡が残るかもしれませんよ」
斎藤の言葉を土方は笑い飛ばした。
「なぁに、男の向こう傷は誉れだ。鉄之助……よくやった」
「……ハイッ!いててて笑うと痛くなってきました」
「はは、馬鹿が……あれだぞ鉄、帰ったら痛いとかとか極力言うなよ」
「え?でもまあまあ深いですし…飲み食いしたら痛そうじやないですか?」
能天気に返す鉄之助に、土方は大きく嘆息した。
「カピウが騒ぐだろ……」
「うーわぁ……めんどくせえ……」
露骨に顔をしかめるに二人に、流石の斎藤も首をひねった。
「カピウ?」
「おっかねぇ娘っ子さ……お前もそのうち会うだろう、俺の直轄になってもらうんだからな」
「はぁ。なんだかよくわかりませんが……承知しました」
暴風雨の中、回天と蟠竜は蝦夷へ向かった。
※ご注意
この作品は事実を元に大きく脚色したフィクションです。フィクションとしてお楽しみください。
めっちゃ盛りました。