表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/24

第四章 奥羽編その4 さらば、会津よ

列藩同盟崩壊後、彼らが目指すのは新天地であった。

会津の運命や如何に。


お付き合いください。

「時間をいただきたい。会津で戦う皆を引き連れ、必ず戻ってきます」

 合意したとは言っても、今すぐ土方軍を動かすわけにはいかない。何も言わずに前線を放り出すのは、一万六千人の幕臣が大阪城でやられたのと同じことだ。それこそ榎本は慶喜と一緒に江戸へ戻った側であるのだが……そこを掘り返せば話は一生纏まらないだろう。既に倒れた幕府相手にいつまでも恨みをぶつけるのは、これきりにしよう。今はただ、進むしかない。

「鉄、お前の度胸が持ってきた話だ……よくやった、大手柄だ」

「はいッ!」

 犬の毛並みを思わせる鉄之助の頭を撫でて、土方達は会津に戻った。

 いっそのこと榎本の艦隊と一緒に戻り、艦砲射撃による援護を取り付けたいくらいであったが、流石にそれは現実的ではない。会津城も、激戦区である母成峠も、内陸の山地であるため、主砲が届かないのだ。いっそ城から出て本陣を海沿いに移動し、艦砲射撃を盾に迎え撃つのも考えたが、これも難しい。開陽丸を擁する榎本艦隊は確かに凄まじい戦力であるが、会津に迫りつつある新政府軍全体と比べれば数が違い過ぎる。いかに最新鋭の兵器であっても、揺れる海面からの砲撃の命中率は、陸からの砲撃と比べれば限度がある。

 それ以前の問題として、艦隊がいきなり会津沖に出張ることが、同盟の恭順派を刺激しないとも限らない。万が一艦隊がここを離れている間に仙台藩が投降すれば、榎本たちは海の上で兵糧攻めにあってしまう。

「鉄、蝦夷の話は誰にも言うなよ?」

「……はい」

 蝦夷に行くということは、土方はどこかで会津を見捨てねばならぬのだ。それも、早ければ早いほど榎本たちには都合が良い。それに気づいた土方は、会津に戻ってからも考え通しであった。

 会津軍全体の戦力は総数およそ一万。総戦力の一割以上が、この男個人の率いる軍勢である。今これが抜ければ、会津はどうなるだろうか?おそらく、新政府軍三万人に蹂躙されるだろう。なにしろ彼らは、既に幕府軍一万六千を破っているのだ。

 だが、土方軍が残ったところでそれは変わらない。会津の寿命が一日伸びればいい方だろう。

「だからと言って……切り捨てられるか……」

 かつて新撰組の後ろ盾になってくれた会津、根無し草の土方軍を受け入れてくれた会津、今も土方軍と共に戦っている会津、幼い少年たちまで駆り出す会津。それを放り出すことがどうしてできようか。

 行かねばならない。だが、行くわけにはいかない。自らが、自らの力が巨大に膨れ上がったことで、土方はどうにもならない二つの選択に引き裂かれてしまいそうだった。

「鬼だ。俺は鬼なんだ……鬼だから、どんな非情なことだってやってみせる。今までだってやって来たんだ、これからだってやらなきゃならねえ。でなけりゃ近藤さんに、総司に……地獄で待ってるみんなに顔向けができねえ……ッ」

 そうして思い悩む間も、時代は土方を待ってくれない。同盟内では秋田をはじめ幾つかの藩が恭順派に切り替え、周囲の藩へ攻撃を始めたと聞いている。怪しい程度であった米沢や仙台も、もはや時間の問題だ。前線から引き上げさせ、荷物をまとめるのだって今日の今日では不可能だ。

 会津と心中するのか、会津を見捨てるのか、悩める時間は少ない。

「土方さん」

 一人苦悩する土方の元へ鉄之助が現れたのは、そんなある夜のことであった。

「鉄か。なんだ?」

「斎藤さんがお越しです」

「斎藤が?……通せ」

 いつも通りのうっすら微笑んでいるような顔のまま、斎藤はいきなり話の確信を突いた。

「蝦夷へ行ってください、土方さん」

「……聞いたのか」

「市村君から聞き出しました」

「鉄、お前喋ったのか?」

 土方の迫力に鉄之介が縮み上がる。この真っ直ぐな少年が土方の命令を破るのは初めてだった。しかし、その鉄之助を庇ったのは他でもない斎藤であった。

「市村君を責めないでください。私が無理に聞きだしたのです。

 彼を連れてきてからの土方さんは、僅かですが様子がおかしかった。思い悩み苦しんでいるようでした」

 前線指揮をするものとして、思い悩む所を見せるわけにはいかない。そう思って隠していたのだが……狂気的な情熱で十年近く土方を見てきたこの男の目は、誤魔化せなかったらしい。

「……よく見てやがる」

「恐れ入ります」

 斎藤が皮肉の切り返しまで上手いとは知らなかった。

「会津には私と……そうですね、三割ほど残りましょう」

「お前が?……本気か?」

 会津にこれから巻き起こる戦争は、間違いなく激戦だ。そこに残るということは、死を覚悟するに等しい選択だ。

 だが、戦力を分けるのであれば、当然指揮官も必要なわけである。その候補の中で斎藤は、最も優秀な指揮官であった。

「もちろんです。ですが、死ぬ気もありませんよ。

 言いましたよね?近藤さんと沖田さん亡き今、私は土方歳三という男がどこまでいけるのか知りたいのです。だから、土方さんの道を阻むものは、私が徹底的に排除します。それに敵味方は関係ありません。

 無論、死ねば見届けられない。全力で戦い、必ず生き残ります」

 目の奥の狂気的な光は、興奮を押さえられないようであった。

「必ず見せてください。あなたの国を」

「斎藤……わかった。必ず後から来いよ」

「はい」

 いつもの調子で即答すると、斎藤は鉄之介に向き直った。

「市村君、土方さんを頼みます。君がいない間、しばらくこの人のそばにおりましたが……随分と面倒くさい性分をお持ちのようだ。やはり、君でなければ務まらんようだ」

「お任せください。わかっていますッ!」 

 どん、と自分の胸を叩く鉄之介。随分とひどい言われようであるが……おかげで腹が決まった。非情な決断を下す時が来たのだ。

 存外、会津は土方の離脱を静かに受け入れた。というより、目の前の新政府軍、後ろで分裂しつつある奥羽列藩同盟。そんな中ますます前線で支持を集める土方を、あまり快く思っていない者もいたようである。そうして土方軍は、およそ三割を残して会津を離れた。

 会津を離れた土方は、千人を率いて白河口へ撃って出た。会津総戦力の約一割をつぎ込む大攻勢である。そこは会津の南、もちろん石巻とは真逆の方角である。

「進めっ!白河城に向かうぞ!」

 土方は戦線を大いに鼓舞し、時には自らも斬り込んだ。伝習隊が土方軍にもたらした西洋式装備の中にはアームストロング砲はもちろん、スナイドル銃やシャスポー銃も含まれていた。これらの銃は後装式であり、エンフィールド銃よりも更に短い間隔で発射できた。最新式の銃であるため、新政府軍でもかなり珍しい。後方支援が心もとない現状、フランス式の戦術と合わせて使いどころの見極めが難しいのだが、局所的、瞬間的には互角以上の戦いをすることができた。

 それを率いるのが、同盟の説得から帰ってきた土方本人とあれば、土方軍の士気高揚は青天井である。奇襲に夜襲、罠、陽動、挟み撃ちにだまし討ち。ありとあらゆる手を使って新政府軍に痛手を与える快進撃であった。特に凄まじいのは夜襲である。

「新撰組!突撃せよ!」

 剣士を引き連れて夜空に吼えるのは、闇に紛れてギリギリまで接近した土方である。これには新政府軍も震え上がる。薩長にとって新撰組は怨敵であるが、同時に恐怖の対象なのだ。

「新撰組がいる!」

「距離を取れ!物陰から来るぞ!」

 暗闇に紛れて接近戦に持ち込めば、銃の射程を潜り抜けた所から仕掛けられる。触れれば斬り、触れずとも襲い掛かる新撰組仕込みの実践型近接戦闘は未だに驚異的であった。

 こうした連日の夜襲がよほど響いたのか、幾度目かの夜襲の後、あくる日の新政府の夜間警備は、今までより数段厳重なものになっていた。

 丁度いい。鉄之助が、次の夜襲は自分も連れて行けと言い出していたのだ。切り上げるとしよう。

「頃合いか……」

 快進撃……とは言っても、城の奪還は簡単ではない。のんびり攻めていては、こちらが囲まれてしまう。そんなことは土方も知っている。

 連日戦線をぐいぐいと押し上げた土方軍は、ある日白河城を目前に進路を北へ転進した。風のような勢いで北上していく土方軍を目の当たりにした新政府軍は何を思っただろうか?城攻めを諦めたと安堵したろうか、怖気づいて逃げ帰ったと嘲笑ったろうか。

 そうなれば、土方の思惑通りである。

 思わぬ一撃を受けた新政府軍は、一旦攻勢を落としてでも守りを固めるだろう。何しろ連中は、土方と榎本の接触を知らない。次またいつ土方が攻め込んでくるかと、それはそれは厳重な対策を練るだろう。いくらでも守りを固めればいい、いくらでも対策を練ればいい。夜も煌々と篝火を灯し、すこぶる厳重な警備を続けるがいい。土方はもう戻らぬと知らずに、残像を相手に夜通し猛り、その場で死ぬまで消耗してゆけばよいのだ。まさかこの土方軍の大攻勢が陽動で、実は石巻への撤退戦だったとは、夢にも思うまい。

「さらばだ会津よ。ここまでしかできぬ俺を許してくれ……せめて、武運を祈る」

 遠く会津城の方角を見つめての呟きはあまりに小さく、鉄之助の耳にも届かぬものであった。


 白河から石巻までの道のりは、単身手ぶらで馬を乗り潰しながらでもおそらく丸一日はかかる。それが重い武器弾薬を運ぶ千人規模にもなれば、順調でも五日以上かかるのが普通だ。土方はそれを、なんとか四日の強行軍に押し込んだ。

「土方軍の東北大返しですねッ」

 初めて土方軍の軍勢を目の当たりにした鉄之助ははしゃいでいた。春先には命からがら逃げ帰ってきた土方が、今や千人を超える軍勢を率いているのだ。若い鉄之助には興奮が抑えられなかっただろう。

 しかし、秀吉と比べると自らの不甲斐なさが目立つ。向こうは二十倍の人数を連れて、一割増しの距離を、同じ日数で駆け抜けていた。それも、到着後にすぐさま戦を仕掛けられる体力を備えた状態で。二百五十年前の人間が、である。単純比較はできないが、こちらは今にも崩壊しそうな同盟の中、まともな補給も出ない強行軍の結果である。もちろん、石巻に到着したら全員へろへろという体たらくであった。

 しかし、それでも急いだ甲斐はあった。このころ同盟内の分裂は更に進み、同盟の中心であった仙台、米沢すら恭順論が支配しており、榎本もこれ以上待てない状態であったのだ。

「お待たせしました、榎本さん」

「ええ、一日千秋というやつでした。参りましょう……蝦夷へ」

 開陽丸の甲板で二人が再び固い握手を交わしたのは、慶応四年十月の後半、東北に一足早い冬の訪れが見えはじめるころであった。


 榎本艦隊は七隻の蒸気船と一隻の帆船。それを操る幕府海軍、更には東北各地から合流した反新政府戦力、補給部隊、後方支援など合わせて二千人に至る大所帯であった。そこに土方軍が加わり三千を超えた。奥羽列藩同盟が事実上崩壊している今、日本に残された最大の反新政府勢力であった。

 同盟の崩壊に巻き込まれては堪らない。榎本艦隊が大至急出港準備を進めるのを、土方は甲板で眺めていた。と、港の入り口から子犬がものすごい勢いで突っ走ってくるのが見えた。目が合うと、握った何かを掲げて声を張り上げた。

「土方さん!手紙です!斎藤さんからッ!」

 斎藤からの手紙は極めて短く簡潔であった。

「総攻撃目前。もはや足止めはできぬ、いち早く蝦夷へ向かわれよ」

 短いが、奴のいつもの返事に比べれば幾分愛想が良い。だが、書かれてから届くまでの時間差を考えれば、恐らくもう、総攻撃が始まっているだろう。

「斎藤……」

 新政府軍が目前まで迫っていると言うのに、助けも求めず「早く蝦夷へ行け」と行ってのける程の胆力を持つこの男が、そう簡単に死ぬとは思えない。

 しかし、会津の壊滅は免れないだろう。恐らく旧幕府で最も長く激しい抵抗をした会津だ。新政府軍は見せしめとばかりに徹底的に叩くだろう。土方軍の繰り広げた激戦が、敗れた後の会津には反逆の意思としてのしかかるのだ。

 土方は刀を抜くと、自分の後ろ髪をばさりと切り落とした。

「土方さんッ?」

 目を白黒させる鉄之介であったが……その意味はすぐに察したようであった。

「せめてもの手向けだ。会津よ、お前達は誠の武士であった……例え新政府が踏み躙ろうと、その気高さは、俺が蝦夷で語り継いでやる」

 冷たい海風が土方の髪を空高く巻き上げていく。風の行き先は、会津の空に繋がっている筈だ。


 榎本艦隊が準備を済ませ、抜錨したのは夕暮れ手前であった。

 蒸気船に乗るのは生まれて二度目であった。船の操作に関しては完全に素人である土方は、一通りぐるっと見て回ると、割り当てられた自室に引っ込んだ。

「もう少し下だ……行き過ぎ。少し起こせ」

「無理ですよ土方さん、榎本さんに聞いてきますよ?船乗りとか職人、結構器用な人いますよ」

「そいつらは今忙しいだろ、船が動いてるんだから」

「交代制じゃないですか?」

「誰が非番かわからん」

 時間ができると、先ほどバッサリ切り落としだ髪が気になった。手向けにしたのは構わないが、最低限でも長さを整えようと、部屋に備え付けの手鏡と、鉄之助に探させてきたもう一枚で、合わせ鏡にして後ろ髪を整えていたのだ。

 生きるか死ぬかの状態ならともかく、一勢力の長ならば最低限の身だしなみは整えたい。そうしなければ軽く見られる。かつての近藤の言葉が、土方の中でまだ生きていた。

「危なっかしいですって、自分切りますよ」

「やめろ。五年見ててお前を器用だと思ったことが一瞬たりともない」

 断固拒否である。それこそ自分でやったほうがマシだろう。

「土方さんが器用なんですよ」

 そんなこんな、苦戦しながら髪を整えた土方は、切り屑をはたき落とす為に甲板へ出た。見ればいつの間にやら随分陸が遠い。

「もうこんなに陸から離れていたのか、やはり蒸気船は速いのだな」

 新政府軍はこちらの動向に気づいているだろうか。今は、一秒でも早く蝦夷へ渡り、迎撃態勢を整えねばならない。

 あたりはすっかり暗い。夜間航行用の灯火が、夜の海に進む艦隊を黒々と照らし出す。少し離れて見えるのは回天、その奥には蟠竜。陸海あわせて三千人で、新政府軍三万人打ち破らねば、彼らに未来はない。だが決して諦めてはいない。出来る、今なら出来る。

 夜の海を進む艦隊を背景に浮かび上がった土方の姿は、後ろ髪を整え、他をぐっと後ろに撫で付けた姿であった。

「まあ、舐められることはあるまい」

 ゆっくり肩を払うと、さっきは会津の空へ手向けた髪の切り屑が、今度は蝦夷へ向かう風に乗って舞い上がった。

「満月か……明るいわけだ」

 夜空へ向かって、一人笑ってみせた。


「暇だな」

 沖から蝦夷までの距離は、東北大返しの三倍の距離がある。如何に開陽丸が最新鋭の蒸気船であろうと、艦隊には旧式の船もあれば帆船も含まれる。その上船旅は陸路よりずっと天候に左右されやすい。そのためこの船旅には数日が要された。

 しかし船、しかも蒸気船に関して土方は素人である。上陸が近づけばやることもあるが、前半は随分と時間的な余裕がある。だからと言って土方は、寝て過ごせるような男ではない。

「失礼。非番と見受けるが、少々よろしいか?」

 海軍士官をとっつかまえては船のことをあれこれ聞き、伝習隊から教わったフランス式の基本戦術の知識とすり合わせていた。今までは西洋戦術への対策として学んでいたが、装備や後方支援が整いつつあるこれからなら、自分がフランス式の戦術を使える。そう思うと心が躍った。そんなこんなで土方は、まあまあ特殊な角度で船旅を満喫していた。そんな折。

「おお。ここにいましたか土方さん」

 背後の声は榎本であった。

「おや、何かご用でしたか?」

「ええ、よろしければ部屋まで」

 榎本武揚はこの艦隊の長、提督である。そのためもちろん艦長は別にいる。しかし、艦隊全体の司令部として、榎本は艦長室を使っていた。

「一つ、お伝えするのを忘れておりました」

「……何ですか?」

 出港してから何を言い出すのだろうかと内心ヒヤヒヤしていると、榎本が机に広げたのは、古い掛け軸であった。見るも美しい鳳凰が鮮やかに描かれている。土方は武人にしては風流を解するほうだと自覚あるつもりだったが、今の状況を放り出すほど酔狂ではない。

「鳳凰……ですか?」

「これは古代中国、唐の時代に描かれたものの写本、更にその写本です。描かれているのは鳳凰によく似ていますが少し違う、火の鳥と呼ばれる物です」

「火の鳥?……ああ、血で不死身になるとか言うやつですか?」

 以前坂本竜馬に聞いた話を思い出した。思っていた反応と違ったのだろう、榎本の方が驚いている。

「ご存じでしたか。幕府でも限られた者しか知らないのに」

「……随分と前に酒の席で聞いただけです。私は与太話だとばかり」

 懐には、今もまだあの小さな皮袋が残っている。まさかそんなに古くからある話とは知らなかった。

「私も、この掛け軸だけならそう思っていたでしょう。ですが、少なくともアメリカ、イギリス、フランス、ロシアが、今でもこの血を狙っていることがわかっています。ペリー来航の理由の一つとも言われています。連中、最終的には不死身の軍勢で世界の覇権を握るつもりだ」

 かつて坂本竜馬に聞いたより遥かにスケールが大きく、それでいて身近な話になってきたことに、土方は薄ら寒いものを感じた。

「そんなバカな、アイヌの迷信を世界各国が信じるのですか?」

「……本当にどこで聞いたんですか?幕府に匹敵する情報網をお持ちのようだ」

「ここまでしか知りません。本当に酒の席の笑い話だとばかり……私にこの話をした男は火の鳥の血を持っていると言っていましたが……しばらくして死んでいます」

 竜馬と総司が火の鳥の血を飲んだかどうか、土方には知る由もない。だが、実際問題二人とも死んでいる。土方にとっては、既に変わったお守り程度のものでしかない。

「そうですか」と、榎本は肩をすくめた。

「土方さんには敵いませんが、私も軍人の端くれだ、不死身の軍勢と聞いて無視はできない。なにしろ、相手の戦力はこちらの十倍だ」

 懐で皮袋を握る。竜馬が分け、沖田に与えて随分薄くなった手応えであるが、果たしてこんな物に、本当にそんな力があるのだろうか?

 申し出るべきか?いいや、効果も分からないし、少な過ぎる。これで何人が不死身になるか知らないが、一人ひと舐めさせたところで二十人も回るまい。三万人には到底敵わない。

「そう難しい顔をしないでください土方さん。極論見つからなくても利用はできるのです」

「……どういう意味ですか?」

「幕府の調査と先住民族の口伝により、ある可能性が高い。この情報だけでも欧米各国は食いつくでしょう。戦後の調査や利用を認めるのと引き換えに、戦中の資金や武器の援助を募ればいい。もちろん、現物があるのに越したことはないのですが」

 これが政治のやり口なのだろうか。情報だけでそこまで利用を考えている榎本の強かさに、土方は内心舌を巻いた。

「しかし、万が一見つかったらどうするのです?いずれ、不死身の軍勢を相手にするのですか?」

「その時は我らも使えばいい。見つけた国と組んで、世界へ打って出ましょう」

 この男、一体どこまで先を読んでいるのか。既に榎本の中では、蝦夷は幕臣の駆け込み寺ではない。機があれば欧米各国と肩を並べ、世界情勢の中心に躍り出る風雲児たらんとしているのだ。かつて近藤に見た大将の器とはまた違う、戦略的な指導者の姿とでも呼ぶべきものが、榎本武揚の中に見えた。

「あの小島から、世界の覇権を狙うと仰るか……」

 呆然と呟く土方の目を、榎本が覗き込む。榎本は不適に、だが力強く笑った。

「土方さん、こういう話はお好きでしょう?だからお伝えしたかったのです。流石に、初対面でするのは気が引けましたがね」

「図星です」

 まるで十年来の友人のように胸中を見透かすではないか。これが榎本の人心掌握術なのか、あるいは本気でそう思っているのか、もはやどちらでも良い。心底そう思えると、土方も頬が緩む。それを見て、榎本は胸を撫でおろした。

「よかった。世迷い言と鬼の怒りを買ったら、切腹させられるのではとヒヤヒヤしておりました」

「やりませんよ。どんな噂が流れているのですか私は」

 鬼の副長の噂話に背びれ尾ひれがついて一人歩きしているらしい。列藩同盟を説得して回っている時などは、身の丈一間一尺(およそ2メートル10センチ)のバケモノのような大男が来ると思われていたことさえあった。

「いっそのこと、蝦夷に着いたら角でもつけてやりましょうか。箔が付くでしょう」

 苦い顔で冗談を飛ばす土方に、榎本は笑った。

「それはいい……と言いたいところですが、余り民を怖がらせるのも考えものです」

「む?その方が都合が良いのでは?」

 土方は首を傾げた。榎本は二百五十年続いた封建制度の軍事政権である江戸幕府の元重臣である。武力と権力を直結させるのは支配の基本体制ではないか。

「……少々政治の話になるのでつまらないかもしれませんが、折角なので言っておきましょう。私はね、蝦夷に幕府を開きたいわけでも、大名になりたいわけでもないんです。

 私が作りたい蝦夷は、蝦夷共和国です」

「共和国?たしか……入れ札(投票)で代表を選ぶ制度でしたか」

 榎本は大きく頷いた。

 共和国とは、幕府や王室等の権威ある個人や一族が主権を持つ多くの国とは異なり、人民が主権を有する政治体制に基づく国家の在り方である。なるほど榎本は、完全に新しい国を作りたいらしい。

「そうです、叩き上げの武人がそこまで知っているのは驚きだ。

 私はね、土方さん。幕府の崩壊は、武力に頼った権威政治の限界が来たのだと思っています。薩長土肥の鬱憤が爆発したのは、その一つの形に過ぎない。それを二百五十年抑え込んだのは十二分に離れ業ですが、それが限界でしょう。

 であれば今度は、同じ轍を踏まぬ体制にするべきだ。共和制だから良いのではなく、あの島の新しい体制として、試す価値があると思っているのです。幸い、蝦夷は丸ごと元天領、内部の政治的な対立は他の地域より幾分薄い。ゼロから国を作るにはうってつけだ」

 幕府も大名もいない体制がどう回るのか、根本が剣客である土方には想像がつかない。だが、散々振り回された幕府の影響をきれいさっぱり切り、独立独歩で進むのは気分が良い。

「なるほど。では……角を生やすのはやめだ。威圧を振りまいては、民衆の支持を得られませんからね」

「その通りです」

 政治の話が分からずとも、自分も持っている人の心は推し測れる。土方は榎本の壮大な計画を、自ら噛み砕いて理解した結果、自分なりの結論を口にした。

「なればこそ、勝たねばなりませんな」

「そうです。ご理解いただき、かたじけない」

 榎本が笑った。明るい、人を惹きつける笑顔であった。

 現実問題それだけで国は興せない。結局、今は理想を語っているに過ぎぬのだ。蝦夷とて無人島ではない。速やかに制圧し、既に手を伸ばしつつある新政府を追い出さねば夢と消える。その夢を現実にし得る力が、確かにここにあるのだ。

「硬い話はここまでにしましょう。折角なので……髪を会津に手向けたのは存じ上げていますが……これを機会に、こういうものは……」

「む、これは……」

 火の鳥の話よりも、こっちの方が土方を驚かせたかもしれない。


 翌朝。カピウが目を覚ますと、心臓が早鐘のように鳴っていた。よくある話で、内容は起きた瞬間にすっかり抜け落ちてしまったのだが、一つだけ強烈に覚えている事があった。

 竜馬の夢であった。しかも……笑っていた気がする。

 つう―と涙が一筋、頬をつたった。もしもこの夢が、あの夜と同じカムイのお告げであるならば、もしかしたら竜馬は生きているのかもしれない。カピウは淡い期待を抱いていた。

 生きているなら、竜馬は絶対会いに来る。カピウはそう信じて疑わなかった。



ご感想お待ちしております

※ご注意

この作品は事実とされる出来事を元に大幅な脚色を加えたフィクションです。おっさんのホラ話としてお楽しみください。


次回『誕生、蝦夷共和国』お楽しみに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ