第四章 奥羽編その3 その男、榎本武揚
「斎藤、新選組は最大で何人だったっけ?」
「正確には覚えていませんが、四百名と少しだったかと」
かつての新撰組は、大名屋敷のような屯所を必要とするほどの大規模な武装組織であったから、その数は正しいはずだ。しかし、今の土方の指揮下の戦力はとんでもなかった。
「今、何人いる?」
土方が振り向くと、斎藤が引き攣った顔で返す。この男にしては極めて珍しい。
「わかりません。千人までは把握できていましたが……おそらく、千三百を軽く超えています」
「これほどとは……」
土方は少々困惑していた。宇都宮城の後で散り散りになった先で、それぞれが合流したり、反新政府勢力を巻き込んだりして増えていく、という展開は予想できたし、思惑通りである。だが、その影響は何倍もの規模に膨れ上がっていた。日を追うごとに合流する残党を含めれば、千五百に届く勢いであった。
京都で恐れられる武装組織にして治安維持部隊であった新選組の名は、様々な事件や戦によって広く――特に京都、大阪、江戸の軍事関係者に――知れ渡っていた。近藤ほどではないにしろ、その右腕である「鬼の副長」の名も知られていたことだろう。そこに加えて、幕府が崩壊していく中でも甲陽鎮撫隊を結成し、負けたとは言えしぶとく戦っていたことは、関東一円にさらに知れ渡っていたらしい。その上に、先日の宇都宮城の一件が重なる。
『元新選組の土方歳三が、新政府軍に奪還された宇都宮城を奪い返した』圧倒的に不利な旧幕府軍がこれをやってのけたという事実は、奇跡に近い大金星であった。
土方は旧幕府軍で唯一『新政府軍に勝った戦闘指揮官』となっていたのだ。
その大金星が、関東甲信越のあらゆる幕府残党に火をつけ、土方の元へ馳せ参じさせた。幕府の直轄軍こそ崩壊していたが、それ以外の独立部隊は、まだまだ戦力を残していたのだ。土方の勢力がそれを無傷に近い形で併合できたのは、恐るべき幸運と言うべき事だった。
「これはもはや……抵抗勢力とか残党とか、そういう規模ではありません。軍です、土方軍です」
「土方軍か……いい響きだな」
土方が薄く笑う。男児であれば、武士であれば、自らの名を冠した軍の誕生に、悪い気がする者など存在しないだろう。
「国獲りも近いな」
「はい」
この土方軍の急成長において、特に大きかったのは、幕府の西洋式部隊である「伝習隊」と精鋭部隊である「衝鋒隊」のそれぞれ一部を吸収できたことだ。期せずして「新型装備」と「練度の高い人員」の両方が土方の指揮下に入ったのだ。
この時期、日本各地で旧幕府の残党が抵抗を続けていたのだが、その中でも土方軍は極めて特異な勢力であった。乱暴な言い方をすれば残党の寄せ集めであるはずの土方軍、本来ならば各勢力が仲間割れして共倒れするのが関の山である。しかし土方軍は違った、指揮系統がしっかりと生きていた。もともと武士ですらない人間を鍛えてまとめ上げた経験と、旧幕府軍で唯一の勝ち戦を持つ男という求心力が、土方軍を見事にまとめ上げていた。
かつて三万の数を誇った新政府軍も、今は各地の占領の為、近畿、中部、東海、そして関東甲信越各地に広がって戦っている。そうなると、ここまでの量と質と団結を備えた規模の相手と戦えるのは、本隊くらいのものだ。そこらの小隊ではおいそれと手が出せない。土方軍は地下に潜ることもなく、悠々と会津に進軍するのであった。
初夏に会津に入った土方軍は、会津城に向かわず前線で戦った。それを意外に思ったのか、斎藤がぼやいだ。
「てっきり私は、会津城で松平容保公に会うかと思っておりました」
「俺もそのつもりだったが……五百超えたら難しいだろうな」
新選組は以前、会津藩主松平容保預かりであった時期がある。土方と直接の面識はないが、会津藩の重臣なら面会できただろうし、何処かの部隊に編入することも十分できただろう。しかし、巨大に膨れ上がった土方軍は、既にその段階を過ぎていると判断した。
「大所帯には大所帯のやりかたがある。下手に藩の軍に潜り込んだら、味方内の力の均衡を崩す、新たな火種をつくりかねない。かといって分散して配置されたら、ウチが損するだけだしな」
だから土方は、松平公宛に助太刀を申し出ることと、後方支援を頼む旨を書状にして使者を送り、自身は前線で指揮を執った。とにかく新政府軍の北上を食い止めたいであろう松平公も、奥羽列藩同盟にも、その方がありがたい筈だ。土方は政治家や思想家ではなく、どこまでもいち武人であろうとしていたのだ。
「もちろん会いに行くのも間違いじゃない。近藤さんなら会いに行ったろうよ……ただ、俺がそうした場合、指揮を執るのは斎藤だな、頼んでいいか?面会ついでに、ここらの名物のニシンの山椒漬けと桜鍋を食ってくる」
「ご冗談を。これほど大規模な部隊の指揮など、自分の領分ではありません」
「そうかね。俺も元々軍の頭なんて柄じゃないんだ。やってみたら実は斎藤の方が向いててもおかしくはないぞ」
そう言ってからっと笑った。こんなどうでもいい冗談を言えたのは、いつぶりだろうか。
「もっとも……そんな余裕はないか」
手にした本をめくる。伝習隊の者から譲り受けた、フランス式戦術の教本であった。内容はおそらくかなり初歩的な物のようだが、あると無いでは大違いであった。ここ数日、土方自身も西洋戦術にのめり込み、日々その対策に頭を捻っている。毎日が賭けの連続である。
「情報というか、相手の手の内を知るのは大切だな」
「と、言いますと?」
「わからない、とは相手が闇の中に潜んでいるのと同じだ。どこにいて、いつ何をして来るのか、予想もできない。相手が強いならなおさらだ。これを恐れないのは馬鹿だ。
相手を知ると言うことは、この暗闇を照らす光に等しい。いかに相手が強くても、手の内がわかれば手数の限界や、隙の生まれる呼吸がわかる。それなら付け入ることも反撃も出来る。ささやかな反撃であっても、防戦一方とはわけが違う。相手の勢いを削げるからな。もっとも、こいつはフランス式、新政府はイギリス式なんだが、フランスだってイギリスとは戦ってるんだ。対策の足しになる」
日本式もフランス式も基本は似通っている。遠距離からの銃撃で相手を削り、騎馬の機動力で撹乱して動きを封じ、大砲や歩兵の突撃等の大戦力で粉砕する。ここに、射程と連射性に優れる銃の運用と対策が加わるのだ。
無暗に打ち破るのではなく、こちらの損害を抑えて、機を見て叩きこむ。ただ突撃して「打ち破る」よりも「負けない」事を保つ戦法は、土方の肌に合う。何しろ土方は、自分より強い達人相手に、泥臭い市街戦で食い下がってきたのだ。なんとなく通ずるものがある。
「戦術ばかり見てきたが……戦略と切り離して考えてた俺はアホだな」
戦術は「目の前の相手を超え率良く倒す方法」を考えることだ。対して戦略は「如何に味方だけが全力を出し、如何に敵の全力を封じ込めるか」をかなり早い段階で考えることだと土方は理解した。極端に言えば、戦略を極めれば、戦場に立つ前に勝負が決するのだ。巨大な土方軍に新政府軍の小隊が手を出せなかったのと同じだ。今までの喧嘩よりも、遥かに視野が広く、視点が高い。それが、今の土方にとっては新鮮で楽しかった。かつて失われた情熱が、今までの火種を経て、胸の内で再び炎となるのがわかるようだった。
士気が高く、敵への理解が高い土方軍は、闇雲に突撃することもなく、戦線を動きながら戦っていた。もちろん常勝とはいかないのだが、局地的な勝ち負けでしばらく食い止めるだけでも、それまでの旧幕軍にとっては大きな戦果であった。教本が初歩的なものであったのも嬉しい。上級やら応用編であればあるほど、地形やら双方の状況を含めた前提条件に縛られる。仮に丸覚えをしたところで活かせる機会が極めて少ない。基本戦術を咀嚼反芻して自分の血肉とし、自分の状況を考えて応用する方が無理が少ない、戦に限らず、多くはそういうものだと土方は思っている。
「予断は許されんが……まだ持ちこたえることはできるはずだ」
苦々しく呟くが、胸の内で再燃する情熱は、まだ希望を捨てず懸命に耐えていた。
土方は自身をいち武人で留めたいと思っていたし、斎藤はあまり出しゃばらずに影に徹していたいと思っていた。しかし、戦場が夏を迎えるころには、動乱はそれを許してくれなかった。
徐々に各地の鎮圧を終え、北上する新政府軍は、日に日にその強さを増す。恐ろしいのは新兵器ではない、斬っても斬ってもキリがないと思わせる、分厚い後方支援であった。
やがて土方も前線に出ずっぱりではいられなくなってきていた。奥羽列藩同盟に属する一部の藩では、投降すべきだという論調が強まってきていた。投降なんてかわいいものではない、内部分裂でも始まれば目も当てられない。ただでさえ苦しい会津藩は、同盟の支援で辛うじて矢面に立ち続けているというのに、これがなくなればあっという間に打ち破られるだろう。
そんなわけで土方は、斎藤を始めとした数人に指揮を任せ、同盟各地を飛び回ることになった。旧幕府の陸軍最大戦力である土方軍、その頂点にして唯一の勝ち星を持つ土方という男は、同盟にとってこれ以上ない世論喚起の旗頭であった。
「勝てる」
諸藩の重臣に、あるいは大名に、土方は何度熱弁したであろうか。
「幕府を守るとか、忠義を通すとか、既にそう考える事態ではありませぬ。もっと大きく考えてください、この地に奥羽列藩同盟という国を作るのです。貴殿らは幕府の配下に戻るのではなく、国の首脳になっていただく。同盟とはそういう意味なのです。それだけの価値がある。お家を残すにはそれしかないとお考え下さい。
徳川家がどうなったか御存じないのですか?政権から降ろされ天領を没収され、平凡ないち大名として残留することすら許されず駿府へ押し込まれました。これが恭順に対する新政府の答えだ。
一度新政府に恭順すれば、もはや今の姿には戻れませぬ。一国の首脳の一人としての繁栄と、全てを奪われて一生を謹慎させられて過ごすか、あるいは取り潰されるか、どちらが良いかは明白でしょう!?」
鳥羽伏見で将軍の信用の失墜を目撃し、瓦解する幕府の支配圏を戦い抜いてきた男の言葉には重みがある。だが、二百五十年の安泰に浸かり、新政府との戦闘にも、鳥羽伏見の体たらくにも晒されていない諸藩にとって、その言葉はあまりに重く、受け止めきれなかった。
それでも、土方には勝ち目を説き続けることしかできなかった。
「薩長土肥の連中は戦づくめですし、西と東では水も違う、疲れや体調不良は無視できませぬ。ここで踏みとどまらせれば、冬にはまともに戦えなくなります。あと二か月、あと二か月で連中は使い物にならなくなる。東北の雪には、西洋の武器や戦術でも敵いませぬ。どうか会津に支援を!」
連日説得に跳び回り、更なる支援を要請する日々であったが、その反応は芳しくない。各藩の首脳は土方の言葉に対し、その場でこそ感銘を受けたようなそぶりを見せるものの、その後の支援は増えず、良くて言い訳程度のものでしかない。土方の言葉は、ギリギリのところで内部分裂を防ぐのが精一杯であった。
その日、仙台藩に更なる支援を取り付けるべく会談を済ませた土方は、馬上で考え事をしながら帰路に就いた。既に同盟の旗色は悪い。会津藩と土方軍はじりじりと押し込まれ、母成峠で五千人の新政府軍と戦っている。ここを突破されれば、会津はお終いだ。再三説得に向かったものの、それでも久保田藩、米沢藩あたりは怪しい。
(厳しいな……飯と金がなければ、どうあっても勝てん。)
いっそのこと、戸田家を引き合いに出すべきだろうか?土方が去った後の宇都宮城は、引き返してきた新政府軍の本隊によって、完膚なきまでに叩き潰されたと聞いている。「支援をせぬのなら土方軍は手を引く、宇都宮の二の舞になりたいか」と脅せばあるいは……無理だ。あまりに短慮である。そんなことを言った日には、その場で同盟が崩壊してもおかしくない。
「ダメだ、頭が回んねえ……ロクな事が考えられん……甘味でも食うか」
一息入れるべく馬を下り、手近な茶店に腰を下ろす。仙台には、枝豆を荒く潰したあんを絡めた餅があった。豆臭い食い物であったが、土方はその豆臭さが気に入っていた。
(どうしたものか……)
餅を食ったところで名案が浮かぶわけでもない。しかし、どうにかせねばならない。なにしろ会津は、追い込まれた挙句に年端もいかぬ武家の少年達までも駆り出そうとしている。最初は伝令やら補給の警護やら、比較的マシな任務だろうが……いずれ最前線に立たせてもおかしくない。討死が武士の誉れであったとしても、幼い少年たちと、その母たちにそう告げるのはあまりに辛い。いっそ本物の鬼になれれば楽なのだが……と思う程度には、土方にも人の心が残っていた。
「むぐぐ……」
甘味を喫しているとは思えない苦い顔で餅を食っていると、一人の少年が目の前に立った。そう、会津の少年たちもこれくらいの年恰好だろう。
「土方さんッ!」
聞き覚えのある声に我に返ると、目の前の少年と目が合った。どこか子犬のような印象の若者に、土方は見覚えがあった。
「鉄……だよな?」
「ハイッ!市村鉄之助、やっと追いつきました!」
「なんでお前……こんなところに?――ッ?!」
呆然と呟いてから気付いた。鉄之助が腰に差す刀、その鞘には金細工と桜模様が施されているではないか。声の震えを嚙み殺し切れない自分が恨めしい。
「じゃあ、総司は……」
「はい……新政府の刺客と戦っている最中、に血を吐いて……ですが、最期まで戦い抜かれました」
土方は天を仰いだ。いつか来る日だと知っていたが、かと言って割り切れるものではなかった。まるで、自分がこの世で一人になってしまったような、ひどい寂しさを感じた。
「そうか……その刀は?」
「自分が最後の刺客を撃退したときに拝領しました。天然理心流・沖田派、免許皆伝の証です」
寂しげだが、だが僅かに誇らしげな鉄之助の言葉に、最初は怪訝そうな顔をした土方も、やがて全てを悟った。
「沖田派だと?そんなもん……そうか……そうだな。お前が持っててくれれば、総司も喜ぶだろう……座れ、好きなもん頼んでいいぞ」
自分が腰を下ろす赤い布のかかった床几、その隣に招いた。
「え?……しかし……」
仮にも鉄之介は小姓、身の回りを世話する部下である。流石に主人と同席するのは一般的ではない。
「いいから、座れ。よくやった、少々手軽だが、褒美だ」
「はい……いただきます」
隣に腰を下ろした鉄之介が汁粉を平らげるまでの間に、土方はじっくり話を聞いた。
「で、なぜ仙台に?」
「沖田さんが亡くなってから北へ行こうとしたのですが……北へ向かう街道は新政府軍だらけでした。
これではいつまで経っても追いつけないと思い、幕府の海軍に頼み込んで、軍艦に乗せてもらいました」
「幕府の……海軍?」
今まで陸でしか戦をしてこなかった土方にとって、船は輸送手段でしかなかった。幕府が海軍を持っていることが、頭からすっかり抜け落ちていたのだ。自分も品川にいたというのに。あの時はよほど逃げるのに必死だったのだろう。
「はい。江戸城が明け渡された後も、幕府の海軍は品川で待機していたのです。待機というか、引き渡しを拒否し占拠ひていた、という方が近いかもですが」
「乗り込んだのか?密航か?」
「まさか、殺されてしまいます。とにかくそれっぽい人に頼み込んだんです。「自分は新選組隊士で土方歳三の小姓だ、土方軍と必ずわたりをつけるから連れて行って欲しい」と」
土方をダシに乗り込んだというのか、度胸がいいのか図太いのか。新政府軍に見つかっていたら命さえ怪しかっただろう。
「じゃあ、今はその海軍と一緒にいるのか?」
「はい。今は石巻で、元幕臣の榎本武揚殿にお世話になっています。榎本さんも、是非土方さんにお会いしたいと仰っています」
「榎本か……」
聞き覚えがある。恐らく近藤が最後に言っていた「海軍で何かを企んでいる男」だろう。
「なるほどな……俺も興味がある。取り付いでくれるか?」
汁粉を平らげ茶を飲み干した鉄之介は、力強く答えた。
「もちろんですッ!よかった、これで榎本さんとの約束が果たせます!ご馳走様でした」
意気揚々と立ち上がる鉄之介に向けて、土方は最後の疑問を投げかけた。
「ところで鉄。なぜ俺が、今日ここにいるとわかった?」
ある意味最大の疑問であったのだが、くるりとこちらを向いた鉄之介は事も無げに、だが無駄に力強く言い切った。
「戦と甘味があれば、遅かれ早かれ土方さんが現れる。自分の直感が当たりました」
「……妙なこと覚えやがったなぁ」
勘定を済ませながら、土方はぼやいた。
「ふむ……その榎本とか言うの、少なくともバカじゃなさそうだな」
「なぜわかるのですか?会う前だと言うのに」
「最低限の時流が見えている」
榎本武揚達が拠点にしていたのは石巻港、幕府の大きな港湾施設の一角であった。幕臣の地位にふんぞり返っているか、奥羽列藩同盟の苦境に気づいていなければ、呑気に仙台藩の屋敷にいただろう。もしもそうなら、会わずに会津へ帰ったかもしれなかった。
「呼んできます、お待ち下さい」
「おう」
座敷に通され、榎本武揚を探しに行く鉄之介の後ろ姿に「あいつ誰の小姓だかわからなくなってきたな」とぼやいて待つこと少し。榎本武揚があらわれた。
「お待たせしました、榎本武揚です……どうかなさいましたか?」
土方がぎょっとしたのは他でもない。現れた自分と似たような年齢の男は、フロックコート風の上着に金ボタン、金モールの施された三本ラインの肩章という、西洋式の軍服で身を固めていたからだ。
「失礼……土方歳三です。幕臣と伺っておりましたので……お召し物がまさか西洋式とは思っておらず、少々驚きました」
なるほど、と榎本は笑ってみせた。
「私はオランダに留学経験があり、フランスの軍学も学んでおります。ですので、自分の知る限り機能的な物を選ぶと、自然にこのような形に落ち着くのです」
なるほど。単純な西洋かぶれではなく、自分の合理的な考えが導き出した最善策ということか。であれば、土方にとっては非常に好感の持てる考え方である。
「まずは鉄、もとい市村がお世話になったようで、誠に恐れ入ります」
「お気になさらず。こうして土方さんとお会いする事ができたのです。こちらがお礼を言いたいくらいです。いきなり目の前に飛び出してきたときは驚きましたが。
互いに時間が貴重だ、本題に入りましょう。土方さん、我らと国を作りませんか?」
単刀直入な物言いが、土方の胸に刺さる。国獲りを掲げて半年が近く経つが、奥羽列藩同盟のために駆けずり回る毎日に、疑問がなかったわけではない。あるいは、鉄之介から自分のことを聞いて、練りに練った殺し文句だろうか。
「残念だが、同盟は時間の問題だと私は思っている。仙台と米沢は恭順論がかなり強まっているし、秋田に至っては秒読みだ。土方さんもそう思っていませんか?」
頷く。元が幕臣だけあって、各藩の動向に対する感覚は土方より鋭いようだ。
「では……どこかを奪うつもりですか?」
「それも考えましたが、新政府軍に付け入る隙を与えたくない。むしろ、新政府が同盟を攻略する時間を使うべきでしょう」
榎本が地図を広げ、一つの島を指差す。ここから更に北の広大な大地である。
「蝦夷です。蝦夷を占拠し、我らの国とします。新政府軍の海軍はまだ未熟、津軽海峡が、我らの巨大な堀となるのです」
そう言って榎本は、部屋の障子をパァンと開け放つ。目の前に広がる港には、黒々とした軍艦が何隻も並んでいるではないか。
「く、黒船ッ……!」
「そうです。十二年前に来航したペリーの時代は外輪船でしたが、この中にはもっと速いスクリュー船も含まれています。最新鋭の軍艦です。新旧合わせて四席の軍艦と四隻の補給艦の艦隊です。
特にあの一番奥、一番大きい軍艦を見てください。我らの旗艦、開陽丸です。
排水量二千五百トンの超大型でありながら、ペリーの黒船の5割増の速力がある。アームストロング砲大小あわせて二十六門を装備した上に、外装は鉄張りです」
「ば、バケモノですな……」
土方は言葉を失った。これはもはや強力な武器などという段階ではない。城だ、動く城だ。存在するだけで相手を威圧し、味方を鼓舞する。政治的な均衡さえ容易く変えてしまう、戦略兵器と呼ぶべき存在だ。
「左様、バケモノに見えるでしょう。
ですが私に言わせれば、どこの国や藩にも属さず、個人の実績と才覚で、今や千五百人に届く軍をまとめているあなたも、十分なバケモノですよ。土方さん」
面と向かって言われるまで気付かなかった。この男の中では、土方軍は新撰組の延長でしかなかったのだ。しかし振り返れば、どこかの領地も持たずにこれだけの戦力を有し、一国の紛争に大きな影響を及ぼす立場になった人間というのは……歴史上でも珍しいかもしれない。
「ならば榎本さん。あなたは海のバケモノに、陸のバケモノを乗せるおつもりか」
「左様です。そうすれば見えてくるでしょう?我らの国が」
つくづく、陸での戦いに明け暮れた土方にとっては思いもよらぬ発想であった。何と規模の大きいことを言い出す男だろうか。海軍を引き連れる榎本には陸軍が足りず、敗残兵ばかりの土方軍には、金のかかる海軍はまるで縁がなかった。その二つが今、この場で邂逅したのだ。
「それで、私にどうしろと?」
興奮で震える声をなんとか自制するが、おそらく隠しきれていないのだろう。榎本はそんな土方の目を真っ直ぐ見ながら言い切った。
「私達の国に来ていただければ、幹部の席を約束します。要職は投票……入れ札で決めますが、土方さんならそれでも上位に食い込むでしょう」
「……痺れるご提案だ」
ついに、国獲りへの道が拓けた瞬間であった。満足げな土方の顔を見て、榎本は手を差し出した。なるほど、西洋文化に精通した榎本らしい合意の仕草だ。多少の戸惑いはあったが、土方もそれに応え、固い握手を交わした。