表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/24

断章 沖田総司最期の日

 江戸の郊外、路地裏の目立たない長屋に沖田は潜伏していた。最近は衰弱が進行し、殆ど寝たきりであったが、それでも療養ではなく、潜伏であると言い張っていた。そうでなければ、鉄之助をここに留め置く罪悪感が膨れるばかりであったからだ。

「もう少しでおかゆができますので、待っててくださいね。今日は豆腐としらすをいれますから、美味しいですよッ!」

 台所で煮炊きする鉄之介に、沖田はほんのりと笑う。あまり強く笑うと、咳が出て苦しいのだ。

「まるで赤ん坊ですねぇ……」

 沖田はさらにやせ細り、もはや立ち上がるのさえ困難になっていた。

「鉄君は……あの黒猫に会ってましたっけ?」

「黒猫?」

「そう、屯所に遊びに来ていた猫なんですが……人懐っこくてね……」

 鉄之介は小さく嘆息した。この江戸に、どうして京都と同じ黒猫が現れると言うのだろうか。連れてきたならまだしも、身の回りの物を持ち出すのが限界であったというのに。

 沖田がこの話をする度に鉄之介は心配になった。呪われているのか、あるいは既に心が壊れているのではないかと。だから鉄之助は、剣術の話で有耶無耶にすることにしていた。

「それよりも………治ったらまた稽古をつけてもらいますからね」

「稽古かぁ……随分竹刀握ってないから……腕もなまってそうだなぁ」

「ダメですよ、多段突きを教わるの、諦めてせんからねッ!」

 実戦を強く意識した新選組の稽古は、かなり荒い。防具も付けずに木刀で容赦なく打ち込みもするし、あらゆる戦況を考慮するため、投げ技や組技も当然含まれる。そのため常に怪我人は絶えなかった。そんな稽古の中でも、沖田の稽古は特に厳しく、荒っぽかったので、隊士の間でも恐れられていた。しかし、鉄之介は幾度となく沖田に挑んだ。その心意気や良しと、沖田も手加減しない。その度に鉄之助は軽々とあしらわれてぶっ飛ばされ、時には泡を吹いて倒れるのも珍しくなかった。

 しかしかつての沖田は、全力でぶつかってくる情熱の塊のようなこの若者の相手をし、その度に僅かな成長を発見するのが、密かな楽しみであった。

「いつかは……できるかもですね」

「本当ですかッ?!」

 目を輝かせる鉄之助を喜ばせたくて、沖田は少しだけ声を張った。囁きよりはマシな程度に。

「あれはね……コツさえ掴めば難しいもんじゃないんですよ。別に……秘密でもないですし……」

 それでもやはり息苦しいのだろう、台詞は途切れ途切れであったが、本人は楽しそうである。やはり剣術の話題は楽しいのだろう。

「こう、踏み込むときに……体重を一割くらい多めに後ろ足に残すんですよ。……で、防がれたり避けられたりしたら……それをぐっと捻って……横っ飛びするんですね?トーンと……強いて言えばここの見切りは難しい……ですね」

 もうこの時点で鉄之介には意味がわからない。踏み込み中に横っ飛びとはどういう意味なのだろうか?そのくせ刺突に相手を貫く重さを乗せているのは、どういう仕組みなのだろうか。

「横っ飛びしてる間に……体を捻って、体勢を戻します。あとは……その繰り返しです。防がれるのを……早めに見切るのがコツです。手と足の連係は……とにかく稽古で……そのうち見えてきます。あと……刃を寝かせて平刺突にすると、外れても横薙ぎに派生できるので……隙を埋められます」

「ッ……お、恐れ入ります」

 そう、沖田の強さは天賦の才だけではない。その上に積み重ねた膨大な努力の結晶なのだ。鉄之介にとっては、遥かな高みと言えよう。

「そういえば、この技は天然理心流なんでしょうか?他の方が使ってるところは見たことがありませんね」

「いやぁ……僕が勝手にやってるだけだから……実質我流みたいなもん……ですね」

「そうですか。じゃあ、天然理心流・沖田派ですねッ!」

 深い考えもなく口走った鉄之介であったが、沖田はその響きを随分気に入ったようだ。

「天然理心流・沖田派かぁ……いいですねぇ……僕が死んでも、誰かが覚えてくれているなら……嬉しいなぁ」

「やめてくださいよ、縁起でもないッ!」

「はは……すみません」

 沖田がほんのりと笑っていると、突然何者かが踏み込んできた。

「誰ですかあんたら!ちょ……やめてくださいよ、病人がいるんですよッ!」

 鉄之介の抗議を無視して入ってきたのは五人の男。ずかずかと下足のまま踏み入ってくると、布団の上に半身を起こした状態の沖田を包囲した。

「新選組、沖田総司だな?」

「違うッ!その人は井上宗次郎という幕臣だ!やめろ、病人だぞッ!」

「吉田稔麿を覚えているか?お前に斬られた男だ」

 それは、かつて沖田が手にかけた長州系の維新志士の名であった。京都を火の海にする計画を進めていた、特に危険な過激派の一人である。その情報を事前に掴み、大規模放火を未然に防いだのが池田屋事件であった。

 しかし沖田は何も答えない。背中を丸めて小さく咳き込むばかりだ。

「日本を憂いた志士を虐殺し、日本を混乱に陥れた罪、その命で償え。天誅である」

 鉄之介は聞いた、何処かで猫が鳴いたのを。

 男たちが刀を抜いた瞬間、沖田が布団を弾き飛ばすと、その下には刀があった。鞘に施された金細工と桜模様は、紛れもなく京都からずっと戦ってきた愛刀・加州清光であった。流れるような抜き打ちで、まず一撃切り上げた。

「くそっ!刀を隠し持ってやがったか!」

「囲め!半死人を恐れるな!」

 跳ね上がってもう一撃、蹴り上げた布団を貫いて死角から鋭い刺突を一撃、そのまま縁側を突っ切って庭へ転がり出た。

「どうした……半死人が怖いんですか?」

 かつての沖田であればこの時点で三人を、なんなら全員を仕留めていただろう。しかし、それが今は手傷を負わせるのが精一杯であった。

 それでも、青ざめたやつれ顔で虚勢をはる姿は、鬼気迫る迫力があった。

「一斉にかかれ!」

 既に沖田は仕掛けていた。庭の砂利を相手の顔面に蹴り上げ、一瞬の目眩ましを盾にして斬りかかる。殆ど骨と皮ばかりに痩せ細った体が、木枯らしのように素早く、決して捕まらない変幻の動きを見せる。

 鉄之介は愕然とした。もちろん達人級の動きであるのだか……遅い、あまりに遅い。見る影もなく遅く鈍い。今の動きが風であるなら、記憶の中にある沖田の動きは光であった。こレが、かつて新撰組最強と呼ばれた沖田総司の、最期の儚い輝きであった。

 一人を斬り伏せ、返す刀で二人目を辛うじて受け、蹴り飛ばしたところに追撃の刺突で仕留めた。その背中を狙う三人目が動く前に体勢を整え、大きく鋭く踏み込む。一層鋭い刺突の狙いは目であった。

「あれは!」

 刺突は辛うじてかわされたが、跳ね上がった後ろ足が軸を大きく横っ跳びにずらす。そこから再びの刺突が喉を突いて仕留めた。

 まだ止まらない。もう一度体勢を立て直すと、地を這うように踏み込んで次の一人の目を狙い、弾かれては喉を狙い、避けられては胸を突く。乗せる体重の失われた刺突では、一撃で心臓を突き破るのは敵わなかったが、最後に横薙ぎが傷口を大きく抉り、相手を失血死させる。

 多段突き、二人相手に五段の大盤振る舞いであった。刺客が特別強いわけではない。今の沖田では、ここまでの奥の手を出さないと仕留めきれないのだ。

「ハァ……ハァッ!ゼェ……ハァ!」

 もはや呼吸もままならず、立っているのもやっとであるが、それでも沖田は刀を手放さない。鉛のように重い体に鞭打って、じりりと構える剣先は、びたりと相手を睨みつけている。刺客は既に最後の一人だ。

 両者打ち合い激突する。しかし軽くなった沖田では踏ん張りが利かず、軽々と吹き飛ばされる。苦悶する沖田は蹴り上げられ、文机に突っ込み、盛大に血を吐いた。

 労咳の吐血は、壊死した肺の組織から溢れた血液を由来とする。その血はまだ機能する部分をも塗り潰していくので、やがてどんなに呼吸をしても、体がそれを取り込めなくなっていく。地上にいながら溺れているようなものだ。それに苦しくなって咳込めば、肺の出血がさらに悪化してもっと苦しくなるという、地獄の悪循環である。血を血で洗う死線をくぐってきた沖田は、その苦しみを精神力だけで押し殺していたが、それでも四人を倒すのが限界であった。

「ウゲッ……ゲェ……ぐっ……があっ!」

「うわっ!」

 自らの吐いた血を手に受け、刺客の顔面をめがけて投げつける。その間に体勢を立て直そうともがく。

「!!!」

 沖田がぶつかってひっくり返った文机からは、一枚の手ぬぐいが出てきた。鳥羽伏見の前夜、土方から受け取った火の鳥の血を染み込ませたものだ。

 これに賭けるしかない。沖田は震える手を伸ばしてようやくそれを掴むが、

「わ、わからない……」

 その手ぬぐいは、さっき自分が吐き散らした大量の吐血にまみれていた。これではどれが自分で、どれが火の鳥のものなのかがわからないではないか。

(ああ……ちくしょう……)

 絶望に打ちひしがれる沖田の背後で、最後の刺客が体勢を立て直し、刀を構え、振りかぶる。

「やめろおおおおッ!」

 雄叫びをあげて鉄之介が横っ面から飛び込んでくる。小柄な若輩者とはいえ、彼も大小を帯び、鳥羽伏見で実戦経験を積んでいる、立派な新選組隊士なのである。

「ガキがぁっ!」

「それがどうした!この病人狙いの卑怯者がぁッ!」

 打ち合う。単純な腕前と経験は刺客が上回るが、勢いは鉄之介にあり、命を捨てる覚悟は同等であった。

「ッらあ!」

 鉄之介が仕掛けた目狙いの渾身の刺突は、すんでのところで躱される。しかし沖田の目は捉えていた、その後ろ足に、いつもより一割ほど体重を残していることに。

「今だ」

 沖田の声が届いたのか、鉄之介は大きく横っ跳び、空中で身をひねり、着地したときには次の一撃の準備ができていた。 

 渾身の刺突が刺客の喉笛を捉えた。僅かに浅く致命傷に届かない――否、その切っ先は最初から水平に寝かされていた。

「うぉあッ!」

 追撃の横薙ぎが刺客の喉笛を切り裂き、高らかに血飛沫をあげた。僅か二段であるが、紛れもなく多段突きであった。崩れ落ちる刺客を尻目に、沖田に駆け寄り抱き起こす。

「沖田さんッ!……出来ました、多段突きですッ……」

 沖田は僅かに頷くと、満足そうに笑顔を作った。急激に体温が失われていくのがわかる。ダメだ、もう長くない。

「確かに見ました……お見事……」

 震える手で差し出したのは、自分の愛刀、加州清光であった。美しく華やかでありながら、無数の死線を共にくぐり抜けてきた愛刀は、剣客、沖田総司の魂と呼んでも過言ではない。

「天然理心流・沖田派……免許皆伝の証です」

「確かに、受け取りました……ッ」

「嬉しいなぁ……僕の剣技に……後継者が出来るなん……」

 そこで沖田はこと切れ、沖田だったものへなり果てた。最期に僅かな光を見出した、穏やかな死に顔であった。

「かたじけのうございます……沖田さん」

 安らかに眠る沖田を布団に横たえ、手を合わせた。市村鉄之助が受け継いだのは沖田の剣技だけではない。沖田の、そして今まで誠の旗の下に散っていった無数の魂を引き継いだのである。

「行ってきます。必ず、土方さんの役に立ちます。新選組は……不滅です」

 鉄之介は振り返ることなく駆け出した。北へ向かわねばならない


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ