第四章 奥羽編その2 奪還、宇都宮城
散々に負けたとはいえ、甲陽鎮撫隊には屈強な元新撰組隊士も複数いた。彼らもこの調練に使った倉庫街を覚えていたらしく、十数人がここへたどり着いていた。鉄之助が手配した荷船は少々手狭であったが、なんとか全員が乗り込んだ。
「とりあえず……江戸のどこかに潜伏しようか」
「いいや、いっそのこと江戸湾を渡って川を遡ろう。新政府軍が江戸に来るなら、残るのは危険だ」
「江戸を出るのか?」
驚く近藤に、土方はあっけらかんと返した。
「残る理由あるかい?幕府もなくなるのに」
「……それもそうだな」
そうして江戸湾を横切った船は、江戸川を遡る。この川は関東の水運の要であるため、大小様々な船着き場がそこら中に点在しているのだ。
「近藤さん。取敢えず上陸したら、日光を目指すのはどうだろうか」
「日光?……東照宮か」
土方は頷いた。日光には徳川家の精神的支柱である東照宮があるため、幕府の直轄地である。新政府を歓迎しない勢力が集まるには丁度良い。心の中で幕府を見限ってはいるが、その辺は上手い事利用させてもらう腹づもりである。
そこにいる連中は、おそらく新政府憎しで集まっているのがほとんどで、幕府への忠誠など口先だけのふわふわした連中が占めるだろう。そういう考えの連中を抱き込むのは、近藤勇の得意中の得意である。
江戸を挟んだ反対側の田舎なだけあって、新政府の力はそこまで及んでいない。適当な船着き場から歩くだけでも旧幕臣、あるいは幕府軍の残党がちらほら、流山に差し掛かるころには、数十人規模に膨れ上がり、近藤と土方に至っては馬まで工面してもらう有様であった。
今までの京都で積み上げた実績が、実力が、まさか関東まで届いているとは思っていなかった――たとえそこに僅かな判官びいきが混じっていたとしても――近藤は、それに気を良くしていた。
「この様子なら、関東の反新政府の勢力を集めることができるだろう。もう少し人数を集めて、それから日光へ向かえば、それだけ我らが主導権を握りやすい。国獲りも近いな」
随分楽観的ではあったが、間違ってはいない。今後の最終目標である国獲りを考えれば、支持者が多いのはそのまま権力につながる。
かつて土方は近藤を大型犬に例えたが、更に言うなら公明正大な人柄であった。肝が太くて怯えることを知らない。土方のようなどこか心に暗い部分のある人間にとっては、理解できないところもあるし、憧れる部分もある。言うなれば、近藤は生まれ持った大将の器があるのだ。
それは良いのだが……長所と短所な表裏一体。その気質からして近藤は、まるで潜伏に向かない。堂々と隠れもせず旅籠に泊まろうとする様子には肝が冷えた。
「風呂だあ?身だしなみを気にしている場合じゃないだろ近藤さん」
「そうではない。いいかトシ、これだけ仲間が集まれば、俺は一勢力の長として構えねばならん。長が小汚い組織は、格が落ちて軽く見られるぞ。仲間も戦力もすぐに頭打ちだ」
「そんなもんかねぇ……」
最初は抵抗していた土方であったが……勝沼の敗戦からここまで、緊張し詰めの逃亡生活は肉体と精神に多大な疲労を刻み込んでいた。着物も装備もボロボロで、心身ともに幽鬼の如き有様であった。
「そうだな……少しだけ、休むか」
その判断が最大の過ちであった。新政府の動きは土方や近藤が思っていたよりずっと早かった。土方たちが江戸川を遡っていたころ、新政府軍の幹部は既に江戸城へ入り、江戸城明け渡しの会談を行っていた。会談とは言うが、江戸の郊外に新政府軍を待機させ、総攻撃をちらつかせた上での「交渉」である。
土方らが流山で休んでいる数日の間に、新政府軍は関東一円に猛烈な勢いで軍事拠点と情報網を構築していた。そのため、粕壁に設けられた拠点に「近藤勇が流山で残党を集めているらしい」という情報が届くまで、大した時間はかからなかった。
ある日の早朝、彼らが拠点にしていた旅籠は、薩摩藩士三百人に囲まれていた。無論、厳戒態勢の完全装備であった。残党を集めている事も知られていたせいか、たった一人の捕縛のためにゾロゾロと銃まで持ち出している。
「近藤勇と思しき人物がいると報告があった。速やかに出頭し、取り調べに応じよ」と使者が告げる。最悪だ、悪夢である。
相手は京都で何度も摘発し、切り捨ててきた薩摩藩士。新撰組と分かれば容赦しないだろう。かと言って、この出頭要請を断れば、近藤勇ですと白状するようなものだ。寄せ集め、調練もままならない敗残兵数十人など、一瞬で皆殺しだ。
「ぬかった……まだだ、まだ何か出来るはずだ」
懸命に頭を巡らせる。誰か背格好の似た適当な人間に近藤勇を名乗らせて差し出すか?いいや、寄せ集めの人間の中に、そんな大役の捨て駒を任せられる人間がいるわけない。拷問されても口を割りそうにないのは土方と斎藤しかいないが、二人とも人相が違い過ぎて替え玉は無理だ。
一塊になって飛び出すか?ハチの巣だ。全員が顔を隠していたら時間稼ぎにはなるか?立てこもって夜まで待つか?自分か斎藤が抜け出し、近くで騒ぎを起こして陽動するか?
「すまんなぁ、トシ。俺の国獲りはここまでのようだ」
近藤が要請に応じると言い出した。自分が行く、その間にお前達は逃げろと。
「待ってくれ、それだけはダメだ。ここであんたが死んだら、本当に全てが終わっちまうよ!」
土方は追いすがった。この意地っ張りが人目もはばからすに涙を流したのは、生まれて初めてかもしれない。
「なあに、どうとでもなるさ」
「待ってくれ、それなら……これだ、これを飲んでくれ。これを飲めば不死身に―」
懐から取り出したのは、アイヌ模様の入った革袋であるが、近藤は受け取らなかった。
「なんだそりゃトシ、お前らしくもない。そんな訳の分からんもんに頼るなんて。
泣くな、みっともない。せっかく鉄君がお前を奮い立たせてくれたのに、もう挫けるのか?」
笑う近藤は、既に身支度を初めている。
「安心しろ、連中が探しているのは近藤勇、別人だと言い張ればいい。疑いが晴れれば放免さ。そうだなぁ、大久保大和なんてどうだ?よくある名前だが、なかなか響きがいい」
「そんなので誤魔化せるわけねえだろ!潜伏もできないあんたが偽名使って他人になり済ますなんて無茶だ!」
「この程度の死線は何度も潜り抜けたさ、今度だって大丈夫、先に日光で待ってろ。いや……この分じゃ、怪しいかな。
そう言えば、江戸じゃ榎本とかいう幕臣が海軍で何かを企んでる噂があったな。機会があったら会ってみろ」
「うるせえ!あんたにそんなことさせるくらいなら、全員が同時に別方向に逃げて撹乱させる方がマシだ!……そうだ、そうしよう!斎藤!裏庭の青草刈ってこい、火を焚く、そこにぶち込め!煙幕を張って飛び出すぞ!飛び出すときは全員顔を隠せ!追っ手を分散させれば、それだけ撒きやすい!生きて切り抜けるんだ!」
土間に飛び降りて本気で火を起こそうとする土方を見て、近藤は笑った。
「全く……ほんとに、トシは面白えな……斎藤君、頼むよ」
「はい」
斎藤の手刀が一閃、顎の先を引っ掛けるように打ち抜かれた土方は、瞬く間に脳震盪を起こしてその場に崩れ落ちた。
次に土方が目を覚ましたのは、街道から離れた無人の荒寺であった。日はもう高い。流山は遥か後方、近藤の姿は当然どこにもない。
「近藤さんはどうなった?」
「江戸へ連行されていったと聞いています……恐らく、見破られたのかと」
「クソッ……!」
床を殴った。何度も何度も。自分が油断したせいで、こちらの動向を勘づかれてしまった。やはり。旅籠に逗留するのは間違いであったのだ。しかし、いくら後悔してももう遅い。次の手を撃たねばならない。
救出に行くか?どこへ?連中の拠点はどこだ?草加か?千住か?そこまで行ったらもう江戸ではないか。雑多な地域なので反新政府の連中もいるだろうが、新政府軍もそれは承知の上だろう。かなりの規模の拠点が作られていることは容易く想像できる。
「斎藤、俺たち以外にあと何人いる?」
「八人。元新撰組はうち三人」
今朝散り散りになったであろう連中が、ここまで残っているのは奇跡に近い。だが、拠点に切り込み、近藤を救出するには絶望的に少ない。いいや、例え全盛期の新撰組がいたところで、新兵器相手に救出作戦など、緻密な作戦ができるとは思えない。
考え得る殆どの手段が、かつて京都で土方が取り締まってきた不逞浪士と大差ない荒業ばかり、どの作戦も穴だらけなのが手に取るようにわかる。
「ダメだ……」
近藤はもう助からない。土方の冷酷な部分が、完全にそれを認めてしまった。
「何が国獲りだ、畜生め……俺は……俺たちはここまでの男だったのか……」
「いいえ」
独り言に割り込まれて、ギョッとした。斎藤はいつもと同じ、僅かに笑っているように見えなくもない顔のままであった。
「本当は……こういうのは市村君や、それこそ近藤さんの役割なんですがね」と前置きをして続けた。
「初めて試衛館を訪れたとき、驚いたんですよ。今時こんな古臭い剣術があるのかと」
斎藤の使う無外流は、相手を受け流し、返しの一撃で仕留めることを至上とした、攻防一体の洗練された剣術であった。それに対して近藤、土方、沖田達が納めていた天然理心流は、気合と力で間合いを制し、相手の刀を巻き込みながら一撃で仕留める、洗練とは程遠い剛剣であった。古臭く見えるのも当然である。だが、それが今さらなんだというのか。
「そのくせやたら強いから、内心面白がってたんですよ。そしたらどうですか、その田舎剣術が、薄汚い浪人集団をまとめあげ、見事に鍛え抜いて幕臣まで成り上がったじゃありませんか。
……私はね、一人の剣客として見届けたいんですよ。この古臭い剣術が、古臭い剣術が育てた人間がどこまでいけるのか。
沖田さんの病気は残念だったとしか言いようがない。近藤さんは……油断もありましたが、あの場ではああするしかなかった。だからね、私は残ったあなたを、何がなんでも見届けたいんですよ、土方さん」
「お前……そんな事考えてたのか」
考えたこともない理屈をぶつけられ、唖然とする土方である。
「ええ。でなければ暗殺やら粛清やらの血なまぐさい仕事を進んで受けませんよ、私も人の子ですので。武田、清川、伊東、他にも色々始末してきましたが……それも全ては、あなたがた天然理心流のゆく道の邪魔を排除し、どこまでも進んでもらうためなんですよ、限界までね。
本当は知られたくなかったんですが………まあ、仕方ない。ですから……」
すっと、斎藤の言葉にごりっとしたものが混じる。いつもうっすら微笑んでいるような眼の奥の奥に、極めて鋭い狂気的な光があった。
「ここで全てを諦めるなら、今すぐ引導を渡します」
ドス黒い殺意を滾らせる斎藤であるが……土方は大きく深呼吸すると、ニイッと笑ってみせた。
「やってみろよ」
無言で睨み合うことしばらく。斎藤は殺気を引っ込め、いつもと同じ調子に戻った。
「安心しました。まだ、目が腐っていない。この前の市村君の言葉が、まだ生きている」
近藤の離脱は痛恨の痛手、半身を引き裂かれるのに等しいが……まだ、国獲りは完全に頓挫したわけではない。
「……急ごう、日光だ」
「はい」
このやり取りとほぼ同時刻、江戸城の無血開城が決まった。時代の流れは、新選組の残滓を確実に押し流していくのであった。
それからの土方達の旅は過酷であった。日に日に新政府の影響が強まるこの状況、どこから土方のことを密告されるかわからない。近藤ほどではないが、土方も薩長土から目の敵にされているのだ。まずは「幕臣・渡辺隼人」と偽名を使う事にした。更には廃屋や荒寺、あるいは反新政府の協力者の下を短期間で移動しながら、慎重に北上することとした。大きな街道も極力避け、とにかく人目を嫌って動くその様子は、犯罪者そのものである。京都で長い事不逞浪士を取り締まってきた身としては、追手の嫌がる方法は幾らでも知っていた。ただ、あまりに慎重だったためか、五月に宇都宮についた頃には、既に宇都宮城は新政府軍の手に落ち、既に日光攻めが始まっていた。
遅かった、慎重過ぎたのだ。
「本当に行くべきか?日光……」
日光は徳川の精神的支柱であり、山間なので守りを固めるのには向いている。その半面、街道の行き止まりでもある。甲府と違って交通の要衝ではないので、戦術上の利点は薄い。街道を封鎖されれば、勝てる見込みのない籠城戦が待っている。
そんな事を考えて頭を捻っていたのは、宇都宮の城下町、偶然出会った反新政府の商家に身を隠していたときであった。
服や装備をまともなものに一新できたのは僥倖であったが、体の方はそうもいかない。ひどい怪我はないが、全身に小さな不具合がいくつもある。こんなときに石田散薬があればと思うが、遠い日野で作っている薬がこんなところにあるはずもない。
既にここは新政府軍の勢力下、長居はできない。数日の間に発たねばならないが……はたしてどうしたものか。
そんな折「土方さん」と斎藤が取り次いだのは、この一帯、宇都宮藩を治める戸田氏の残党であった。どこからか聞きつけたらしく「京都からここまで戦っておられた土方殿に、ぜひご助力を願いたい」とのことであった。今回ばかりは喜ばしいが、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものだ。新政府側に情報が流れていたかもしれないと思うとゾッとする。
聞けば、宇都宮城を制圧した新政府軍は、既に主力を日光攻めに向けているため、城にいるのは最低限の頭数と、怪我人ばかりらしい。そこを突いて城を取り返せないかという相談である。
「なるほどな……もう少し、情報が欲しいな」
土方は少し考え、少し離れた宇都宮城を眺めた。大きな城ではないし、少しまとまった数の味方がいる。城門さえ突破してしまえば、取り返すのは然程難しくはないだろう。しかしながら正面切って城攻めをしても、日光から本隊が戻って来る迄に攻め落とすの難しい……やがて考えがまとまったのか、商家の主人に声をかけた。
「ご主人、少々用意していただきたいものがあるのですが……」
城の前の見張りが素っ頓狂な声をあげた。
「熱燗で飲む薬ぃ?」
「へぇ、珍しいでございましょ。武蔵国で作られてる薬でございまして、関東から甲府まで、結構広く飲まれてる薬でございます。一匁を熱燗でお飲みいただくと、打ち身、捻挫、骨折に抜群でごさいます」
薄汚い行商人が新政府の兵に薬を売り込んでいるようだ。
「聞いたことないな……」
「そりゃそうでございます。なにしろ河童に作り方を教わったそうでごさいますので」
「河童に?」
「おや?旦那ご存じない?河童はね、左右の腕の骨が中でつながってるんですよ。だからこう、右を引っ込めると左が伸びるんですよ、それじゃあ肩が凝ってもおかしくない。その上相撲も好きですからね、怪我はつきものでございます」
「ふぅん……」
掌に乗せた薬包を胡散臭そうに眺める兵士に、商人は耳打ちした。
「旦那、よくお考えになってくださいよ」
「どういうことだ?」
「熱燗で飲むんでございますよ、この薬。もちろん戰場やお役目中はお酒なんて飲めないでしょうが、打ち身、捻挫、骨折の薬でしたらどうでしょう?ケガを少しでも早く治すのは、むしろお役目に忠実なのではごさいませんか?」
「……確かに!」
見張りがゴクリとのどを鳴らした。もう一押しでこいつは落ちる。
「しかし……」
「あ、わかりましたよ旦那、お酒がないんじゃございませんか?ご安心ください……おおい!」
行商人が声を掛けると、数人の人足が荷車を引いて現れた。そこには、酒樽が山と積まれている。
「この通り、地酒も用意してございます。関東のお酒は試されましたか?日光は水がいいのでいい酒が……おっといけない、お薬が召し上がれますよ……いかがです?」
「中で詳しく話せ……」
「へへっ、恐れ入りますぅ」
へこへこしながら城内へ入った行商人は、人知れず大きく息を吐いた。
(……十数年ぶりにやったが、なんとかできるもんだな、口上)
もちろんこの薬売りの正体は土方である。城内が怪我人ばかりと聞いて、情報収集のために潜り込んだのだ。昔取った杵柄は確かに身についていた。
「どうぞどうぞご覧ください。武蔵国の河童の妙薬石田散薬。打ち身、捻挫、骨折に石田散薬。熱燗でお召し上がりください石田散薬。心と体を解きほぐす妙薬石田散薬。いかがですか?お酒ではございません、お薬でこざいます。用法用量を守って楽しくお飲みください石田散薬」
軽妙な語り口で売り歩く。もちろん本物の石田散薬があるわけもなく、中身は米粉である。毒でも混ぜてやろうかとも思ったが、その場で万が一バレては目も当てられない。今回はこうしてゆっくり城内を練り歩き、見張りの配置や怪我人の様子をしっかりと頭に焼き付けるのに専念した。
そうしてくまなく練り歩き、城代にまで挨拶と売り込みをかけること丸一日。夕暮れごろにはすっかり空になった荷車を引いて悠々と城をあとにするのだった。
「恐れ入ります。ぜひお試しください石田散薬、また参りますので、その際はぜひよろしくお願い申し上げます。石田散薬でございました」
何度も何度も頭を下げながら城を後にする。完全に死角に隠れるまで、芝居を抜かない。
「よし、なかなか有意義だったな」
一言呟いて駆け出す。これからが大変なのだ。
その夜。城内からは笑ったり歌ったりと、宴以外考えられない歓声が聞こえてきた。
「……思ったより早いな。勝ち戦とは言え、やはり戦続きは精神が削れていたか」
夕暮れ時から始まった酒盛りは、みるみるうちに城内を席巻し、夜も更ける頃にはかなりの人数が酔い潰れたようであった。ここからでは見えないが、あの人数があの量を飲んだとすれば、足元がおぼつかない者や、寝落ちするものがごろごろ出ていてもおかしくない。もちろん全員ではないだろうが、戦力は大幅に落ちている。
本隊が日光攻めで出払い、残っているのは最低限の人数と、怪我人ばかり。となれば城内の士気が低いのは想像がついた。そんなところに熱燗で飲む薬なんてものが出てくればどうなることやら。人間は酒などの嗜好品を一切断つ事は出来るが「これは薬である」などと大義名分を得て少しだけ許すと、一気にタガが外れる。ほどほどは、ゼロより難しいのだ。
城門の上に影が現れた。するりと門の上を走ると、一人、また一人と見張りを片付けていく。うめき声一つ上げさせない鮮やかな手口は、相手が半分以上酔っぱらいである事を含めても、かなりの手練である。やがてその影は周囲の見張りを片付け、音もなく門前へと降り立つと、閂を外して内側から城門を開ける。
そこに一瞬月影が差し込んで、人影の正体を照らし出す。斎藤であった。昼間、荷車を引く人足の一人に化けていた斎藤は、密かに行商から抜け出しては城内に身を隠し、兵が酔い潰れるのを待っていたのだ。新選組の頃から粛清や暗殺を請け負っていた斎藤は、多少ならばこういうマネも出来た。
門がすっかり開いた頃、そこには完全装備の戸田家残党を率いた土方の姿があった。その数百数十人。
「突撃ッ!戸田家の意地を見せろ!」
土方の声で一斉に鬨の声を上げて雪崩込む。元々この城の人間である戸田家の知識と、人員配置を目に焼き付けてきた土方が組めば、怪我人が多くて戦えない区画も、城代がいる場所も、武器庫も手に取るようにわかる。
「進め!進め!城を取り返せ!新撰組だ!新選組がいるぞ!京にいたころのように切り捨ててやる!」
土方はとにかく檄を飛ばした。自らも戦闘に飛び込んで、大混戦の中で斬って斬って斬りまくった。
「旗だ!旗を上げろ!」
夜風に戸田氏の旗と、誠の旗が翻った。戸田氏の逆襲に新撰組が加勢した、これは新政府軍にとって寝耳に水であっただろう。
「新撰組がいる!」
「そんな馬鹿な!」
まともな兵力もないこの状況では、新撰組相手に闘志を燃やすのは不可能だったろう。恐怖と混乱は一気に城内に伝播していく。小さな城の中では、新しい武器や大砲の利点も活かしづらい。一息だってつかせてやる必要はない、一気に攻め落とすのだ。
こうして土方たちは、あっという間に宇都宮城奪還に成功したのだった。
「いける……新政府相手でも、何とかなる!」
土方はぐっと拳を握った。これは大きな経験である。
「土方殿、恐れ入った!」
と大声で肩を叩いてくるのは戸田家残党を取りまとめていた男であった。
「まさかたった一晩で城を取り返す、しかも酒を飲ませて良い潰すとは……まるでヤマトタケルのヤマタノオロチ退治ですな」
「いやなに―」
いつもの土方であればここで「こんなもの、首を一つ斬り落としただけさ」と軽く受け流すであろう。しかし、ここに近藤がいたらどうだろうか。そう思い直して姿勢を正すと、かつての近藤を真似てみることにした。
「確かにこの土方、斎藤と共に城奪還の切っ掛けこそ作りましたが、そんなものは些細な口火に過ぎません。最終的には、戸田家の皆様が奮い立ち、攻め入ったからでございます。勇猛な戦いぶりには、私も目を見張りました。
新政府軍はまだまだ多いし、武器や戦術は強力だ。今回のようなだまし討ちは何度も使えません。だからこそ、これからは一丸となって戦わねばなりません。そうすれば、いずれ宇都宮城は反新政府の旗頭になるでしょう」
と、少々愛想を加えて返してみたところ……予想以上の効果があった。勝利に飢え、乾いていた彼らの心は、僅かな火種でも恐ろしいほどの燃え上りを見せた。
「聞いたか皆の者!我ら戸田家が、反新政府の旗頭じゃ!」
「やれるぞ!」
「新政府軍なんて返り討ちじゃ!」
「鬨の声をあげよ!」
と、夜空を突き破らんばかりの鬨の声があがった。
驚いたのは土方である。もしも近藤がいれば、と少々歯の浮くようなことを並べてみただけなのだが……その士気高揚は予想の何倍も上であった。かつて大言壮語と言っていたことを、土方は心の中で近藤に詫びた。
残念ながらこの数日後、近藤は罪人として斬首されるのだが、土方には知る由もなかった。
それから更に数日後、既に土方達は旅の空であった。土方と、斎藤と、宇都宮で合流できた元新撰組や元甲陽鎮撫隊、更には戸田家残党の志願者を含めた、数十名の一行に成長していた。
「……てっきり、あの場で国獲りをするものかと思っていました。十分心を掴んでいたのでは?」
ぎりぎり土方にだけ聞こえる声量で斎藤。まったく器用な男で、まるで口が動いていないから、傍目には喋っていないように見える。
「俺も考えたが……厳しいな」
「と言うと?」
「宇都宮城は一回取られてる。つまり新政府も弱点を知ってるってことだ。戸田家の兵力も回復には時間がかかる。日光攻めの本隊が駆けつけてきたら、耐えられん。
戸田家の殿様も健在で、戻ってくるようだったしな。戻れば当然、御家人はそっちにつくだろうしな。
簒奪すような真似をすれば袋叩きだ。成功しても仲間割れは避けられん、そうしているうちに新政府軍が戻ってきたらどうなる?復讐心に燃える漁夫の利だ」
「なるほど……ではどちらへ?」
「会津を目指す」
会津の大名である松平氏は徳川家と親戚関係である。そのため、慶喜の思惑とは裏腹に、幕府へ強い肩入れがあったし、藩としての力も、宇都宮藩とは比べ物にならない規模である。だがそれだけではない。
「面白い話を聞いた、奥羽列藩同盟というものがあるそうだ」
「同盟?」
いつもうっすら微笑んでいるようなこの男が、怪訝な顔をするのは珍しい。土方が知る限りでは初めてであった。
「仙台、米沢、会津、庄内、久保田、弘前、盛岡。その他含め東北の三十近い藩が同盟を結んだそうだ、四月にな。幕府の次は自分たちが危ないと思ったんだろう。彼らがもし新政府の干渉を跳ね除ける事ができれば、それはもはや新しい国だ。無論、新政府が易々とそれを認めるわけが無い。その境界線はまた戦になる」
「そこが会津だということですか?」
頷く。
「この国の国境はまだ定まっていない。国獲りの機会はいくらでもあるのさ。火の粉が降り注ぐど真ん中を行かねばならんが……それは今に始まったことじゃない」
と言いかけたところで、遠くから人だかりが押し寄せて来るのが見えた。
「新政府軍だ!」
土方を追ってきたのか、あるいはもう宇都宮城を取り返したのか、それとも行軍から離れた間抜けな一軍なのかは分からないが、今の土方達にとっては、逆立ちしても敵わない相手である。
「散れっ!少人数に分かれて逃げろ!連中が追っているのは俺だ!命があったら、会津でまた会おう!」
まさに鶴の一声、土方一行は蜘蛛の子を散らすように散り散りになって逃げる。全盛期新撰組程でなくとも、土方の元で戦ってきた彼らには、それなりの練度があるようだ。
銃声。足を止めようと泡を食って発砲する新政府軍であるが、殆どの弾丸は明後日の方向へ飛んでいく。
「がっ!」
ただ一発、運悪く土方の脚を抉った一発を除いて。焼けるような痛みが文字通り足を貫くが、土方は脚を止めることを許さなかった。すぐさま斎藤が肩を貸す、無事な方の足で懸命に地面を蹴って駆ける。
「諦めてはいませんよね?」
「当然だ、絶対離すなよ」
「はい」
ヤブに飛び込み姿を隠す。手早く止血だけ済ませると、藪をかき分け再び駆け出した。足に銃弾を食らったとは思えない速さである。
土方はまだ諦めていない。国獲りをするならば、この動乱に紛れ、利用するしかない。新政府を返り討ちにした上で王の座を簒奪するのは至難の業であるが、行かねばここで土方の戦いはおしまいなのだ。狂ったように走り続ける。それが、この男ができる新選組への最大限の餞だ。