思い出せない【アイツ】その2
毘沙梨は言葉に詰まった。
というより、言葉が出てこなかった。
目の前の女性は、確かに私の名前を呼んでいた。それは事実だ。
だが、この女性が誰なのか、何者なのか思い出せない。
つい数秒前まで覚えていたことが、綺麗に消えていく。
その瞬間。
目の前の女性が視界から消えた。
女性だけではない。
家も、周辺も、空も、匂いも。
毘沙梨の眼前から全てが消え、辺り一面は白の背景に包まれている。
…意識はある。
自分に何が起こっているのか、全く理解できていない。
「…何なのよ」
そう呟くのが精一杯の抵抗だった。
その刹那、自分以外の声がした。
「おい、私が見えるか」
そう問われると同時に、凛とした女性の姿が見えた。
「ど…どなたですか?」
女性は腕組をしたまま、表情を変えずに続けた。
「つい今しがた、お前に関するほぼ全ての記述の消去が完了した。これから推敲作業に入る」
「はあ?」
何一つ理解が追い付かない。
「私のことはアカシャと呼べ。そう呼ばせてきた」
女性は初めて毘沙梨に対し情報を与えた。
「あの…記述の消去っていったい…?」
「まあ、そういう反応になるわな。自分の名前は言えるだろう」
「天門毘沙梨です…」
「年齢は?」
「もうすぐ17になります…」
「両親の名は?」
「え…」
アカシャからのごく簡単な筈の質問に、一切の回答が浮かばなかった。
「アタシの両親…?名前…?」
「出身地は?」
「…?」
絶句したまま回答ができない。
「では、1+1は?」
「…2」
「4×9は?」
「…36」
「よし、やはり存在そのものを消さない限り、蓄積された学問的知識は消去されないな。成功だ」
「あの、成功って…?」
「では今から行ってもらうぞ。準備はいいか」
「ちょ、ちょっと待ってよ!!」
「なんだ」
淡々と自分勝手に話を進めようとするアカシャと名乗る女性に対し、流石に堪忍袋の緒が切れた。
「何なのよ、消去って!?なんで私、自分のことと計算しか覚えてないの!?」
「計算以外にも覚えているだろう、読み書きとか」
確かに、先程から会話が成立している以上、文章把握能力に問題はなさそうだ。
「で、でもなんで私、何もかも思い出せないの!?」
「私が記述を消したから」
「…アンタ、頭がおかしいの?それとも私?」
「なにも可笑しくないぞ、当然の帰結だ」
訝しがる表情を浮かべる毘沙梨に対し、アカシャが説明を加える。
「私はお前たちのような人間ではない。所謂【概念】なんだよ」
「がいねん?」
「そう、私の事はアカシャと呼ばせているが、人によってはアカシック・レコードと呼ぶ」
「…中学の時、国語の授業で聞いたことがあるわ」
「お前と私が今いるこの場所は、アストラル光と呼ばれる概念なんだ」
「だから、概念って何のことよ!?」
「そういう知識は身に着けてないんだな。
わかりやすく言えば、まだ形として存在していない存在のことだ」
「…わからないけど、つまり私自身はもう存在してないの?死んだの?」
「死んだとかの次元ではない。お前はもうお前がいた所に存在していないんだよ。
存在を消したんだ。私が」
「…ふっざけないでよ!なんで!?なんでよ!?」
「まあ慌てるな。順序良く教えよう。
天門毘沙梨よ、お前には幼馴染がいたな?」
「ええ」
「名前を、憶えているか?」
「…覚えてないわ」
「顔は覚えているか?性格は?」
毘沙梨は勢いよく首を横に振った。
「それでいい。ではその部分を戻そう」
アカシャがそう言った瞬間、毘沙梨に【アイツ】の情報が怒涛のように流れてきた。
「…ゼ…ンヤ…善弥!善弥よ!」
毘沙梨の表情に血の気が戻ってきた。
「長増 善弥!!アタシとは幼稚園からの幼馴染!
優しくて、でもちょっと奥手で、身長は175cmくらい!」
「そう、そしてお互いの初恋の相手だ」
「ななな、何で知ってるのよ!」
「そう書いてあったからな」
「書いてあった…?」
「消えたんだよ、長増善弥に関する記述が」
「…どういうこと?」