止まった時間
転移前、東雲視点
暗めです
就職と同時に実家を捨てたのか、どうでもいいと実家から捨てられたのかは、今でも分からない。ただ言えることは、やはり自分は東雲家にとって不要だということだけだ。
東雲美月がその会社に就職したのは、ほとんど偶然だった。現代では珍しくもないIT企業で、飛び抜けた業績を誇るわけでもなく、かといって悪くもない。
最初から狙っていたのは業種だけだった。よくある求人に対して願書を出し、面接で落とされなかったうちの一つだ。世間ではそこそこ有名な大学に在籍していたお陰か、運よく複数の内定をもらうことができたため、特に達成感も感慨も抱かなかった。
もし自分が『普通』の女子大生だったなら、少しでも条件がいい会社を選んだだろう。将来に対して希望も目的もない東雲は、仕事以外の時間に向き合いたくなくて、なるべく忙しそうな会社を選んだ。大学の知人にはもったいないと言われたものの、自由に使える時間ができることが怖かった。
――そう、知人だった。
効率よく情報を収集するために、仲が良いフリをしているだけの知り合い。相手がどう思っていたのか知りようもない。興味もない。就職してから会うことはなかったが、週に一回程度はメールでやりとりをしていた間柄。
騙し、騙されて、互いの足を引っ張る環境にいた東雲に、友人と呼んでも許されるのではないかと錯覚させてくれた――知人。
就職先では会社側の手違いによって営業に回された。プログラマー募集とされていた求人と違う内容に、お人好しな社長と人事には、随分と謝られたことを覚えている。東雲にとっては、どうでもいいことだが。
むしろ他人の心理を読んで好印象を与えるのは得意だ。顧客が抱える問題を探り、言語化して会社へ持ち帰ることを苦痛と思ったことはない。会社で扱う『商品』についても、プログラマー志望だった東雲が理解するまでに時間は掛からなかった。
同じ営業の先輩方との関係も良好さを維持できていた。隣の席の幸子先輩は何かと世話を焼いてくれるし、出張が多いという田中さんは珍しいお土産をくれる。揃いも揃って甘い菓子をくれること以外は、順調な社会人生活を送っていた。
甘いものは食べたくない。
実家を思い出す。
憂鬱な茶会の席に、必ず出される菓子。
口の中に広がる甘い味が、あの空気を連想させる。
個別包装してあるものは家へ持って帰って捨て、それ以外は無理に食べるしかないと思っていた。そうすれば関係性を壊すことはないのだと。
――そういえば。
由利からもらう土産の中に、菓子は含まれていなかった。七味唐辛子をまぶした煎餅やら真空パックされた煮卵のような、酒のつまみになりそうなものばかりだった。
なぜと聞けば、東雲にとっては予想外の答えが返ってきた。
「だってお前、甘いもの好きじゃなさそうだから」
まるで簡単な計算式のように、あっさりと。
一言も言っていないはずなのに。
全く警戒していなかった相手から、心を読まれた悔しさを久しぶりに思い出した。
由利は特に目立つ人間ではない。新規の顧客を開拓してゆくような派手さはなく、顧客との関係を保つために派遣されることが多い。契約の更新が迫ると、必ずと言っていいほど駆り出されている。そのため数字上の成績は振るわないのだが、会社にとっては重宝される存在。
長期的に見て、初めて価値が分かる。
視野が狭くなっていたようだ。
己で気付けなかったことに悔いが残る。
ただ、その日から菓子の差し入れが減ったことは感謝している。
*
仕事に没頭して半年を過ごした頃、社長が社員旅行なるものを提案してきた。会社を設立してからようやく軌道に乗ったため、社員に対して還元をするそうだ。大型連休に合わせて企画され、会社を三つのグループに分けて実施されることになった。
営業部は東雲の他に幸子先輩と由利がいた。
社員旅行と言いつつ内容は大雑把なもので、温泉街で一泊して宴会をするという内容だった。集団で観光地を巡らないぶん拘束時間が短く、かつ旅館のランクも高い。社員を自社に囲い込むための、社長の計画だろう。福利厚生に精神的な充足感がある会社というものは、社員の離職率は低い。
夜の宴会まで温泉で時間を潰し、のぼせそうになる手前で割り振られた部屋へ戻ることにした。売店の前を通りかかったとき、一角に設けられたクレーンゲームに目が止まる。
半ば寂れているゲームコーナーで、由利が真剣な顔をして景品を見つめている。
東雲はふらふらと引き寄せられるように近づいていった。旅館の浴衣を乱れなく着ている姿を見て、家庭の教育なのか本人の性格なのかと考えていたのは、きっと話しかける一言目を意識しすぎないための逃避だ。
「何してるんですか、由利さん」
緊張は声に出なかっただろうか。
感情を抑えすぎて冷たく聞こえはしなかっただろうか。
由利は振り返って東雲を見ると、苦笑して景品へと視線を戻す。
「社長命令で、このミックスナッツの缶を落としてこいって言われたんだよ。明日、自由参加でボーリング大会やるって言ってただろ? 優勝者の景品にするんだと」
「用意してなかったんですか?」
「現地調達なら主催者の荷物が減らせるだろ? 後は名産の日本酒も付けとくか」
アクリルガラスの先で大きな缶が揺れている。缶には輪が取り付けられ、横向きに固定されているポールに引っかかった状態だ。これをクレーンのアームで押したり引っ掛けて下に落とせばいいらしい。由利は経費としてもらった五百円で挑戦し、四連続で失敗したのだという。
「なあ、このゲームってこんなに難しかったっけ? 社長に千円ぐらいもらっておけばよかったな。あと一回で落とさないと自腹なんだよ」
「私に言われても……あ、良さそうなポイント」
「このまま落ち……て、くれないよな」
もう少しアームの力が強ければ成功したのだろう。失敗を笑うかのように缶は不安定に揺れるのみだった。
「両替機あったっけ?」
「んー……由利さん、ちょっと待って下さい」
東雲は小銭入れから百円を出し、投入口へ落とす。ランプが付いてからボタンを押してクレーンを動かすと、狙っている場所へと誘導した。開いたアームはポールと輪を避けて缶に当たり、重心を崩す。更に上へ戻る際にアームが閉じて缶が動き、思惑通りに下の取り出し口へと落下してきた。
「落ちた! すごいな、どうやったんだよ」
「ただの偶然です」
あまりにも喜んでくれるので、東雲は恥ずかしくなって適当に答えた。役に立ちたくて、由利が操作するところを観察していたなど言えない。言わない。
由利は取り出し口から缶を拾い上げて小脇に抱える。
「ありがとな。社長が温泉から出てくる前に取れて良かったよ。百円は……今は無いから、とりあえずコレやるよ」
そう言って手渡されたのは、メタリックカラーのウサギがついたストラップだった。可愛く見えるように目や口の配置が計算されている。手慣らしに取った景品と由利は言う。
「じゃあ、また後でな」
屈託のない笑顔を向けられて、東雲の思考が乱れた。言語化できないものが流れて、簡単な返事すら阻害する。
――今にして思えば、この時に始まっていたのか。
翌日、参加したボーリング大会では、本気で優勝を狙いにいった。残念ながら二位という結果に終わってしまったが、そんなに酒が飲みたかったのかと勘違いしてくれた由利に、優勝賞品と同じ日本酒を買ってもらったから満足だ。
もらったストラップは仕事用のカバンに付けることにした。見える場所ではなくて内ポケットのチャックに付けたのは、顧客に見えないようにするためだ。決して彼女と歩いている由利を目撃したからではない。
だから一ヶ月後にフラれたと聞いて、もらった酒で密かにお祝いした自分は、どうしようもなく性格が悪いのだ。きっと。
*
東雲は短い回想を終えて目を開けた。
ガソリンの臭いが不快だ。
信号待ちをしていた辺りから記憶が飛んでいる。
体の痛みを感じていたような気がする。
脳が痛覚を遮断したようだ。
運転席では由利がぐったりと目を閉じていた。大きな外傷は見当たらない。
――良かった。
由利が無事なら、それでいい。
この一年で思考を侵食している感情は、とにかく厄介だ。感情のままに行動することは危険だと知っているはずなのに、容易く理性を駆逐しようとする。今も己のことよりも他人を優先してしまう。
――ただの『欲』なのに。
一方的にこんなものを向けられる由利に対して、東雲は他人事のように同情した。
顔を上げる力も尽き、膝の上に視線が落ちる。画面を開いたままのタブレットが、そのまま太ももに乗っていることが可笑しかった。衝撃でアプリの一つを開いてしまったのか、大量のスクリプトを画面に吐き出している。
見たことがない文字だった。アジアの主要な言語や欧印語ではない。ずっと眺めていると、視界が赤く滲んできた。
文字の一部が点滅し、何故だかそれを押さなければいけない気がしてきた。
近付いてきていたサイレンの音が、潮騒に変わってゆく。
――時間が無い。
右手が宙を掻く。
これを押せば、元に戻れないだろうと予感が働く。
構うものかと手が滑った。
どうせ、もう終わるのだ。
一度くらい後先を考えなくても良いではないか。
指先がパネルに届いた。
文字が右手に絡みつく。
こうして行動していれば、変わった未来になっていただろうか。
例えば、隣の――
*
東雲は明るい森で目を覚ました。
混乱した頭で立ち上がると、視線が高いことに気付く。
己に起きた変化はすぐに分かった。一つでも疑問を抱くと、脳内に『答え』が表示される。明らかに別の存在へ変わったのだと嫌でも思い知った。
大量に展開される機能を手懐けるには時間がかかり、地図に表示された名前を発見したのは、随分と後だった。
「……由利さん?」
あの日から忘れられない名前が、そこにある。
また思考が乱れる。
すぐに合流すべきだろうが、外見すら変わってしまったことを信じてもらえるだろうか。信頼を得るためには何をすればいいのか。そもそも、これは本当に由利なのか。
答の出ない疑問が流れて消えていった。
楽観的になれない思考は、やがて一つの答えに収束してゆく。
――由利さんがここにいるということは、同じく命が尽きたか、仮死状態なのか。
この世界には、どうやら魔法が存在しているらしい。ならば、こちらから向こうへ渡る方法もあるかもしれない。
戻りたいと言われたら、望み通りにすべきだ。
向こう側にある体に問題があるなら、治療法を探す。
彼が無事に帰れるなら『私』は消滅してもいい。




