014 精霊の道
ベッドに宿った精霊が勤勉に仕事をしてくれたお陰で、目覚めは非常にすっきりとしていた。ただ気分は最悪だ。感情に飲まれて後輩の前で泣いた挙句、暴言を吐いて逃げ帰ってきた。どんな顔をして会えばいいのか分からない。
更に覚悟を決めて部屋を出ようとした由利の耳に、東雲とモニカの話し声が聞こえてきた。途端に決心が潰えて、取手に手をかけた姿勢で固まってしまう。
話の切れ目を狙って出て行こうとしていた由利だったが、扉を挟んで聞こえてくる内容で再び出られなくなった。
――東雲のやつ、わざと聞かせてるだろ。
あの索敵レーダー完備の後輩が、由利の位置を感知していないはずがない。毒気がないモニカに絆されて白状したこともあるだろうが、謝罪の必要はないと遠回しに言っている。
気を遣われて助かる反面、由利自身がどうしたいのか分からなくなってゆく。
話し声が聞こえなくなってから十秒ほど数えて心を落ち着け、ようやく客間から出た。顔を合わせずに済んだ安堵感と、問題が先延ばしにされた焦燥感が混ざる。
「大丈夫ですか?」
表情が沈んでいる由利を心配して、家に残っていたモニカが優しく尋ねた。差し出された薬草茶を一口飲むと、ほんの少し気持ちが和らいだ。
「……大人気なく八つ当たりした相手に、どうやって謝ろうか考えてたんだ」
「ユーグさんのことですよね? きっと大丈夫ですよ」
由利が茶の器から顔を上げると、モニカは穏やかな笑みを浮かべていた。洗いざらい告白して、懺悔したくなるような慈悲深さに満ちている。
――盗み聞きしてごめんなさい、とは言いにくいな。
「うん。折を見て謝っとく」
期限は日没までにしようと決めて、由利は薬草茶に口を付けた。
昨日と同じくモニカは子供達に連れ去られ、家の住人もそれぞれの仕事に出かけた。家に引きこもってもやることがない由利は、朝の散歩に出ることにした。
家を出ていくらもしないうちに、下の階から陽気な音楽が流れてくる。里の広場に集まったエルフ達が、シラリースを中心に曲に合わせて体を動かしている。
「さあ次は両手を広げて! テナガザルの威嚇を真似して!」
「おおっ!」
「私がいない間に弱くなったわね! 動きが鈍いわよ! もっと思い切り腕を回しなさい!」
「回せ! 回せ!」
「最初からやり直し! そんなことで合格が貰えると思ってるの!?」
「うおおおお!」
「ブートキャンプかよ」
樹海の筋肉集団はこうして作られていったのかと由利は脱力した。過酷なトレーニングにも関わらず、彼らは喜色すら浮かべて取り組んでいる。あの洗脳はもう解けないだろう。やはり楽園は死んだのだ。
よく目を凝らせば、曲を奏でているエルフ達は全員が中腰だ。空気椅子で交響楽団並の音色を出せるのだから、まともに演奏すれば天上の音楽が聞こえてくるに違いない。
エルフ語でシメの奇声を発した集団は、笑顔で健闘を称え合って解散してゆく。朝から非常に濃い光景だ。この里はどこへ向かっているのか。
「ユリ、貴女も鍛えていく?」
「ハハッ。結構です」
階段を降りて行く由利を見つけたシラリースが、飲みにでも誘うような気軽さで声をかけてくる。笑顔で拒否した由利は、弓の練習場へと逃げた。これ以上、精神を追い詰めないでほしい。
練習場にはエルフ式ブートキャンプに参加しなかった者がいた。森で助けてくれたフィーキュリアもその一人だ。由利へ手を振っている。
「さっきのアレには参加しなかったんですか?」
「あそこまでやるのは、ちょっとね……私は見せる筋肉に興味は無いのよ」
筋肉集団にも観賞用と実用の二大勢力に分かれているらしい。互いにいがみ合っているわけではなく、自然と別れて共存している状態だという。また無駄な知識が増えてしまった。そろそろ東雲に忘却の魔法でもかけてもらおうか。
「今日も練習していく?」
「ああ。的の端でもいいから当てたいな」
「控えめなやる気ね。そのうち端だけじゃ満足できなくなるわよ。ほら、好きなだけ練習しなよ」
子供用の弓と矢を渡された由利は、修練場の端にある的の前に立った。他の的よりも距離が短い、初心者用の的だ。
顔馴染みになったエルフ達が、弓を構えた姿勢を点検してくれる。基本の姿勢が出来ていれば、彼らのように湾曲した軌道で矢を放つことも可能だそうだ。そうなるまでに由利の寿命が保つだろうか。エルフは人間よりも遥かに長いスパンで物事を考えるから、言葉通りに受け取ると失敗する。
教えられたことだけを考えて矢を消費していると、あっという間に時間が過ぎてゆく。他のエルフが休憩に入り始めた頃、疲れていた由利の手を離れた矢が、的の左端に突き刺さった。
「当たった!?」
「やるじゃない! ちゃんと当たったわよ」
「よく頑張ったなぁ」
「いい教師に教えてもらったお陰かな」
端を削ったような当たり方だったが、目標は達成できた。エルフ達が自分のことのように喜んでくれたのも嬉しい。褒めて育てる教育のお陰で、疲れていても続けたくなってくる。
腕を休めるために弓を片付けてから休憩していると、里の高い位置にある鐘が続けて鳴った。音を聞いたエルフ達の表情が変わり、すぐに里の入り口へと駆け出してゆく。
「ユリ! 嵐が来るわ!」
「どこでもいいから家の中へ避難して!」
「わ、分かった!」
彼らの剣幕から、ただ事ではないと伝わってくる。
練習場がある地上には建物が無い。由利は階段を目指して走った。階段は子供や職人などの非戦闘員が駆け上がって行き、武器を手にした戦闘員は上の階から蔓を使って降りてくる。
「お嬢さん達は向こうへ避難しなさい!」
中年のエルフに近くの家を示され、子供と共に走ってゆく。遅れそうになる子供の手を引いて向かっていると、頭上に影が差した。
咄嗟に子供を抱き寄せて結界を張ると、落ちてきたものとぶつかってヒビが入る。
腕の中にいる子供と同じ大きさの猿だった。森に同化するためか緑色の体毛をしている。鋭い犬歯を剥き出しにして由利達を威嚇し、手にした枝を振り上げた。
急いで補強した結界を枝で叩かれ、動けずに止まっていると猿の数が増えた。上空に陽炎のような揺らぎが現れ、そこから猿が落ちてくるらしい。
子供は大きな目に涙を浮かべ、ぎゅっと由利に掴まっている。震えている体をしっかり抱きしめ、由利は大丈夫と声をかけた。
「結界の中にいれば安全だから」
――どうすんだよコレ。動けねえぞ。
猿は狂ったように結界に牙を突き立ててくる。中にいるのは弱い獲物だと知っているようだ。
精霊嵐とは、開いた道から魔獣が出てくる現象でもあるようだ。エルフ達は慌てた様子もなく、着実に魔獣を狩りとってゆく。結界に閉じこもった由利達に気付き、数人が駆け寄ってくる様子が見える。
「由利さん! 無事ですか!?」
枝を持っていた猿が吹き飛んだ。放物線を描いて床に落ち、胸から血を流して動かなくなる。ギャアギャアと耳障りな声で他の猿が騒ぎ、現れた東雲を取り囲んで威嚇した。
東雲が猿へ向かって魔石の欠片を投げると、生きているかのように低空を飛んで破裂した。倒れた猿には目もくれず、両刃の剣で近くの個体を斬り裂く。
「疾風」
低く一言だけ紡がれた呪文の後に、東雲の姿がかき消えた。猿が次々に斬り捨てられ、再び現れる頃には無傷の敵はいなかった。高速移動の影響か、東雲は足をふらつかせる。
「しの――」
「由利さん、今のうちに!」
由利は子供を抱き上げ、家へ走った。中にいるエルフが扉を開けて手招きしている。家には結界があるのか、魔獣が近づく度に火花が散っている。
残りの猿を始末した東雲が合流し、後ろに続く。
飛びかかってきた虫型の魔獣が、上から放たれた矢に貫かれて落ちた。エルフの援護だ。
「由利さん!」
家まで十メートルまでの距離で東雲が叫ぶ。
反射的に展開した結界が音を立てて壊された。
東雲が由利と魔獣の間に立ち、剣で獣の牙を受け止めている。牛よりも大きな獣は剣を咥えて離さず、首を横に振る。
「下がって」
力で抑え付けている東雲は苦しそうだった。由利が離れると、体を捻って獣の目を蹴り上げ、剣を解放する。煌びやかな細工が施された剣は歪んでいた。
逃げ込もうとしていた家の近くには、別の魔獣がうろついている。数が多く、エルフの弓矢だけでは捌ききれないようだ。
別の家を目指して走ろうとした由利は、魔獣から逃げるうちに転落防止の柵の近くへ追い詰められた。
里の鐘が再び鳴る。
近くで景色が歪み、体がわずかに引き寄せられた。
「逃げて! 道に巻き込まれます!」
獣を斬り伏せた東雲が叫ぶ。
逃げろと言われるが、既に魔獣で道は塞がれている。下を見下ろせば顔見知りのエルフが魔獣と戦っていた。
「ごめん。ちょっとだけ我慢して」
由利は子供の顔にそっと触れてから、下へ叫ぶ。
「トーシャリール、受け取って!」
森で助けてくれたもう一人のエルフは、由利の声に反応してこちらを向く。子供へ心の中でもう一度謝り、下のエルフへ向かって投げ落とす。トーシャリールは精霊魔法で風を起こし、子供を優しく受け止めた。
「あんたも降りてきな!」
逃げ道が確保できたのはありがたいが、襲いかかってきた魔獣のせいで由利はまた結界で身を守る。柵を越えることが出来ればすぐ逃げられるのに。
小さな魔獣が何かに引っ張られ、視界から消える。
すぐそばの空間に発生した揺らぎに吸い込まれたようだ。
「由利さん! くそっ邪魔なんだよ!」
珍しく声を荒げた東雲が魔獣を蹴り飛ばした。
引き寄せられる力が強くなり、結界ごと体が動いた。柵を掴んで耐える由利の側を魔獣がもがきながら飲み込まれてゆく。暗く開いた空間は次第に大きくなり、次々と獲物を捕らえる。
東雲は剣を魔獣に投げつけて道を強引に開けさせると、走り寄って由利へと手を伸ばす。
「由利さん!」
お互いに伸ばした手が近付き、触れることなく離れてゆく。
真っ暗な中に落ちた由利が気を失うまで、そう時間は掛からなかった。




