003 不倫街道の宿
シャキシャキとハサミが布を断つ音がする。それに合わせて能天気そうな歌声が部屋に響く。宗教音楽のような大人しい旋律とは対照的で、歌っている本人は心から楽しそうだ。
「何の歌?」
円卓に向かい合わせて座っていた由利が、ちょうど歌い終わった頃に聞いてみると、東雲は手を止めずにカルミナ・ブラーナですよと答えた。
「世俗的な歌詞の歌です。タイトルは忘れました」
「名前は聞いたことあるな。卑猥な歌詞のヤツだろ」
「何でそこだけ知ってるんですか。他にも沢山あるんですけど……まあいいや」
東雲は裁断した布を数枚重ねて、まち針でとめてゆく。掌より少し大きな三角形だ。布は先程購入した服の一部だった。丈夫な生地と柔らかい生地の両方あり、後者の方が枚数は多いようだ。
「何作ってんの?」
「由利さんの下着です」
「さっきの店でまとめて買わなかったっけ?」
確か店主がお勧めよとか言っていたような気がする。旅に必要だからと由利も合意したのだが、いつの間に購入リストから外されたのだろうか。
「由利さん、ここはロルカとは違うんですよ」
器用に針を進めながら東雲は言う。
ロルカは転移して最初に訪れた町の名前だ。
「前回は朝市で『女性用お得な旅立ちセット』なんてものが売ってましたけどね。ここは不倫街道ですよ? 売っている下着が普通なんてあり得ません。実際、際どいものばかりでした。着たかったんですか?」
「見るのはともかく、着るのはちょっとな」
「さらっと欲望がのぞいてますよー」
話している間にも作業は続く。今度は縫い合わせたものを袋のように裏返し、布端を内側に隠す。更に布と同じ色のリボンを切って縫い付け始めた。料理は致命的な東雲だったが、裁縫は得意らしい。
「下着って自作できるのか」
「さすがに立体的なものは作れませんけどね。サイズも測ってませんし。作っているのはビキニタイプです。紐は前で結べるようにしておきますから、一人でも着替えられますよ」
出来上がったものを使って服の上から付け方を教わった由利は、また異世界でしか使えない知識が増えた。更に胸をちゃんとカップに入れないと崩れますよと言われて、初めて体型維持のために着けているのかと気付く。
「服で擦れるから使ってるんだと思ってた……体型維持ってコルセットとかじゃないのか……」
「ええ……今更気付いたんですか? 女の子になるのは、これが初めてじゃないでしょう?」
「だって薄いシャツの上からコルセットだったし」
「お互い下着のことには触れませんでしたからねぇ。よく一人で脱着できましたね?」
「フックをかけて紐で調節する構造だったからな。紐だけだったら、東雲呼んでたと思う」
大変でしたねと労われたが、当時は苦労した覚えがない。それに女性の体を見ても何の感情も湧かず、自分の体のようにしか思えなかった。今も違和感なく体の中に収まっているが、この自分の変化は何だろうと少し怖くなる。
由利は机の上に置かれているハサミを見て、ふと東雲に手頃なナイフを借りていいか聞いてみた。
「何に使うんですか?」
「髪が長すぎて邪魔だから切りたい。せめて腰までなら変じゃないだろ?」
東雲は手を止めて由利の髪をじっと見た。
伸ばし放題の髪は由利の膝裏に達しようとしている。これを手入れするのは大変そうだ。現にローブで隠していたせいで絡まっている箇所がある。
「いや、髪はモニカに会うまで止めておきませんか? 下手にいじって由利さんが帰れなくなっても困るでしょ?」
「それなら仕方ないか……」
由利は諦めて櫛で髪を梳かしてゆく。墨で染めたような黒髪は艶がなく、傷んでいるようだ。
いつの間にか裁縫を終えた東雲が後ろに立ち、髪に何かをつけた。柑橘系の匂いがする。
「そんな風に荒くしたら、髪が切れますよ」
そう言って櫛を取られ、丁寧に解されてゆく。再び古い歌を口ずさむ声にふざけた様子はなく、同じ曲なのにまるで聖歌──祈りのように聞こえた。
歌が終わると互いに何も喋らなくなったが、この沈黙は嫌いではなかった。
*
うるさい鈴の音で我に返った。音は扉の外から聞こえてくる。
「届いたみたいですね」
東雲が櫛を机に置いて離れた。髪は首の後ろで一つにまとめられ、白いリボンが結んである。
扉を開けるとワゴンが一つ置かれているだけだった。上には食器が乗っているのが見えた。
「……ルームサービス?」
「ええ。カウンターに料金表があったでしょって、字は読めないんでしたっけ」
「以前に教えてもらった文字とは違うってことは判別できたぞ」
「いえ、文字は同じなんですよ。筆記体で書いたかブロック体で書いたかの違いだけで」
「別言語並に形が違うだろ!?」
手書きとパソコンで形が違うのは英語も一緒でしょと、もっともらしい追い討ちをかけられた。
返す言葉もなく、由利は円卓に食器を並べる。メニューはポトフのような煮込みと丸くて薄いパンだった。
「久しぶりの異世界だから身構えてたけど、美味しそうだな」
「こういう宿は近くの居酒屋から取り寄せますからね。ハズレは少ないはずですよ。いつ来るか分からない注文のために、わざわざ厨房を作るなんてことはしません」
「こういう宿?」
不穏な言葉が聞こえたのは気のせいだろうか。
「由利さん、ここがどういう宿か知ってて選んだんじゃないんですか?」
知るわけがない。外観で普通の宿だと思ったからこそ選んだのだ。
由利は食事が部屋の外に置かれていたことを思い出し、恐る恐る東雲に尋ねた。客と従業員が接触を避ける理由で思いつくのは一つしかない。
「……ラブホ?」
「はい」
「まさかと思うが、お前が入ろうとしていたピンク色の宿は」
まともな宿へ案内しようとしてくれていたのだろうか。窓の外に見える宿を指差すと、後輩は神妙な顔でうなずく。
「あれもラブホテルです」
「一緒なのかよ!」
「仕方ないじゃないですか。多分、普通の宿に入ろうとしたら、独身の男達から叩き出されますよ」
「面倒臭い街道だな、ここは。誰だよ逢引御用達の宿場町にした奴は」
「というか、部屋に鎮座するダブルベッドを見て何も思わなかったんですか?」
保温用のポットから深皿にポトフを入れて東雲に渡すと、呆れた顔で受け取って席につく。その背後には広いベッドが一つだけ鎮座している。枕の上に小さな花束が置かれ、甘い芳香を放っていた。シーツの白に赤い花びらがよく映えている。
「いや、単にお前が間違えたのかと思って。支払いとか交渉は全部やってもらってるから、文句なんて言うわけないだろ?」
「優しい先輩を持って幸せですねぇ……」
遠い目で皮肉めいたことを呟き、東雲はパンをちぎってスープに浸した。




