002 家族
破損した部分を可視化して修復していると、現実だということを忘れてしまいそうだ。東雲美月はこれはリアルと強く念じてから、習慣になっていた作業を続けた。
魔王と呼ぶ力と分離されたとき、衝撃で壊れてしまったものがある。勝手に動き出さないよう凍結させて封じ、わざわざ専用の区画を作って保存してあった。外側からはいくつもの壊れた魔法陣が見える。
今はそれらを元通りにするために、自動修復プログラムの最終調整をしている最中だ。東雲は不完全な魔法陣を次々に放り込み、その全てが正確に直されているのを見て一息ついた。
「……やっと出来た」
由利を日本へ送り返してから、時間があれば構築と実験を繰り返していた。既存の魔法を基にしているとはいえ、これから治すものは失敗できないために、念入りに作る必要があった。
東雲はまず己に自己診断プログラムを走らせ、続いて完成したばかりのものを実行させた。無理矢理、勇者の体に居座っているせいで、僅かながら魂に損傷が見られる。二つのプログラムは見つけた端から修復してゆき、同時に東雲が感じていた倦怠感が薄れてくる。
――やっぱり、この世界に持ち込んだのは、コーヒーだけじゃない気がする。
もしかしたらタブレット端末も一緒に来たのかもしれないと、東雲は感じていた。異世界へ転移する直前に、見たことがないアプリを触っている。あのアプリのアイコンは魔法陣だったはず。今にして思えば、あれが異世界と繋がっている扉の役割を果たしていたのではないだろうか。
東雲に統合されたのは、手に持っていたからか。本体を持ち込めなかったのは、こちらの世界に存在できない理由があるのだろう。
――役に立ってるから、いいか。
タブレットの演算能力のお陰で、入ってくる情報が整理しやすい利点もある。由利に東雲ウィキと呼ばれた異世界の情報も、渦に取り込まれた勇者達の知識を統合したものだった。情報に偏りがあったのも納得できる。魔王の城で再び渦に触れたことで知識は強化されたが、そちらはまだ確認していない。
とりとめのないことを考えながら、しばらく己の様子を観察していた。プログラムによる副作用はなさそうだ。
東雲は安心して、隔離している区画へとプログラムを投げ入れた。健気な作品は問題箇所を次々に見つけて癒してゆく。時間はかかりそうだが、放置しても問題ないだろう。
東雲はベッドの上で寝返りをうった。外はまだ薄暗い。
聖女をザイン神聖法国まで送り届けたあと、勇者の出身国であるタルブ帝国を密かに訪れていた。
魔王システムを完全に破壊するためには、渦の発生源の一つである免罪符を止めさせる必要があった。城の上空に集まる魔力が、システムの破壊でどのように変化するのか予測できない。収集される力はなるべく少なくしておきたかった。
主体となって免罪符を売っているのは聖典派だ。ザイン教の一大勢力に、個人で対抗するのは分が悪い。権力側からも教会へ圧力をかけられないだろうかと考え、真っ先に出てきたのがこの帝国だった。
ザイン教は中立的な立場として、戦争の仲裁をすることがある。そのため領土の拡大を繰り返してきた帝国とは衝突することも多く、貴族社会にはザイン教に対して否定的な感情が蔓延していた。特に今代の魔王討伐で失敗が続いたことから、政治と宗教を完全に引き離し、内政に口出しできないよう法改正が進みつつある。
フェリクスとしてデュラン侯爵家に帰ってきた東雲は、親衛隊長を任されているという父親の立場を利用して、皇帝陛下との面会を取り付けた。早かれ遅かれ魔王を討伐した勇者として招かれていただろうが、行動を起こすなら早いほうがいい。
包み隠さず魔王の正体を話したところ、皇帝の反応は驚きよりも納得の色が強かった。皇室では魔王の被害を減らすために、魔王についての調査を長年の課題として扱っており、東雲ほどではないが正体に迫りつつあったのだ。
政治に介入するつもりはない。帝国がザイン教に対しどのような政策をとろうと、東雲の行動が阻害されなければいい。
帝国側も勇者の功績を盾にしないことを条件に、皇室がかき集めた資料を東雲に開示してくれた。後で閲覧できるようコピーを取ったが、量が多く誤った情報も含まれているため、まだ全てを把握できていない。
――でも、帝国での仕込みは終わったね。
勇者が生き残ったと知れ渡るのは時間の問題だ。権力者に利用される前に、強力な後ろ盾は得ておきたかった。特に帝国打倒を目指す外国勢力や、国内の不穏分子には関わりたくない。
東雲はフェリクスの人生を乗っ取るつもりなどなく、下準備が終われば出ていく予定だった。彼の家族は知らないままでいた方が良いだろう。
体を起こしてベッドから出ると、東雲は着替えを手に取った。魔法の調節に一晩かかったせいで全く寝ていないが、のんびり休んでいる時間が惜しい。家出する理由を追及される前に、置き手紙を残して出て行こう――そう決めていた。
既に使用人は起きているようだが、彼らは東雲を止めることはしないだろう。発見されたとしても、主人であるデュラン侯に伝わる頃には屋敷を抜け出せる。
最後に室内を整頓し、机の上にフェリクスの筆跡で書いた手紙を置いた。音を立てないよう部屋を抜け出し、一階のサロンから庭へと降りる。家族に見つからないためには、ここから塀を越えることが望ましい。
丹念に手入れをされた庭園は既に水が撒かれ、夏の花々が朝日を浴びて輝いていた。花壇にはいくつもの異なる種類の植物が植えられているが、全てが調和して落ち着いた色合いになっている。赤やオレンジといった自己主張が強い色を使っているはずなのに、植え方でここまで印象が変わるのかと驚かされる。
「あら、朝が早いのね」
モネの絵画の中にいる心地で歩いていると、妙齢の女性に呼び止められた。誰もいないと油断していた東雲は、動揺を悟られないように、ゆっくりと振り向く。
「……おはようございます。目が覚めてしまったので、散歩をしておりました」
そこにいたのは、フェリクスの母親クロティルドだった。
フェリクスとよく似た顔立ちは、とても成人した息子がいるとは思えないほど若々しい。綺麗に結い上げたプラチナブロンドの髪とは対照的に、質素なドレスと革の手袋をつけていた。趣味である花の手入れをしていたのだろう。
朝が早いのはお互い様だろう。東雲がデュラン家に来てから、この時間に活動していたことはなかったのに。
クロティルドは東雲に歩み寄ると、手袋を外して白い手を差し出した。
「そう、ちょうど良かったわ。朝食にしましょう。部屋まで送って下さる?」
「はい。喜んで」
脱出は早々に失敗してしまった。断る理由を思い付けず、請われるままに手をとって屋敷へ戻った。
*
クロティルドとの朝食は和やかに進んだ。使用人を除けば二人しかいない食卓だったが、それを不自然とは思わなかった。父親であるデュラン侯は仕事で家を空けており、兄や姉はそれぞれ結婚して家を出て、帝国内で暮らしている。
フェリクスの記憶から言動を真似するのは、なかなか疲れる作業だった。言葉遣いや振る舞いを間違えれば、家族はすぐに気付くだろう。
「貴方が勇者に選ばれた時は、運命の残酷さを呪ったものだけれど、こうして帰ってきてくれて良かったわ」
優しく語りかけるクロティルドは、子供を心配する母親そのものだった。後妻という立場だったが、穏やかな性格で前妻の子達とも仲が良い。フェリクスが腹違いの兄達から疎まれていないのは、きっと彼女のお陰だろう。
デュラン侯爵家は東雲には眩しすぎた。
皇帝の信頼が厚い家長は、愛情と厳しさを併せ持った人格者だ。
聡明な長男は騎士団に所属し、家督を継ぐ重責に潰されることなく貴族社会を巧みに生き抜いていた。
皮肉屋の次男は外側から家を支えるために、帝都で行政に携わる文官になった。次男という代替品の意味合いが強い立場に腐ることもなく、嫉妬で兄を追い落とすような俗物とは無縁だった。
他家に嫁いだ姉はよく夫を支える良妻と評判だ。
そんな彼らは、家の中でも態度が豹変することはなかった。良い意味で表裏がない性格なのだろう。そのくせ足の引っ張り合いが常の貴族社会を渡り歩く強さも持っている。愛されて育ってきた者が持っているものだとすぐに分かった。
末子であるフェリクスは特に大切にされていた。
こんなにも愛してくれる家族がいるのに、何が不満だったのか。記憶が流れ込んできた時から、フェリクスが嫌いだった。
――私が死んだ時、一人くらいは泣いてくれた人がいただろうか。
欲しいなら奪い取れと教えられた己には、この家は眩しすぎる。ただ家族であるというだけで愛されることが、どんなに幸せなことか。
心に湧き上がった不満が言葉になる前に、東雲は殻に閉じこもって聞こえないふりをした。
「少し、雰囲気が変わったかしら?」
意識を戻すと、クロティルドが首を傾げて東雲を見上げていた。
「色々、ありましたので」
「そう……そうよね」
本当の事など言えるわけがなかった。一つの結末に辿り着くまでは、絶対に言えない。目の前に座っている人を悲しませたくない。だから東雲は嘘を重ねることしか出来なかった。
「それで、今度はどこへ行ってしまうのかしら?」
「……え?」
クロティルドは上品に笑っていた。
「いつも上の空だったでしょう? きっと心残りがあると思っていたのよ。夫は何も話してくれなかったけれど、寂しそうにしていたわ」
護衛として控えていたデュラン侯も魔王について知っている。あれから数時間しか家に帰ってきていないはずだが、妻であるクロティルドにはフェリクス絡みのことだと見抜かれていたようだ。
「フェリクス、ここなの!?」
返答に困っていると、食堂の扉が開いて金髪の淑女が入ってきた。
勝気そうな緑色の瞳が東雲を睨んでいる。姉のアンリエットだ。女性らしい曲線を描く肢体を乗馬服に包み、纏め上げた髪を帽子の中に押し込んでいる。興奮して赤くなった頬が母親譲りの美貌に色気を添えていたが、浮かんでいる表情は怒りのみだ。
アンリエットは腰のベルトに乗馬鞭を挟みながら、真っ直ぐ東雲に詰め寄った。
「ちょっと、帰ってきたなら連絡ぐらいしなさい!」
「ふふっ。貴方が帰ってきた時に、手紙を出しておいたのよ」
「それにしては到着が早すぎませんか?」
姉が嫁いだのは、帝都から遠く離れた僻地。迷いの森と称されるオーブリー辺境伯領だ。母親が手紙を出してから姉が帝都に到着するまで、馬車で移動をしたなら半月以上はかかるはずだった。
「貴方は知らないだろうけど、辺境には帝都との新しい通信網が出来たのよ」
アンリエットが言うには、魔石を消費して文字情報を即座に届ける装置を設置しているらしい。外国と国境を接する辺境との連絡を密にして、侵略に備えよという皇帝陛下の命によって、急速に整えられているそうだ。一文字につき小型の魔石一つという、恐ろしく効率が悪い道具だが、今まで早馬で届けていたことを考えると格段に時間が短縮されている。
――つまり、私が家に来た日のうちに、電報で知らせたと?
国が秘匿する設備を使って、家族宛の手紙を送っても良いのだろうか。
「よく許可が降りましたね。情報網の管理は陛下直属の機関が担当なのに」
「魔石を負担するなら、オーブリー領への通信を許すと仰って下さったのよ。貴方の功績のお陰ね」
息子の無事を知らせるために、いくつ魔石を消費したのだろうか。小型とはいえ、道具用に加工されたものは、決して安くないのに。
「去年の狩で入手したものを使っただけよ。うちはあまり魔石を使わないから、いつまでも余ってるのよね」
東雲の表情が曇ったのを見て、クロティルドが心配しないでと付け足した。
世間の親とはこういうものなのだろうと東雲は結論付けた。自分の親とは何もかも違って戸惑うことしかないが、今はフェリクスとして演技しなければならない。
「手紙は分かりましたが、姉上はいつ到着したんですか?」
「ついさっきよ」
使用人が用意した席に座り、出されたお茶に口を付けてからアンリエットが答えた。
「届いてすぐに支度をして出てきたの。途中で何度か馬を替えて、ついてこられない使用人は置いてきたわ」
「何で貴族の淑女が、伝令のような乗り方をしているんですかね」
「仕方ないじゃない。弟が生きて帰ってきたのよ? 急いで顔を見に来るのは、姉として当然の務めじゃない」
「寡聞にして存じ上げませんが」
どんな務めだよと言いたいのを我慢して、東雲は冷静に返した。
フェリクスの記憶を漁れば、色々とおかしなエピソードばかりが浮かび上がってくる。弓の修行のためにエルフの里へ家出したり、自分より弱い男には嫁ぎたくないと宣言し、挑戦してきた貴族の子弟を一騎打ちで叩きのめしたり。そんな淑女の皮をかぶった猪が、どのような経緯で辺境伯のもとへ嫁いだのだろうか。オーブリー辺境伯は熊のような猛者か、仏のような心をした聖人なのかもしれない。
母親と姉が東雲を放置して話に花を咲かせている間に、玄関ホールから賑やかな声が聞こえてきた。
「あら。到着したのかしら? 行きましょう、フェリクス」
「意外と早かったわね」
隙を見て逃げ出そうとしていた東雲は、二人に腕を掴まれて席を立った。今の東雲には簡単に振り解ける拘束だったが、そうする気にはなれなかった。
「行くって、どこへ」
「もちろんお父様がいるところよ」
何を当たり前なことを言っているのと言わんばかりに、アンリエットは東雲の腕を優しく叩いた。




