002 世界の理
むかしむかし、世界は平和でした。
世界には様々な生き物がいました。
清らかな森と水を愛する種族。
地中の鉱物と酒を愛し、道具を作り出す種族。
強靭な体と空を舞う翼を持ち、自由を愛する種族。
闘争を愛し、強い者に統治された種族。
他にも様々な種族が大地に、海に、空に住んでいました。
人間は爪も牙も持っていませんでしたが、生き残るための知恵を豊富に持っていました。魔法もその一つでした。
人間は魔法の力で生活を豊かにしてゆきました。そして世代を越えた研究と貪欲な探究心の結果、正しく理解をすれば奴隷でも扱えることが分かりました。これまで魔法はごく一部の選ばれた人間のみ使えると信じられてきたのです。
喜んだのは主に虐げられていた階級の人々でした。
ある者は生きるために。
ある者は復讐のために。
ある者は己の研鑽のために。
魔法を習得する理由は様々でしたが、この大発見は世界に混乱を巻き起こしました。
戦争に持ち込まれた魔法は敵を容易く蹂躙し、栄華を誇った王侯貴族は恨みを持った民衆に倒されました。勢力図が次々と塗り替えられ、魔法を使えない者は惨めに地を這うことになりました。
より強力な魔法を使える者が他者を統治する。そんな時代が長く続きました。
とある小国に一人の魔法使いがおりました。その魔法使い、イドは大変聡明で強い力を持っていましたが、実験を繰り返してはより強力な魔法を作り出すことにしか興味がありませんでした。依頼をされて生み出した魔法が誰かを傷つけることになっても、イドは何も感じませんでした。
イドはいつも一人でした。
イドは孤独の中で研究を続け、そして一つの命を創り出しました。
それはとても強い命でした。相手の力を奪い、心を蝕み、体を病に冒す。あらゆる輝きを覆い尽くし、生けとし生けるものの全てを破壊してゆく力そのものでした。
それは魔王と呼ばれました。
人々は恐怖しました。争っていた者達は手を取り合い、魔王に立ち向かいましたが、全く歯が立ちませんでした。
全ての命が刈り取られるのも時間の問題かと思われたとき、消えゆく命を憐れまれた神は、二人の若者に祝福を与えられました。
若者の一人は聖なる祈りで魔王の動きを封じました。
もう一人の若者は聖剣を手に魔王を倒しました。
魔王の命が尽きたとき、世界を覆っていた黒い雲は消え去り、再び光が戻ってきました。喜んだ人々は彼らの名前を歴史に残すべく、それぞれ称号を与えて語り継ぎました。
祈りの力を持つ若者は聖女。
聖剣を持つ若者は勇者。
彼らは人々に警告します。魔王は完全に死んでいない。この世が乱世となるとき、魔王は人々の荒れた心を糧に、再びこの世に甦るだろう。
もし魔王が現れることがあれば、同時に人々の求めに応じて勇者と聖女も現れるだろう。しかし失われた命は戻ってこない。願わくばこの平和が長く続きますよう。
彼らの言葉を忘れた人々は、幾度となく魔王の復活を許し、その度に勇者と聖女に助けられました。
魔王は人の営みがある限り、深い大地の奥底で平和を憎み、呪いの言葉を紡いでいます。
*
「――この世界の神話は要約すると、こんな感じですね。世界を脅かす魔王がいて、それを倒す勇者達がいる。他にいるという種族もゲームと大して変わりませんよ。由利さんが好きなエルフとか」
勝手に決めつけるなよ。好きだけどさ――由利は心の中で反論した。的確にこちらの嗜好を見抜く後輩は、心眼でも搭載されているのか。
計画通りに宿をとった二人は、さっそく世界を知ることから始めた。現代日本であれば歴史を紐解くところだが、残念ながら二人が望む歴史書に該当するものはなかった。東雲に検索してもらったところ、一部の国に偏っていたり、断片的にしか出てこなかったそうだ。そこでこの世界の人間なら誰でも知っていそうなこと――神話や宗教、生活レベルについて調べてもらった。
東雲がゲームのようと評価していた通り、全体的な雰囲気は似ている。文化レベルは近代ヨーロッパあたりに近いだろうか。ただこちらは科学の代わりに魔法が生活を支えており、全く同じ水準とは言えない。その証拠に二人が取った部屋には、スイッチ一つで灯りがつく照明が天井に設置されている。ただ使用するには動力となるよう加工した魔石をはめ込まなければ使えない。その石は自分で調達するか、宿の主人から購入する必要がある。
魔石は文字通り魔力がこもった特殊な結晶のことで、主に魔獣の体内や鉱脈から発見される。長年、魔法の触媒として使われてきたが、三十年ほど前に新たな動力としての使い方が発見された。魔法の嗜みがない者にも扱えることから、魔石を使った道具が日々開発されている。
動力として使うときは魔石職人が魔力を引き出しやすいように加工し、人々はそれを使い捨てにしている。東雲に乾電池のようなものかと聞くと、おおむねそれで合ってますと返された。電池と違うのは動力用の魔石は力を失うとドライアイスのように蒸発してしまうという点と、全体的に価値が高いので一般家庭にはなかなか浸透していないことだ。
二人が取った部屋に照明がついているのは、ここが宿場町だからだ。大都市を結ぶ街道上にあるこの街は、当然ながら物流の要でもある。己の宿に優良な客を呼び込むべく、店主達はあの手この手で他店との差別化を図っている。その一つが魔石を使う設備だ。魔石は当然ながら、設備を整えるにもお金がかかる。宿にあえて高額なものを置き、それらが盗まれたり壊されていないと示すことで、防犯面でも信用できると宣伝しているのだ。その分宿代はかかってしまうが、やんごとなき身分の方々や高額商品を運ぶ商人には好評だ。
ソロキャンプが趣味の由利には屋根と壁があれば十分だったが、秘密の話をする必要から盗み聞きされにくそうな宿を選ばなければいけない。それに東雲が、タコ部屋に美少女を押し込むわけにはいかないと強く主張したためだ。美少女とは由利のことらしい。一体どんな外見をしているのか、由利は鏡を見るのが恐ろしくなった。
「現在の魔王は二十年前に出現して、徐々に力をつけていってるみたいです。これまで何度か人間側が討伐に行ったみたいですが、いずれも失敗しているみたいですね」
「やっぱり勇者と聖女じゃないと駄目ってことか?」
「その勇者と聖女が失敗しているんですよ。もちろんそれ以外の勢力も挑んでは散ってるようですけど」
「へー。物語みたいにはいかないってことか」
「創作って成功例しか話になりませんからねぇ。それで世の中には全体的に諦めムードが漂っていて、治安が悪化しているみたいです。今の勇者と聖女も失敗したら、本格的に世紀末化するんじゃないかと」
「その二人はどうやって選ばれるんだろうな」
「聖女はザイン教の神殿にいる巫女の中から、神託によって選ばれるみたいです。ザイン教は世界中に広まっていて、光の唯一神を崇める宗教のようです。勇者は……ちょっと分かりませんね。聖女が神様から教えてもらうとか?」
「聖剣を抜いた奴が勇者とか、ベタな方法だったりしてな」
「あり得ますね。神話の中にも、聖剣に選ばれたとか記述しているものがありますから」
世界の成り立ちはこれくらいで十分だろう。あまり深入りしても時間を消費するだけのような気がした。
「これからのことなんだけど、まずは生活費をどう工面するかだな」
今回の宿代は、東雲の異次元ポケットに何故か入っていた、異世界の通貨で支払ってもらった。いくら入っているか知らないが、このまま後輩に集るのも落ち着かない。それに情報を集めるためにも、現地の人々との交流は避けられない。
「あとは俺がこっちの言葉を覚えられるかどうか……さっきは門のところで何を言ってたんだ?」
「あれは……商人の方は同じ商売人かと聞かれたので、トゥーレから来た仕立て屋だと言ったんです。トゥーレは魔王のせいで滅びた町なので、あまり素性を追求されないかと思って。それに仕立て屋と言っておけば、職を求めて大都市へ旅をしているのだと、向こうが勝手に推測してくれますし。旅芸人と名乗って、芸を見せてくれと言われても困りますから」
地球とは違って一般人が旅をするには、相当な理由が必要な世界だ。よく情勢を知らないまま根掘り葉掘り聞かれても答えられない。別の世界から来ましたなんて言えるわけもなく、それらしいことを並べて誤魔化してくれたようだ。
「門の自警団には、由利さんがいい目くらましになってくれましたよ」
東雲は面白いおもちゃを見つけた子供のように、曇りのない笑顔で言い放った。だからイケメンがそんな表情をするのは止めてほしい。
「目くらまし?」
「あまりにも由利さんのことを無遠慮に見てくるから、道中で山賊に追いかけられたトラウマで、大勢の武器を持った男に囲まれると泣くよ、と教えてあげたんです」
「俺が分からないからって、なんてこと言ってんだよ。泣かねぇよ。怖かったけど」
「で、美少女をいじめた奴らはどこだって聞かれたから、近くの山賊の根城を教えておきました」
「もしかして殺気立った奴らが町の中に消えていったのは……」
「今頃は奴らをどう討伐しようか相談してるんじゃないですかね。それとも武器でも研いでるのかな? 彼らが門の前に立っていたのも、山賊の被害が増えてきたのが原因みたいですよ」
嘘を並べたてた東雲は、罪悪感もなく涼しい顔で窓の外を眺めている。
――いいのか? いや、治安が良くなるならいいのか。
由利は無理やり納得しようとした。
「そうそう。言葉といえば、由利さんの言語習得は何とかなるかもしれません」
「マジで?」
「私達と異世界人のステータスを見比べてみると、いくつか違いがあるんです。細かいところは省きますけど、どうやら体と魂は別人みたいなんです」
分かるようで分からない。色々と聞きたいことはあるが、まずは詳しく解説してくれるよう頼んだ。
「ステータスの最初には名前が表示されるんですが、そこが体と魂に分かれて記述されているんです。それで由利さんの名前は魂の方に書かれています。体の方は文字化けしているので読めないんですけど」
「異世界転移したのは魂だけで、体はこっちの人だったってことか」
「恐らくそうでしょうね。体の持ち主がどこに行っちゃったのかは知りませんけど」
何も女の子の体に入らなくてもいいだろうと、由利は己の境遇を嘆いた。
東雲は、そんな遠い目をしないで聞いてくださいと、優しく由利の肩を叩いた。優しくされるほど泣きたくなるのだが、先輩の意地で涙は流さなかった。それに自分のことしか考えていなかったが、突然男の体になった東雲も、多少なりともショックを受けているかもしれない。あまり自分ばかりが不幸だと騒ぐわけにはいかない。
「で、ここからが本題なんですけど。記憶を呼び起こす魔法、というのがあるらしいんです。それを使えば体――というか脳? に記憶されている言語能力が使えないかな、と」
何も持たない由利にとっては朗報だった。異世界生活を困難にしているのはいくつかあるが、その一つである言葉の壁が取り除かれるのは大きい。
「ただ問題が一つあって、この術は相手のことを信用して心を開いてくれないと効果がないんです」
「お前を信じろってことだろ? 任せろ。全力で信じてるから」
「由利さん、目が怖いです」
食い気味に由利が言うと、東雲がドン引きして身を引いた。失礼な奴だ。
期待する由利をベッドに座らせると、東雲は正面に立って落ち着くよう言ってきた。
「まずはリラックスするために、何か適当なことでも考えていて下さい。その……魔法なんて初めて使うんで、失敗するかもしれませんけど」
「大丈夫。俺も初めてかけてもらうから。一緒だな」
「どの辺が大丈夫なんですかね。テンションおかしいですよ?」
緊張していたのは東雲の方だったようだ。吹っ切れたように笑うと、由利の額に手を当てた。
由利は目を閉じて、実家で飼っていた柴犬の小次郎(十歳メス)を思い浮かべた。番犬には向かない人懐っこい子で、いつも間抜けなことを仕出かしては笑わせてくれた。カマキリに鼻を襲われて以来、散歩中に見かけると困ったように見上げてくるのだ。何度かテレビに投稿してやろうかと思っていたが、実行しないまま異世界へ来てしまった。
小次郎の柔らかい腹毛を思い出して癒されていると、ふいに寒気を感じて身震いした。
「そのまま楽にしていて下さい。その……耐えられなくなったら言って下さいね」
「ああ。まだいけそうだから続けてくれ」
「分かりました」
ゆっくりと小太郎の姿が歪んできた。これが術の影響だろうか。由利は形を変えてゆく小太郎を眺めていた。狐色の毛並みが無彩色になり、丸々とした体が細長く引き伸ばされてゆく。頭と尾が繋がって輪になると、淡く光り輝いて大きな魔法陣へと変化した。
自分の思考のはずなのに、思い浮かべる光景は夢の中のように掴み所がない。体の感覚すら曖昧になって、座っていることすら忘れそうだ。
――ごめんなさい。
魔法陣の上に誰かが倒れている。
由利はそれを見ていた。
心が痛む。
――本当に、ごめんなさい。
口が勝手に謝罪の言葉を紡ぐ。
倒れている人物は黒いスーツ姿をしていた。黒く長い髪の間から、白い顔が見える。その顔が東雲に重なって見えた瞬間、由利は意識を失った。