005 堕ちた勇者
泡が弾けるように意識が覚醒した。
混濁して散らばる記憶の断片。
感覚がない四肢。
勝手に移り変わる景色。
広大な海を漂うように、私はただそれを眺めていた。
退屈な人生だった。
爵位を持つ家に生まれ、飢えることも不当に虐げられることもない。誰もが羨む容姿に、何をやらせても平均以上の成果を出せる能力。嫉妬して陥れようとする者もいたが、私は身を守る立ち回りにも恵まれていた。
薄暗い貴族社会に私が求めるものはない。家は兄が継ぐことが決まっている。後妻が生んだ子である自分にも、雀の涙ほどの継承権はあったが、家督争いなど知ったことかと成人すると共に放棄した。
煌びやかな令嬢と恋愛ごっこを楽しむなど吐き気がする。ただ会うだけでも面倒な手続きが必要で、会話は全て他人に聞かれているのだ。何を言っても深読みされ、贈り物に必ず意味を求める。挙句、本人がいない場所で好き勝手に噂されるくらいなら、最初から関わらないほうが楽だった。
国を出るという選択肢は選べなかった。爵位を捨ててどこかの森で狩人になりたかったし、なれるほどの実力もあった。
だが国土を肥大させてきた母国は、諸国と折り合いが悪い。過去に何度も周辺国に攻め入って、国土を広げてきたせいだ。現皇帝は魔王が復活したことと、国内の安定化を理由にして、戦争を仕掛けることはないと宣言している。だが諸国がそれを鵜呑みにして信じるわけがない。奪われた国土を回復せんと、常に隙を伺っている状態だ。爵位の有る無しに関わらず、貴族社会で生きてきた人間は良い道具になる。
国への愛着はかけらもない自分でも、育ててくれた家族への最低限の情ぐらいはある。己の行動が外交に悪影響を及ぼすことは避けたかった。
目標がないまま生きてきたが、その能力の高さが評価されて、文武問わず部下に欲しいと人気だった。いつまでも親の庇護下にいるわけにもいかない。私は悩んだ末に騎士団へ入った。
魔王の影響で国土が荒れ、治安も悪化してきている。心配した母親が反対していたものの、最終的には父親の説得で折れたようだ。彼らの間にどのような会話があったのか知らないが、気が変わって妨害されないうちにと騎士団へ逃げた。
騎士団での生活は楽だった。見習いから始まるとはいえ、ここでは実力が重視されていた。爵位の影響をほとんど受けることなく、持ち前の能力を活かして騎士団での地位を築いていった。
たまに持ち込まれる見合いの話には、仕事の忙しさを理由に断れる。同僚達も腹の探り合いなどしない、気のいい者ばかりだった。血の気が多く酒好きなところが欠点だが、いつまでも根に持つような者がいないことは美点だろう。
副官補佐という出世に大きく響く話が私に回ってきたとき、帝国に聖女が到着したと報じられた。
聖剣を手に現れた彼女は、澄んだ瞳をしていた。真っ直ぐに私に向き合い、剣が選んだと告げる。
淡々と告げられた言葉に、即座に反応できた者はいなかった。一拍おいて、どこからともなく歓声が上がる。勇者の誕生と喜ぶ声に、私はようやく自分が置かれた状況を知った。
隣に立つ彼女は、悲しそうな、申し訳なさそうにその光景を見ていた。
いくつも泡が浮かぶ。
弾けて消える。
彼女は一度も私のことを勇者とは言わなかった。ただ心に決めた何かを、全うしようとしていることは伝わってきた。
羨ましくないといえば嘘になる。
そう、私は初めて羨ましいと思った。
彼女はとても美しいと。
どんなに辛い行程でも、決して疲れたとは言わなかった。
無愛想な私に愛想を尽かした様子もなく。
人として何かが欠落している私ですら、彼女の言葉は心に響いた。
もっと早く彼女に会っていれば、心の在り方も変わっていただろうか。
私には目標などなかった。何でもできたために、夢中になれるものが無かった。出来ないということが理解できなかった。
私には目標などなかった。彼らの期待に応えることが最優先だった。夢中になれそうなものがあっても、切り捨てるしかなかった。
ただ家名に恥じぬ行いをと言われ、出来ることが当たり前だった。
泡が浮かんで、私が沈んでゆく。
親子の間に情はなく、血を分けた兄弟姉妹は敵対相手だった。
己を引き立たせる踏み台。
優秀な彼らに追いつけなくて、私はいつも落ちこぼれだった。どんなに良い成績を修めても、彼らは容易に越えてゆく。
私の中に劣等感だけが育ってゆく。
私という存在が引き伸ばされ、砕かれて、混ざり合う。
ようやく理解した。
増えてゆく数字は、私の意識が沈んだ深さ。
私は。
さようなら私。
おはよう私。
次は私の番。
さようなら。体を返して。
ダメです。
あなたは危険だから。
ずっと隠しておきたかった。
最期まで。
私の意識が消えてゆく。
異界の意識が消えた。
私は笑う。
さあ、私を生んだ世界へ、試練をあげよう。
*
木が爆ぜる音で目が覚めた。
黒髪の女が火の前で座っている。聖女だ。紙を一枚一枚、火の中へ放り込んでいる。
「あれ? 由利さん、それ私が書いた手紙ですよね?」
真似できただろうか。アレは聡いくせに、頭が悪そうに喋る。自分と似ているようで似ていない、面倒な奴だ。
「起きたか。ラブレターと言いつつオデュッセイア書く奴がどこにいるんだよ。むしろよく覚えてたな」
聖女の中に入っている男は、振り返りもせずに手紙を全て燃やした。手紙の文字は絵のように複雑で、見たことがなかった。彼らが異世界で使っていたという文字だろう。
「酷いなぁ。せっかく書いたのに燃やしちゃうんですか?」
「お前が寝てる間の暇つぶしくらいにはなったぞ」
聖女は長い棒で焚き火を崩し、消火作業を始めた。気付いている様子はない。私がやりますよと声をかけて、なるべく手際が悪くなるよう慎重に動いた。
まだ入れ替わったことに気付かれてはいけない。もう少し先へ進んで、魔王のところへ辿り着かなければ。
本物の聖女に出てきてもらっては困る。偽物のままなら、楽に始末できる。
勇者は密かに笑った。
魔王を取り込んで死ぬつもりなどない。平和の礎とやらになるなど馬鹿げている。世界は目を逸らしていたツケを払う時が来たのだ。
異界から来た女は自分の思惑に気付き、あれこれと策を弄していたようだが、時間には勝てなかったようだ。侵食が完了した今、完全に沈黙している。残滓すら残さず消えてしまった。
計画は内側から見ていた。知ってしまえば対策など容易にできる。
退屈な人生だった。
だがそれももう終わろうとしている。




