カメとエルフと温泉郷 前編
硫黄の臭いがする。由利は温泉街の出身ではなかったが、なぜかそれが懐かしいと思った。木造の温泉宿が並んでいることも、そう感じた理由なのかもしれない。
温泉郷キアライドは森を切り開いて作られた保養施設だそうだ。魔王がいる山脈が近いにも関わらず、ここは魔獣の被害が出ていない。温泉に魔獣が嫌う成分が含まれていることを利用して、村を囲む堀に湯を流しているためだ。
魔獣が嫌う成分って何だと東雲に聞くと、魔石内の魔力を分解するのだと分かるような分からないような答が返ってきた。分解されるとどうなるのか更に質問すれば、少量なら弱体化、九割消えれば衰弱して魔力が回復するまで動けなくなるという。だから魔獣のような体内に魔石がある生き物は、本能的にキアライドを避けている。
魔王が倒されるまでの間、ここに避難する金持ちもいるそうだ。ただ今回は数年経っても討伐できなかったため、資金が尽きて離れた者も多い。
源泉に近い宿の一つに到着した由利達は、露天風呂付きの個室をとり、久しぶりにゆっくりとくつろいでいた。
テラスに設けられた長椅子にだらしなく座り、名物だという炭酸水を飲んでいると、まるで会社の慰安旅行にでも来た気分だ。
「よくこんな立派な部屋が取れたな。天蓋付きベッドとか初めて見たぞ」
「専用の風呂付きだと、豪商とか貴族向けしかないんですよ。庶民は大浴場へ行きますから」
「そうなのか。俺達もそっちで良かったんじゃね?」
「何言ってるんですか」
由利の向かい側で同じくだらけていた東雲は、急いで上体を起こして由利に向き直る。
「女湯には他の女性もいるんですよ? 合法なのは体だけですからね」
「……そうでした。中身は俺だもんね」
生まれて初めてゴミを見る目で見られた。
今の性別を忘れていただけなんですと必死で自己弁護をして、ようやくゴミから人間未満に昇格してもらった。もう会社の上下関係は消え去っている。
分かりましたから先に温泉へ行って下さいと、野良犬のように追いやられてしまった。
悲しみを抱えたまま、由利は着替えを手に浴室へ向かった。珍しい引き戸を開けると、洗面台とシャワーブースが並んでいる。タイルを貼った壁で仕切られ、シャワーがある側は首の高さまでしかない扉が付いていた。左手側の引き戸の先には石造りの湯船と、よく手入れされた庭がある。木々で隠されて見えないが、その奥には堀があるそうだ。
「東雲。露天のほうは目隠しの壁とか無いみたいだけど、防犯対策はしてあるのか?」
誘拐監禁された身としては、無防備な姿を長時間晒したくない。そんな思いを込めて東雲に尋ねてみると、テラスの色男は真剣な表情で親指を立てた。
「不埒なノゾキは私が殲滅します」
「いや殺すなよ」
「大丈夫ですよ。見えるところではしませんから」
「ぜんぜん大丈夫じゃねーよ」
頼むから殺人はするなと言い含めてから、由利は浴室の扉を閉めた。
*
温泉から上がってテラスへ来ると、やはり考え込んでいる東雲が別人に見えた。
「東雲――」
「勇者と聖女らしいですよ、この体」
何かあったのか聞こうとした由利を遮って、東雲が言った。
「そうらしいな。お前はいつから勇者だって気付いてた?」
「……リズベルです。何となく、そんな予感はしてました。答え合わせが出来たのは、由利さんが誘拐されてからです」
「そっか」
沈黙に耐えられなくなり、由利は隣の椅子に座った。火照った体に風が心地よい。
話題を探していた由利は、島に捕まっていた間のことを話していなかったと気付いた。
「リズベルにいた時、魂だけ日本へ送らないと駄目だって話し合ったよな? アレ、何とかなりそうなんだ」
「どういう意味ですか?」
「幽体離脱できるようになった」
理由と方法は分からないがと前置きをして、由利は捕まっていた間のことを説明した。聴き終わった東雲は、由利さんって意外と行動力ありますよねと零す。
「意外ってなんだよ。俺だってお前に頼ってばかりじゃないぞ」
「いえ。まさか情報収集するために魂だけ抜け出すとは思ってなくて。その修道院に巫女がいたら、見つかってたでしょうね」
「巫女?」
「修道女のうち、葬儀とか鎮魂祭、儀式で中心になって働く者をそう呼ぶんです。魂に関する術を使えることが条件なんですけど。当然、彼女達は死者の魂を見ることができるんですよ」
「そうなのか。男ばっかりで良かった……」
由利の意識の端に引っかかるものがあった。この世界に転移してきた時、最初に聞いたことだ。
「東雲が聖女を鑑定したとき、職業は巫女だって言ってなかったか?」
「ああ、アレですか」
東雲は腕を組んで目を閉じた。
「勇者や聖女というのは称号で、職業じゃないんです。それに肝心なところが文字化けしてたので。そっか。巫女だから幽体離脱も可能になったと。今も出来るんですか?」
「やってみる」
由利は長椅子から落ちないように座りなおしてから、ぬるっと体から抜け出した。東雲にも見えていたようで、由利を見上げて拍手をする。
「スーツ姿の由利さんだ! 久しぶりだなぁ……涙出そう」
「成人式の時の婆ちゃんみたいなこと言うなよ」
「あの小さかった一成ちゃんが! とか言って泣かれたんですか」
「一字一句合ってるのが怖えよ。何なの。タイムマシンで見てきたんか」
由利は体へ戻った。名残惜しそうに東雲が見てくるが、さくっと受け流す。
「で。教会に侵入して分かったことはあるか?」
「ああぁ……もうちょっと舐めるように眺めていたかったのに……あっ、冗談です。くすぐろうとしないで下さい。えっと、まずは聖女の選ばれ方です」
後輩が変人化してきて、どう接すればいいのか困る。聞かなかったことにすれば良いのか。
「聖女は巫女の中から神託で選ばれるんじゃなかったのか?」
「神託という名の会議ですよ。まず巫女の中から実力とかを考慮して、宗派ごとに候補生が選出されます。その中から枢機卿が集まって会議で決めて、法王が神託という形で任命するんです」
魔王を討伐した聖女の派閥は、少しだけ教会内での発言力が増すそうだ。
聖典派が聖女を監視して、交代させようと画策していた理由の一つだ。彼らは自分達だけが正しい教えを受け継いでいると、ただ純粋に思っている。そして正しい教えを広めて、人間全体が教えの先へ到達することが目的だ。
この目的を達成するために、まずは教会内を一つの宗派で統一しなければいけない。だから彼らは権力を増すために、聖女の後ろ盾になろうとしている。
聖典派が擁立した歴代の巫女は、いずれも聖女に選抜されるほど優秀だった。今代もすぐに魔王を封じるだろうと言われていたが、どうしたことか聖女がことごとく行方不明になってしまう事件が起きた。その結果、聖典派に選抜者が偏りすぎているという指摘もあり、聖典派以外から選考されることになったそうだ。
閉め出された聖典派は当然、面白くない。発言力の低下はさることながら、よりにもよって犬猿の仲であるクリモンテ派の巫女が選抜されてしまったのだ。
「由利さんを誘拐したのは、純粋すぎて暴走した人達でしょうね。聖典派全体があんな人じゃないですよ」
「そう言われても、静かに狂ってるって印象は変わらないぞ」
「信者じゃないんで、私もそんな印象です。続けますよ?」
聖女に選抜されて任命の儀式がおわると、勇者がいる場所が分かるそうだ。聖女は託された聖剣を手に会いに行き、人々に勇者の誕生を知らせる。
「あとは聖剣が勇者を認めれば、物語の序章が終了です。一応、拒否権はあるんですけど、名誉なことなので断りにくいんです」
「各地に被害も出てるし、無言の圧力が凄そうだな」
「あとは勇者の出身国が後ろ盾になります。魔王がいる山脈まで、通行証が発行されたり、必要に応じて資金の提供もありますよ。勇者が通る道は周知されて、討伐を妨げてはいけないと通達されますね。ただ外見は大まかな特徴が伝えられるだけで、通行証と聖剣で判断されているみたいです。だから身分を誤魔化して変装すれば、一般人には勇者だと分かりません」
「ネットも写真もない世界なら仕方ないな。勇者が通り道じゃない町にいるなんて思わないだろうし」
「基本的には出立した国から山脈まで、ほぼ一直線に向かいますからね。それに山脈は勇者と聖女以外は立ち入り禁止です。麓まで行ってしまえば、知りようもないです」
「勇者と聖女って人間からしか選ばれないのか? 魔族は面倒だと思ってるって聞いたけど。近づくと向こう側に引きずられて、発狂するとか」
「竜人も近づくと不快だと言ってました。たまに操られた魔獣が襲ってきますけど、大した脅威ではないから存在は気にしてないとか」
魔石が関係しているんでしょうね――東雲は胸の辺りを指す。
「魔王に操られているのは、魔石が体内にあるものだけ。何らかの方法で魔石に働きかけて、暴走させているんでしょうか。操られたものには魔石が残らないんです。だから体内に魔石が無い人間やエルフには、操られたという記録が残ってません」
「魔王はずっと山にいるのか?」
「出て来ません。それどころか城に閉じこもってます。だから誰も魔王の姿を知らないんです」
「勇者達は何か書き残してないのか?」
東雲は記憶を掘り起こすように、少し間を開けてから何もないと言った。教会や国の歴史書には功績しか残っていないという。
「何度も魔王が復活しているなら、一つくらいあってもいいのにな。理想の勇者像と違うからって教会が破棄したとか?」
「由利さんって時々鋭いこと言いますよね」
由利が疑問に思うよりも先に、東雲は真剣な表情で言う。
「由利さん。魔王退治に行きませんか」
「どうした唐突に」
「いや、だって。本当なら、この世界の人達が魔王を退治したほうがいいって分かってますよ。私だって義理もないのに、面倒なことしたくありませんし。でも勇者達はいま動けないのに、どんどん魔王の被害が広がっているんです。勇者や聖女に……えっと、フェリクスとモニカに体を返す方法を見つけるよりも、私達が魔王をどうにかするほうが早いと思うんです」
「どうにかって、俺は聖女の力は使えないぞ」
「大丈夫ですよ。聖女はちゃんとそこにいて、私達の声を聞いていますから。島の修道院で声を聞いたでしょ?」
「そうタイミングよく出てきてくれるのか?」
由利がそう言うと、心がふわりと温かくなるのを感じた。大丈夫、心配しないでと聖女が伝えているようだ。
「とりあえず考えていて下さい。そうそう、これ由利さんが持ってて下さいね」
東雲はブラックの缶コーヒーを渡してきた。彼女が日本から持ち込んだ物だ。
「これに発信機仕込んでおいたんで、また誘拐されても最速で見つけられますよ」
「ありがたいけど、お前の好物だろ?」
「好物じゃなくて、甘いコーヒーを飲まないだけです」
受け取ったコーヒーをサイドテーブルに置いて、懐かしい文字を眺める。蓋は空いていない。少しだけ底が凹んで、表面の印刷が削れている。
どこかで落としたのだろうか。ガソリンのような臭いがする。
「あとこれ、由利さんがいない間に書いたラブレターです。思いの丈を綴ってありますから、しっかり受け止めて下さいね!」
東雲はわざとらしく真正面に回ると、封筒を両手で差し出した。何かのイベントでも真似しているのか。
「えっ何か分厚いんですけど。封筒をハートでデコレーションするなよ。読むのが怖くなるじゃねえか……ってコレ教会から盗んだだろ! 下に教会のマーク入ってるぞ!」
「バレたか……お風呂行ってきまーす。覗いちゃダメですよ」
「誰が覗くか。さっさと行け。ついでにハゲろ」
「私の体じゃないんで、どうでもいいですー」
ヘラヘラと笑って風呂へ行く東雲を見送る。分厚い手紙を苦労してポケットにねじ込むと、缶コーヒーの硬い感触があった。こちらは由利が持ち込んだカフェオレだ。
東雲が考えていることが分からなくなってきた。だが言っていることは納得できる。
人間には魔王を倒す人が必要だ。部外者の由利達が独占していいわけはない。帰る方法を見つけるのも、平和な世界のほうがきっと探しやすいだろう。
そう由利も理解しているのに、何かがずっと引っかかっている。
大丈夫だよなと胸に手を当てて聞くと、大丈夫、ごめんなさいと微かに聖女の声が聞こえた。




