008 優しさと優柔不断の間
優しそうな人と由利は評価されていた。
強く自己主張することもなく、他人との衝突を避け、多数決で決まれば素直に従うような、クラスに必ずいるタイプ。親や教師にとっては扱いやすいが、記憶に残りにくい。かといって人付き合いが苦手というわけではなく、大多数とは上手く話を合わせられる、そんな無害な男。
優しそうだから、きっと良い人が見つかるよ――そう言って何度フラれたか。
ずっと他人を傷つけないように振舞ってきた由利には、それが無難なお断りの文句だと知っていた。
由利には誰かと深く付き合った経験が無かった。
願望が無いわけではない。何でも話せる親友という存在は憧れるし、異性とは段階を踏んでお付き合いしたい。そう思っているのに、なぜか一定以上は相手に踏み込めない。相手も踏み込んでこない。いつも表面上の付き合いで終わってしまうのだ。
思春期に周りとぶつかってこなかったからだろうか。喧嘩するのが嫌いで、言葉を選んできた結果が、優しそう――つまらないという評価なのか。
由利はただぼんやりと、正面にいる知らない男の口元を見ていた。
「聖女様に聞いて頂いたお陰で、心が軽くなりました」
「そうですか」
ただ聞いていただけだ。相手は心に溜まっていたものを吐き出して、そうして帰っていく。由利が意見を言うことはない。壁に向かって喋っているようなものなのに、生身の人間がいるだけで救われるらしい。
イノライが二度目に由利の前で愚痴をこぼしたあと、ちらほらと他の聖職者が現れるようになった。
ある者は聖堂の掃除をし、またある者は由利を前に心情を吐露する。皆、人目を気にして聖堂へ入ってくるくせに、由利の都合などお構い無しに自分の用事を済ませてゆくのだ。
昼間は誰かが来るために、由利は体を抜け出して島を調べることが出来なかった。門限があるのか夕方以降は誰も来なかったが、脱出計画が全く進まないことに焦りを感じていた。
強く断れば彼らは来なくなるかもしれない。だが由利は、誰にも言えない悩みを抱えた彼らが、日本にいた頃の自分や知り合いと重なって見え、拒絶することが出来なかった。
優しいという評価の中には、きっとお人好しとか都合が良いという意味が含まれているのだろう。
ひとしきり喋ってすっきりした男が帰っていくと、入れ替わるようにイノライが入ってきた。日に日にやつれてきているのが見てとれる。
「不思議だよね。どうしてまだ結界を保てる?」
目に生気がない。ただならぬ空気に、由利は結界内にも関わらず後ずさった。
「これほど長く術を行使している例は少ない。聖女だから? それにしては式が不安定で不完全のくせに結界として成り立っている。分からない。見えるのに、そこにいない」
「イノライさん?」
「話を、最後まで聞いてくれたのは、君だけ。なのに上司が酷いんだよ。君を連れて行こうとしている。僕には君しかいないのに、みんなが君に会おうとする」
会うたびに心が病んでいると感じていたが、今日は一段と危なっかしい。結界のお陰で近寄れないことに感謝をした。話している最中に刺してきても、不思議ではない態度だ。
「何で、君は他の奴らの相手をするの」
「なぜって……私には訪問者を止める理由も方法もありません」
本音は一人になりたいが、この聖堂は鍵が見当たらないために、結界で籠城するしかない。由利の聖職者に対する偏見と、彼らの人間らしい苦悩の差を知った今は、結界に手出ししてこなければ放置しようと決めていた。
「それは、聖女だから?」
「今の私に役割は関係ありません」
由利は聖女ではない。聖女としての力を使えないし、体の持ち主を差し置いて名乗るようなことはしたくない。ただ詳しい事情を話すわけにもいかず、曖昧に濁すしかなかった。
イノライは由利の言葉に、ほんの少し目に光が戻る。
「なぜ君のような人が聖女なんだ。ただの巫女でいられたら、その心のまま教えに殉じることもできただろう」
ゆっくりとイノライが由利に近づいて来る。
「君のように立場に縛られず、自らの意思で他人に奉仕するなんて、ザインが掲げる教えを忠実に守ろうとするなら……」
何かを決めた顔のイノライは、由利に逃げようと告げた。懇願する表情のはずなのに、その目は由利よりも遠くを見ているようだ。
対応を間違えた。ギリギリの位置で均衡を保っていた彼の心を、不用意に刺激してしまったらしい。
「教会は君に聖女を辞めさせようとしている。聖典派のやり方は知っているんだ。このままだと潰される。だから一緒に逃げよう」
「えっ……な、何で?」
動揺して思わず口走ってしまった。拒否する気持ちで言ったが、イノライには別の意味で伝わったようだ。真面目に聖女を心配して話し始める。
「僕は聖典派の工作員として、長年送りこまれていたんだ。この修道院が聖典派の敵にならないように、少しづつ思考を誘導するために。たまたま君がここに連れて来られたから、監視役の一人に命じられたんだ」
イノライは結界に触れた。
由利に悩みを打ち明けた人の中に、監視もいたのだろうか。
「でももう工作員として働くのは嫌だ。君の結界は解析できなかったけど、壊し方なら判明してる。上の承認が得られたら、すぐにでも作業にかかるだろう。他の誰かに取られるぐらいなら僕が……」
イノライが呪文を唱えると結界にヒビが入った。結界は由利が使える、唯一の防御魔法だ。これを崩されたら、由利は別の方法で身を守らなければいけない。
「お願い。抵抗しないで」
――どうする。
痩身とはいえイノライは男で、背も高い。手足の長さも考慮すると、戦って倒すことは忘れたほうがいい。まずは聖堂内にある障害物を利用して、外へ逃げるべきか。
亀裂が増えてゆく結界を見ながら、由利はいつでも動けるよう身構えた。
「何をしているのですか!?」
聖堂の扉が開けられ、由利を捕まえた女が焦った様子で入ってきた。背後にも何人か僧服姿が見える。
「イノライ神父、貴方には監視の任務から外れるよう言ったはずです」
「シスター・ザイラ……」
イノライは結界に触れたまま、気怠げに振り返る。
「彼女を監禁する必要なんてない。彼女を壊してまで聖女の地位を奪うのが、聖典派
が説く正しい道なのか!?」
「また情でも移りましたか。対象にすぐ感情移入するのは、貴方の悪い癖です。聖典派が正しく導く未来には、軟弱なクリモンテ派など必要ないと、まだ分からないのですか」
「君達が見せる未来には、屍の山しか見えない。彼女は救いに肩書きも宗派も関係ないと言ってくれた。ザインの使徒は等しく導かれるべきだ!」
「言った覚えないんですけど……」
由利の呟きは誰にも届かなかった。
イノライの中で、由利の存在はどう位置づけられたのか。きっと元の姿が見えないほど、信仰の膜で覆われていることは間違いない。
「……これだからイノライを使うのは反対したのよ。いくら解析に必要だからって、病んだ奴なんて使えないわ」
ザイラは苛立たしそうに吐き捨て、背後にいた男達に結界を囲むよう指示を出した。
そのうちの一人には見覚えがある。掃除を終えると、家族に会いたいとこぼしていた男だ。目が合うと、気まずそうに逸らされた。
ザイラは無表情で、結界に向かって銀色の光をぶつけてくる。
「シスター・ザイラ! 聖女を傷付ける気か!?」
「結界が壊れたら、聖女とイノライを拘束しなさい!」
イノライが悲痛な声で抗議をするが、ザイラは全く取り合わない。
結界がみしりと音を立てて歪む。イノライだけでも厄介なのに、ザイラまで加わったことで、結界は今にも壊れそうだ。壊されまいと元の状態を想像して抵抗するものの、初心者の由利が二人に敵うはずがない。
やがて涼やかな音と共に結界が壊れると、輝く粒子が辺りに降り注いだ。
「早くこっちへ!」
「捕まえなさい!」
それぞれが別の思惑で捕らえようと動く。
せめて一撃だけでも抵抗しようと身構えたとき、聖堂の屋根が轟音と共に吹き飛んだ。




