006 汚れ役
ジョフロワ様と呼びかけられて、彼は目を開いた。
「お休みのところ、申し訳ありません。面会の許可が降りました。枢機卿が直接お会いになるそうです」
「……そうか、ご苦労」
ジョフロワは体を休めていた長椅子から立ち上がった。使いにやっていた部下、ザイラが手早く僧服の乱れを直してくれる。
聖女を捕まえたジョフロワとザイラは、今一歩のところで結界内に逃げられてしまった。連行した先が孤島の修道院だったため、ある意味では監禁に成功したとも言える。
さらに計画を万全にするため、結界を壊して塔へ移動させたかった。しかしその結界を解除させることが出来ない。部下を使って解析させているが、聖女の結界は見たことがない魔法式で構成されているらしく、強制的に解除するのは困難と結論が出た。
新たな指示を仰ぐため枢機卿に連絡を取ると、何やら問題が起きているという口振りだった。魔法による通信では言えないらしく、代わりに戻ってくるよう命令が下った。
魔法による転移は特別な場合にしか使えない。聖女に使ったものは、島へ監禁するために借りたものだ。それも島へ行くためだけに作られたものなので、他に応用ができない。
船と馬車を乗り継いで、急いで王都ローズタークにある大聖堂へ戻ってきたジョフロワは、ザイラが面会を取り付けている間、控え室の長椅子で旅の疲れを癒していた。もう少し時間があると思っていたが、他のことを後回しにしてまで面会する要件があるようだ。
「行ってくる。君は指示があるまで休んでいたまえ」
「では部屋の前まではご一緒いたします」
生真面目な性格のザイラは、ジョフロワを差し置いて休む気はないらしい。部下の性格を理解しているジョフロワは、好きにしたまえと言って部屋を出た。
外には枢機卿についている僧兵が待っていた。案内と警備を兼ねて迎えに来たようだ。案内などなくても枢機卿の部屋は知っているが、彼らの仕事を拒むわけにはいかない。部外者のジョフロワが案内も付けずに歩いていれば、侵入者と見なされてしまうのだ。
――しかし、それだけではないような?
教会内に入った時から、どこか緊迫した空気が流れている気がする。もともと宗派に関係なく能力で集められているため、大なり小なり気を使う場所ではあるのだが。
金をかけて質素に見せた廊下を進み、枢機卿の執務室へ来た。部屋の前に立っていた別の僧兵がジョフロワを確認すると、中へ声をかけて到着したことを告げる。中から入れと言われ、ジョフロワはようやく目的の人物と会うことができた。
巌のような顔をした老人だ。細身のはずなのに、彼が纏う空気は他人を圧倒させる。枢機卿であることを示す青い僧服には一分の隙もない。長く聖典派の重鎮として君臨しており、敬虔な信徒と評判だが、厳しすぎるという批判も少なくない。
ジョフロワはこの老人――アウグスト・マリウス・ギーセンに会うのが苦手だった。
「挨拶はいい。座ってくれ」
「かしこまりました」
ジョフロワが入るなり、机の前にいた枢機卿は着席を促した。お互い向かい合ってソファーに座ると、早速枢機卿が口を開く。
「我々の研究を探っている者がいるそうだ。キルシュから連絡があった」
「なんと……」
ジョフロワは真っ先にクリモンテ派の名前が思い浮かんだ。しかしクリモンテ以外にも聖典派を良く思わない宗派はある。わざわざ聞くような真似はせず、代わりに首から下げた始まりの魂に触れて続きを待つ。不用意に発言してしまったことを相手に詫びる行為だ。
「卑劣な行為をした者を見つけねばならん。帰ってきたばかりで悪いが、エナン大司教の補佐として調査せよ」
「仰せのままに」
枢機卿は他派の仕業だと断言も否定もしていない。調査は始まったばかりで、確証が得られていないのか。
「それから、勇者は見つかったか?」
残念ながらとジョフロワは答えた。
「リズベルでそれらしき人物を見たという証言を最後に、足取りが掴めておりません。聖女を捕えた宿には『教会へ行く』と伝言を残しましたが、どうしたことか最初から主人を疑って、拷問まがいの尋問をしたそうで」
宿の主人には男が勇者であると伝えなくて正解だった。勇者の存在は万民にとっての英雄でなければいけない。英雄が拷問をしたなど、歴史書には必要ないのだ。
「聖女を説得している間に、教会で足留めする計画は失敗か」
「宿を通じて、教会が聖女をお招きしたことは知っているようです。我ら聖典派を疑っているかどうかは未知数ですが。念の為にアルクシオン島には部下を残して、監視を命じております」
「こちらからも人をやって、島の警護にあたらせよう。定期船はお前が乗ってきたものを最後に、出航を停止しておる。そう簡単には入れないはずだ」
ジョフロワはすぐに島の形を思い浮かべ、警備の死角になっている箇所があることを枢機卿へ伝えた。そうしておけば派遣される僧兵から問い合わせがあるだろう。詳細はその時に伝えればよい。
聖女を監禁している島は、孤島に作られた男子修道院だ。運営しているのは聖典派でもクリモンテ派でもない。修道院へ潜入させた部下を使って、勝手に閉じ込めているだけだ。たとえ聖女がいることが明るみに出たとしても、表立って罪を問われるのは聖典派ではない。
あの修道院は外の情報がほとんど入ってこない。収入源である免罪符を作っているため、島に招待されるのは身元が明らかな富裕層だけだった。身上調査をして、修道士と交流しようという物好きは、最初から排除されている。
「聖女への説得はいかがいたしましょう?」
「声が届くなら続けよ。結界の解析も忘れるな」
「はい」
話は終わった。簡単な挨拶をして枢機卿の執務室を出ると、ザイラの姿は無かった。命令通り休憩しているはずだ。
同じ僧兵に案内されて、キルシュから来た大司教がいるサロンへ誘導された。フレデリクはジョフロワがサロンへ入ると、立ち上がって出迎える。
「枢機卿から話は聞いている。そうか、君が……」
フレデリクは人目を気にして言葉を濁した。
ジョフロワの存在は公然の秘密になっている。聖典派が擁する諜報機関、その責任者が彼だ。本来なら直接活動する立場ではないが、部下の手に余ると判断したときは現場に出向くことがある。
広報部の中にひっそりと設立され、噂のみが語られる機関。構成員は秘匿され、枢機卿やジョフロワでなければ全員の存在を知ることはない。フレデリクがジョフロワの顔を知っていたのは、表の顔として広報部で活動しているからだろう。
「ともかく座ってくれたまえ。君はどこまで事態を掌握している?」
「概要を聞いただけです」
「そうか。では判明していることを全て話そう」
フレデリクの明瞭な説明を聞きながら、ジョフロワは仕事を割り振る部下達の顔を思い浮かべていた。
「使われた魔法の種類は特定できましたか?」
一通り聞き終わると、ジョフロワは静かに尋ねた。
「調査を担当した者によれば、あり得ない痕跡と」
「あり得ない?」
否、語弊があるな――フレデリクは即座に否定した。
「今まで見たことがない残滓ということだ。一見すると溢れたインクのように無意味。しかし子供の落書きのように、描いた者には明確な意味があると言っていたな」
「使用者以外には読み取れないと?」
「独学で魔法を覚えた者特有の痕跡と分析しておる」
「なるほど……」
ジョフロワはなぜか聖女を思い出した。しかし彼女の犯行ではない。聖女は教会で魔法を習得した巫女であり、侵入があった頃は島に監禁されている。
魔法を使うには魔力だけでなく、使いたい魔法に合った方程式――魔法式を選ばなければ発動しない。教会やそれぞれの国で受け継がれてきた魔法式は、長年に渡り改良された結果、無駄なものを極限まで削ぎ落としてある。優れた魔法式には芸術的な美しさがあるとまで言われ、その式が持つ歴史の長さでもあった。
稀に魔法式に触れたことがない者が、魔法を使えることがある。それは直感で試行錯誤をしながら魔法の発動に到達しており、魔法の黎明期によく見られたものだ。彼らは原始の魔法を再現しているために、必要以上に魔力を消耗している。
そして魔法を使った後には、単に『残滓』と呼んでいる魔力の乱れが残る。その乱れを観測することで、使用された魔法のおおよその種類が分かるのだ。洗練された魔法ほど乱れに法則があり、原始の魔法ほど乱雑である。
当然ながら聖女は教会で魔法の手ほどきを受けており、稚拙な原始の魔法など使わない。勇者もタルブ帝国の貴族階級出身のため、魔法式は違えど十分な教育を受けているはずだ。
――いや、聖女の結界は見たことがない魔法式だった。
今も島に残って解析している部下が、中間報告として送ってきた式を思い出す。クリモンテ派が受け継ぐ結界の式とは似ても似つかず、未完成な部分を魔力で繋いでいた。その未完成な部分は観測する度に式が変わるという、従来の式からは考えられないようなものだった。
「エナン大司教、キルシュに残された痕跡を見せて頂きたいのですが」
「分かった。すぐに資料を取り寄せよう」
フレデリクは快く引き受けた。
――聖女の結界と合わせて、何か法則がないだろうか。
解析が進めばそれで良し。期待通りにならなくても、地道に探求していくまでだ。焦ってはいけないとジョフロワは己を戒める。
己の仕事は情報収集と分析だ。集めた情報をどう生かすかは上の役目。焦りは判断を鈍らせ、目の前にある答を見逃してしまう。
たった一つの行動が全てを台無しにしてしまうことは、歴史上に何度もあった。
常に冷静であれと心に思い浮かべ、ジョフロワはそっと息を吐いた。
*
淡々と仕事を進める二人を、一匹の小さな蜘蛛が天井から見つめていた。じっと身動きもせず赤い複眼を下に向け、二人が部屋を出て行っても天井に留まっている。
最後に警備の僧兵が部屋を点検して出て行くと、わずかに開いた天井の隙間へと消えていった。




