004 忍び込まれた教会にて
翌朝、キルシュ大聖堂には緊迫した空気が流れていた。大司教であるフレデリク・エナンの執務室に、部外者が侵入した痕跡が見つかったという。
幸いにして盗まれたものは無かったものの、機密文書を見られた可能性があることが関係者に明かされた。
「諸君らも知っての通り、アレの情報が他派に漏れるのは好ましくない」
重々しい空気の中、フレデリクは集まった代表者の前で口を開いた。
「警備はどうなっていた? 犯人の追跡は?」
鋭い視線を向けられた僧兵団の団長は、申し訳なさそうに否定する。
「残念ながら、何も……我々の巡回計画を前もって知っていたようで、キトロ犬すら感知しておりませんでした」
キトロ犬は教会が警備のために、犬と魔獣を掛け合わせて作った生き物だ。従順で縄張り意識が強いため、僧兵団が飼い慣らしている。
フレデリクが不満げな表情で続きを促す。
「侵入経路の特定を急がせておりますが、成果は芳しくなく……」
「もうよい。カリーナ」
「はい」
カリーナと呼ばれた中年の修道女が返事をした。
「侵入者が滞在していたのは、ごく短い間だったようですわね。魔法を使用した痕跡はあるようですが、使用者を追跡できるほどの残滓はありませんわ。机以外に手を触れなかったことといい、情報収集に長けている者の仕業かと」
フレデリクは嘆息して目を閉じた。
ここにいるのは聖典派の人間だけだ。探られた机の中に、他派には隠しておきたいものがあることは全員が知っている。
一つは東雲が見てしまった、ある修道院で出回っている手紙だ。
聖典派の聖職者は厳格な規律の下、生涯独身を貫き、神に祈りを捧げることが求められる。彼らには結婚して子を為すことも、恋愛も許されていない。
問題となった修道院では、友情という言葉にすり替えて擬似的に行われていたようだ。押収した手紙には不純な行為を促すものもあり、当事者には厳しい罰則が与えられた。
何かと対立しているクリモンテ派に知られれば、これ幸いと教義に欠陥があるせいだと煽ってくるだろう。
もう一つは、人間が持つ能力を開花させる研究だ。人間の力は研鑽によって発現するという信念の下、これまで有能な人材を育ててきた。聖女も例外ではない。魔王討伐に成功した歴代の聖女は、圧倒的に聖典派が多い。
失敗が続いたことで、聖女はクリモンテから選抜されることになった。聖典派が抱える候補生の教育が終わっていなかったことも影響している。教会全体への影響力が揺らいでいる今、秘術とも言うべき研究結果を流出させるわけにはいかない。
――やはり敵対しているクリモンテの仕業と見るべきか。勢力を伸ばしてきた北方騎士団も怪しいが、あそこは情報を活かせる設備に乏しいはず。
敵が多い上に侵入者の手がかりが少なく、対象が絞り込めない。フレデリクは一同を見渡した。
「カルロ率いる僧兵団は、引き続き侵入者の捜索と警備の強化に努めよ。カリーナは地方の教会へ連絡して、他派を警戒するよう伝えろ」
「御意に」
「畏まりました」
「アレッサンドロとロズリーヌは内通者がいないか調査せよ」
「調査方法は好きにやらせてもらえるのかしら?」
修道女をまとめるロズリーヌが嗜虐的な声音を隠さずに聞くと、フレデリクは任せるとだけ言った。
「私はローズタークへ行く。枢機卿にこの事をお伝えせねば」
それぞれ静かに席を立つと、与えられた仕事に取り掛かるために足早に去っていった。
執務室へ戻る道すがら、フレデリクは無意識に首から下げたザイン教の象徴を触っていた。丸の中に四角を重ねたそれは、神の声を聞きザイン教として布教した教祖、エーリッヒ・ライドが広めた『始まりの陣』だ。宗派によって装飾の有無はあるが、ザイン教に属する聖職者が必ず持っているものだった。
最も古い宗派である聖典派のみが、エーリッヒ・ライドの教えを忠実に守っている――フレデリクはそう考えている。聖典派こそがザインを正しく導く存在であり、その叡智によって魔王討伐が為されるべきだと。
エーリッヒ・ライドは試練と許しの周期を繰り返すことで、人間の魂は昇華してゆくと説いている。すなわち試練の周期に現れる魔王を、聖典派が育てた聖女が討つことで、世界を許しの周期に移行させるのだ。
「全ては根源へ至るために」
全てはただ一つの到達点のために、この試練を乗り越えなければいけない。
フレデリクに迷いはなかった。




