003 東雲、スパイになる
社会人になってから分かったことがある。自分は一つのことに集中すると周りが見えにくくなるらしい。
それが正しい方向へ進んでいるなら良いのだが、間違っていてもひたすらに進んでしまうので被害が広がってしまう。学生時代は親や教師がそれとなく修正してくれていて、自分の欠点に気付かなかった。
就職してからは、自分も含めて他人なんて見ていない。自分の仕事が円滑に進むなら、他人の欠点にはいくらでも目を瞑っていられる。だから間違える前に自分で気付かなければいけないのだ。
東雲の欠点を指摘してくれた人は、仕方ないなと言って気付くたびに修正してくれた。おかげで今では時々立ち止まって確認する癖がついた。
あの人はお人好しだと思う。いつでも自分のことは後回しで、振り返ってこっちを見てくれるのだ。あの人が退職する前に、頼りない後輩から卒業したかったのに。
東雲は人の気配がないことを確認してから、そっと扉を開いた。
月明かりが差し込む窓の前に、大きな机が鎮座している。部屋の壁には天井まである本棚が置かれ、こちらの世界では貴重品である本が並んでいる。本棚には金網がついた扉が付いていて、魔法と物理両方の鍵がついていた。
並んでいる本の半分以上は、木片に革を貼り付けた偽物だ。財力と知性を示す張りぼてとして、こうした品は人気があるらしい。
由利を探してリズベルから西へ移動してきた東雲は、聖典派が多くいるという都市ダンクエールへと辿り着いた。ウィンダルム王国の南方教区を束ねる、キルシュ大聖堂が目的地だ。
町の中心にほど近い場所に建つ大聖堂は、南方教区最大の規模を誇っていた。祈りの場である聖堂の他に、敷地内には聖職者達が執務を行う棟や、生活の為の棟が並んで建っている。巡礼者が使う宿泊所だけでなく、教会で働く下男下女のための小屋までも内包していた。
東雲は脳内地図で教会の見取り図を呼び出して調査場所にあたりをつけると、巡回する僧兵の目を盗んで忍び込んだ。
大聖堂の長である大司教の執務室は、見た目だけは質素だった。床に敷かれた絨毯も、椅子に張られた布も、よく見れば地味な色の高級品だと分かる。
室内に魔法による警報がないことを確認すると、素早く入って扉を閉めた。使ったのは魔眼と分類される魔法で、魔力の流れを可視化するものだ。本来は魔石道具の品質確認のために開発されたものらしいが、使い勝手がいいので重宝している。
机の引き出しには鍵がついていた。
「どーれーにーしーよーおーかーなー?」
わずかに魔力を込めた指で並んだ引き出しを指していると、一番上の引き出しに引っかかるものがあった。由利がいれば、何だそのふざけた歌はと呆れていただろうが、これも魔法の一つだ。迷った時に答となりそうなものを示してくれるという、東雲がノリで作ったオリジナル魔法だ。
鍵がかかった引き出しを、レイモンに教わった解錠の魔法でこじ開けると、中には手紙が大量に入っていた。差出人や宛名は全て別人になっている。由利の居場所に繋がるかと期待して開いた東雲は、三通目を読んだあたりで溜め息をついて諦めた。
――男同士のラブレターばっかりじゃないですか。
すっかり精神力を削られた東雲は、引き出しに鍵をかけることを忘れたまま、部屋から出た。司教の執務室で得られたのは、リアルな恋愛事情だけだった。他の部屋を調べても、由利がいる様子はない。また空振りだ。
来た時と同じように気配を消して教会から脱出すると、予め買っていた酒の瓶を取り出した。ほろ酔いの行商人のフリをして、回り道をしながら宿へと向かう。尾行は見当たらないが、警戒は続けるべきだ。
――無事に由利さんと合流できたら、レイモンにはお礼の品でも贈っておこう。
監視していることに腹が立って少し意地悪なこともしたけれど、レイモンの情報は正確だった。自分達が入っている体が勇者と聖女だと確定したのも、彼のお陰だ。
由利が誘拐されたことに動揺していたが、レイモンと話すうちに冷静になれて良かった。そうでなければ、異世界人のステータスを見比べて、便利そうなスキルを作ろうなんて思わなかったはず。
――換金できそうな魔石がいいかな。それとも産地直送の珍しい食品? いや、仕事のストレスを酒で紛らわそうとしてたから、体を壊さないように薬草の詰め合わせにしておこうかな。
もしレイモンが聞いていれば、お前の存在がストレスだと返しただろう。彼にとって不幸なのは、異世界から来た東雲と出会ったことである。
なにしろ東雲は身についた日本人的感覚と、ビジネスマナーで行動しているにすぎない。そこに悪意など全く無かった。いくら言葉が通じようとも、外国以上に常識の隔たりがあるために、お互いの溝は一生埋まることはないだろう。
「由利さん、どこにいるのかなぁ……」
あれほど身辺には気をつけろと言ったのに、目を離した隙に誘拐されてしまった。やはり居場所が分かる発信器でも、無理に持たせるべきだったかと東雲は後悔していた。




