003 いつか交差する道
肌にまとわりつくような暑さで目が覚めた。由利は実家のキッチンで、うつ伏せに倒れていたようだ。夕方の赤みを帯びた光が室内に入ってきている。倒れて数時間ほど経ったところに戻ってきたらしい。
起きあがろうと体を動かすと、床と左手の間に硬い物があった。何かと思って手を引いた由利は、わずかに青みがかった金属片を見つけた。
「これ……指輪、か?」
欠片の形から正体に思い至った由利は、それが東雲からもらった物だと気付く。二度目に転移したとき、何があってもいいように手にはめてくれた指輪だ。ずっと付けっぱなしにしていたので、転移に巻き込まれてこちらへ来たのだろう。
「あいつ、未来視の能力でもあんのかよ」
また助けられた。この指輪が身代わりになってくれたお陰で、由利は生きている。
欠片を拾い、小さい透明な袋に入れて財布にしまった。水分補給をしてからシャワーを浴び、洗濯して畳んであったシャツを着る。外に出られる最低限の身支度をしていると、パートに出ていた母親が帰ってきた。
「ただいまー。あら、出かけるの? 今から?」
「醤油ないから買ってくる」
「うそ、やだ。買い置きが無かった?」
「無かった」
――異世界に置いてきたから。
由利はついでに買い物を頼んでくる母親からメモを受け取り、庭にいる小次郎に会いに行った。
散歩がてら愛犬と歩いて行くのもいいだろう。田舎のスーパーなので入り口に犬を繋いでいても咎める人はいない。むしろ年寄りほど犬の散歩のついでに買い物をするので、店側が諦めて犬用の待機場所を設けていた。
犬らしく何かを察した小次郎は、散歩の喜びにちぎれそうなほど尻尾を振りつつも、時おり由利を心配そうに見上げてくる。
「これから忙しくなるな」
まずは仕事に復帰して、迷惑をかけた分を埋め合わせる。それから醤油の作り方も調べてみるかと由利は思った。麹はどこで調達するのだろうか。どうしても無理なら、東雲を諦めさせる方法も考えないといけない。
「なあ小次郎。告白しようとしたら、ちゃんと生きてから出直してこいって追い返されたわ」
舗装された道から畦道へ入ったあたりで、由利は小次郎に話しかけた。賢いメスの愛犬は、何を馬鹿なこと言ってんのと言いたげな顔で由利を見る。
――そういえば、あの時は何て言ってたっけ?
由利はスマートフォンの音声入力を使って、東雲の言葉を覚えている限り入力した。二人で飲んだ日、なぜか外国語で言っていたことが気になっている。音の響きからドイツ語かとあたりをつけ、読み上げ機能で記憶とすり合わせつつ文章を作る。出来た文を検索にかけると、古典作品の一つが該当した。
「……ファウスト?」
名前は聞いたことがあるが、読んだことはない。ざっとあらすじを読んでみて、言いたかったことが朧げに見えてきた。
時よ止まれ。お前は美しい――日本語ではそう翻訳されているセリフは、ファウストが死の間際に言った言葉だ。
「……決めた。再会したら、とりあえず死にたくないって思うぐらい幸せを叩き込んでやる」
由利はスマートフォンをズボンのポケットに突っ込んで歩き出した。
――この瞬間なら死んでもいいとか、あいつの幸福値は低すぎる。
指摘しても、東雲なら適当にはぐらかすだろう。そんなこと思ってませんよ、由利さんは穿ち過ぎですと笑いながら。しかし由利にはもう、それが嘘だと見抜けるようになっている。あれは本音だった。
約束した通りに生きてから、また会いに行く。
東雲が本当に魔法をかけたのか、口から出まかせの気休めだったかなんて、どうでもいい。由利は意地でも会いに行ってやると決意した。
二度も世界を越えられたのだ。三度目の奇跡を大人しく待つよりも、いっそ乗り込んで押しかける方が、東雲のような天邪鬼を捕まえておくには丁度いいだろう。
次でラストです




