002 選択した未来
モニカは由利を送った後、巫女としての力が失われていくのを感じた。手のひらから砂がこぼれ落ちるように、サラサラと消える。あんなに騒がしかった死者の声も遠く、静かに退いていった。
涙が止まらなかった。自分が泣いている場合じゃないのに、あの二人を引き離してしまったことが悲しい。助けてくれた由利に何の恩も返せないままになってしまった。
「モニカ」
フェリクスがモニカの肩を引き寄せた。名を呼んだだけで何も言わず、側に寄り添ってくれている。勝利の余韻に浸る間もなく、モニカの相手をさせているのは申し訳ない。だが今は誰かに縋っていないと崩れてしまいそうだった。
東雲がいる方を見ると、由利だった人形を抱いたまま動かない。背を向いているので、どんな表情でいるのか見えなかった。
「ありがとう。お陰で迷子にならずに体に戻れたみたいだよ。魂も傷ついてなかった」
どれくらいの時が流れたのか、東雲はそっと抜け殻になった体を置いて、モニカに礼を言う。
「これからの話をしようか。モニカ、君は……」
モニカは頰に残った涙の跡を袖で拭いた。いつまでも泣いているわけにはいかない。
「もう、私は巫女には戻れないようです。力が、消えてしまいました」
「あれだけの想念とエッカーレルクの魂を送った後で、由利さんを日本へ帰したからね。むしろよくやり遂げてくれたよ」
由利を引き留めたかった。でもそれは自分のわがままだ。二人が決めたことに口を挟む資格なんてない。
それでもモニカは奇跡を願ってしまう。
聖女の服を着て横たわっている人形は、眠っているようにしか見えない。話しかければ目を覚まして、また会えるのではと思ってしまうほどだ。
「……礼を言いそびれたな」
「大丈夫。ちゃんと伝わっているよ」
フェリクスも人形を見ていた。表情に乏しいけれど、突然の別れを惜しんでいるようだ。東雲はいつも通りに振る舞い、もう人形には目もくれない。あえて見ないことで平常心を保っているのではないだろうかとモニカには感じられた。
「さて、あそこには聖女の服を着て倒れている少女がいる。それから僕の目の前には僧服を着た子がいるわけだけど」
東雲は聖女の杖を握り、モニカに教会が聖職者に発行している身分証を見せた。
「これはアウレリオ神父から預かったもの。名前のところはまだ空白になってる。どう生きたいのか、そろそろ決めた?」
由利に言われた時から考えていた。ずっと教会にいた世間知らずで、教会の政治に携われるような能力などない。だから自分に何ができるのか。
巫女としての力も失った今、残ったのは聖女という肩書きのみ。
「巫女に戻れないなら。私は――」
*
葬列が見える。
ザイン神聖法国の聖都トリエラ。その大聖堂から、棺を先頭に集団墓地へと向かっている。嘆いている人々は、あの棺で眠っているのは聖女だと思っているのだろう。本当は、はるか昔に作られた人形で、聖女の影武者として賢者を追い詰めた一人だと知らない。
聖女はエッカーレルクとの戦いで亡くなった。世間にはそう伝わっている。もともと由利の存在は秘匿されており、モニカの死を偽装するにはうってつけだった。もう過去の亡霊に悩まされることはない。役目を終えた聖女は、表舞台から静かに退陣することを選んだ。
モニカは短くなった髪を手で抑えた。由利のように肩で切り揃えた髪型は、軽くて落ち着かない。特に首の後ろが涼しくて、不思議な感じがする。
葬列が慰霊碑の前に到着した。
儀式用の僧服を着た僧兵達は、担いでいた棺を慰霊碑の前に下ろす。続いて一人の初老の男を乗せた手押しの馬車が停まった。屋根がない車に乗っていたのは、白地に金の刺繍をした法衣に身を包んだ法王猊下だ。若い頃に暴走した魔獣に襲われ、両足を失っている。
従者に運ばれて棺の側に降りた法王は、別れの言葉を棺で眠る少女へ語りかけた。ごく一部の人にだけモニカが生きていることを知っており、彼もまた事情を知る一人だ。モニカの未来についても最大限に考慮して希望を叶えてくれたと聞いている。
「一応は、一区切りついたのかな?」
「ああ。ようやくウィンダルムに臨時政府ができた。運よく王都を離れていた孫を王に据えて、復興にあたるらしい」
背後でユーグとフェリクスが近況を話し合っている。フェリクスは葬儀に参列し、法国を出てからモニカ達と合流した。埋葬は聖職者のみで行われるためだ。
モニカはユーグに無理を言って、埋葬する共同墓地へ連れてきてもらった。魔法で姿を隠し、感知されない限界まで近づいている。快く引き受けてくれた二人には、本当に感謝している。
どうしても最後の別れがしたかった。遠くからでもいい。魂は既に異世界へ送っているけれど、葬儀という一つの区切りが必要だった。
「そう。運が良かったのか悪かったのか」
ユーグは複雑な感情を込めて言った。
「荒廃した国と若い王。できれば安定してくれるといいけど。帝国は介入する気はないんだよね?」
「表向きはな。この孫の要請という形で、帝国は復興支援をしている。後から、かかった費用を請求するつもりではないのか」
「怖いねぇ。ま、仕方ないか。ベルトランが皇帝になってから初めての遠征と戦争。帝国もそれなりに被害が出ているわけで、何かしらの形で償いをしてもらわないと、今度は帝国内に不満が溜まるからね。もともとウィンダルムが上手く反乱を抑えていれば、賢者に付けいられることもなかったんだし」
「そう無理を言うな。お前が思っている以上に、国と宗教の結びつきは強い。教会が信者に害をなすわけがないと、本気で信じている者は大勢いる」
「そうなんだけど……まあ、それはいいとして。君は?」
「俺は直轄地の一部を任された。騎士は廃業だ」
「飼い殺しにするなら、そっちコースだよね。下手に外国へ逃げられても困るし、勇者が戦死したら士気が下がる。君も政治には関わりたくないんでしょ?」
「帝都で腹の探り合いをするぐらいなら、田舎で軍馬でも育てた方が有意義だと皇帝陛下に申し上げた。叶わないなら今すぐ帝国を出ていくと思われたかもしれんな」
「間違いなく、そう思ってるよ。君みたいな真面目キャラがワガママ言い出したら、九割ぐらいは行動に移すし」
最後の別れが終わり、弔いのための鐘が鳴らされる。棺には純白の花が添えられ、蓋が閉められた。遺体を掘りおこされないよう、法王の名で厳重に封印を施されてゆく。
「モニカもその直轄地へ行くんだっけ」
「はい。小さな教会で働くことになりました」
モニカはもう聖女でも巫女でもなかった。修道女と同じ服装で、ここにいる。もう死者を弔う力は感じられないが、教会の仕事には携わっていたかった。
エッカーレルクに関する一連の騒動で、教会のあり方は変わらざるを得ないだろう。以前ほどの影響力はなく、衰退してゆく組織なのかもしれない。それでも信じる人のために、静かな祈りの場所を守っていきたい。支えになってくれる人のありがたさを知っているから。
聖女の服装でなければ、モニカの正体が露見することはないだろう。モニカの顔を知っているのはごく一部だけで、肖像画も描かれていない。モニカという名前もありふれている。姓だけは変えることになったが、もとより思い入れがない。自分を捨てた家族のものから、帝国で人口が多い庶民の姓になり、かえって爽快な気分になったほどだ。
「で、そこの責任者として就任するのがアウレリオ神父か。これは監視も含めてるんだろうなぁ。フェリクスは一度、魔王にされそうになったから、何が影響してくるか未知数。あとモニカに巫女としての力が戻るかどうか」
「ようやく教会から解放されると思ったんだが、熱心なことだ」
フェリクスは、やはり不満そうだった。一方的に勇者と決められ、魔王にされて殺されそうになったのだ。無理もないとモニカは思った。
「いやいや、あの人で良かったじゃないか。汚職には無関心だし、監視と言っても拘束してくるわけじゃないから。たぶん静かな環境で研究に励みたいとか、そんな理由で監視役に立候補したんだろうねぇ。というか、監視はオマケだよ。きっと」
慰霊碑の仕掛けが解かれ、地下への階段が現れた。偉業を成した聖人は地下墓地に安置されることになっている。彼らの死体を魔法の媒体や蒐集家に売られないための措置で、法王といえど鎮魂祭や埋葬以外では滅多に入れない。至る所に盗掘を警戒した罠が仕掛けられていると聞いたことがある。
地下墓所の管理人である行政府の担当者が先に降り、続いて僧兵が担ぐ棺が降ろされてゆく。モニカは棺から何かがすり抜けたように見えた。白い靄のようなものが、冬の空へと飛び立つ。
――魂のような……気のせい?
あんなにはっきりと見えていた死者の魂も、ぼんやりとしたものにしか感じられなくなっている。それでもモニカは、あの白いものがイドの想念ではないかと思った。あの体はイドが残したものだ。エッカーレルクを倒したことで彼女の想念が浄化され、人々の追悼の想いが空へと還る力になった。
「終わったね」
「はい。不思議な気持ちです」
慰霊碑が元通りに閉じられ、集まっていた聖職者が帰ってゆく。その背中を見送り、ユーグが隠蔽のためにかけていた魔法を解いた。
「行くのか」
離れたユーグに、フェリクスが問いかけた。
「ユーグさん、どこへ?」
もう一つの別れを察して、モニカは寂しくなる。一緒に行動していたのは短い間なのに、今まで生きてきたよりもずっと濃厚な時間だった。モニカが反魂を使わなければ、存在すら知らなかった。
「とりあえずは世界一周かなぁ」
ユーグは鷹揚とした態度で言った。
「ああ、帝都へは行かないよ。いま行ったら、ベルトランの首を貰わなきゃいけないから。律儀なんだよね、君のところの皇帝は。ちゃんと事情を話して、いつか会えるかもしれないから首は要らないって言ったのに、今生を終わらせたのは俺の責任だ、なんて。とりあえず自殺は思い留まらせたから安心して」
「お前な……」
笑いながら言うユーグに、フェリクスは複雑そうだった。
「もう会えないんですか?」
「何かのイベントがあれば会いに行くよ。じゃあね」
ふわりと優しい風が吹く。微笑むユーグの姿が霞み、行き先も告げずに旅立っていった。
「……行こうか」
「はい」
モニカは差し出されたフェリクスの手を取った。転移魔法で帝国へ向かい、それから赴任先の教会へ行くことになっている。アウレリオ神父とは現地で合流する予定だ。
あの時、ユーグが由利に魔法をかけたのかは分からない。ユーグはもう由利に関することは何も話さず、こちらから聞くことも拒んでいるような態度だった。最後に想いが通じた人が遠くへ行ってしまって、辛くないはずがない。
――あの人が本音を言えるのは、由利さんだけだから。
もう一度、二人が再会してほしいとモニカは願う。こちらと異世界は時の流れが違うらしい。それなら、明日にでも由利が来ることがあってもいいはずだ。
どうか穏やかな未来を――モニカは法国で最後の祈りを捧げた。




