012 日課と襲来
由利の朝はセルスラを起こすことから始まる。
分厚いカーテンと窓を開けて、まずは空気を入れ替える。朝方特有の澄んだ風が入ってくるのが心地よい。太陽は出ているようだが、まだ他の建物に隠れて見えなかった。
ベッドではセルスラが眠っている。夜中にどう寝返りをうったのか、枕に足を向けて大の字になっていた。結界を使っていなければ、由利の頭がスイカのように割れていたかもしれない。
セルスラを捕獲して部屋に連れてきた時は、そんな残念なことなど思いつきもしなかった。しかし先にベッドの半分で眠らせ、トイレから戻ってくると毛布が床に落ちている。嫌な予感がして結界を張って横になっていると、飛んできた裏拳でヒビが入った。並の攻撃なら防いでくれる結界に亀裂を生じさせるとは、なかなかの威力だ。
一撃で死ねる――予感が確信に変わった瞬間だった。
離れて眠りたかったものの、寝台に使えそうなソファーは無く、床も冷たい。避難先に東雲の顔が思い浮かんだが、早く寝ろと言って出てきた手前、出戻るわけにはいかない。結界の強度を最大にして寝るしかなかった。
寝ながら使うことに慣れていて良かった。孤島の修道院に閉じ込められた経験が、ここで生かされるとは思わなかったが。
――二日目ともなると、さすがに慣れたなぁ。
人間の適応能力ってすごいなと、由利は他人事のように感心した。
由利は枕の上で固まっているネズミの兄弟をくすぐった。二匹は身をよじって目を覚まし、丸い黒目で由利を見上げる。それぞれ同じ鳴き方をしたのは、朝の挨拶だろうか。
「おはよう。よく眠れたか?」
やはり彼らの言葉は翻訳されなかった。だがこちらが言っていることは伝わるようで、由利の手に前足を乗せて鳴いている。ご機嫌で話しかけてくれる彼らを見ていると、眠りながら結界を展開させた疲れが吹き飛ぶようだ。
「で、問題はこっちか」
平和そうな顔で眠りこけている竜人様は、朝に弱い。肩を叩いた程度では目を覚ましてくれないのだ。昨日は自分から床に落ちて起きてくれたが、そう都合よく同じ展開にはならないだろう。
由利はセルスラの腕を掴み、兄弟喧嘩で習得した技を思い出す。
「確か足をこうやって乗せて……セルスラさーん、起きてくださーい」
「にぎゃああああ!? な、何故に腕を!?」
披露したのは『腕ひしぎ十時固め』だ。兄と喧嘩をして惨敗した翌日に、目覚ましと称して使っていた思い出深い技でもある。反対にやり込められて、後で二人まとめて親に怒られるという結果も付いてくるのが欠点だ。
「なぜって、セルスラが起きないから」
「竜人の力を舐めるでないわっ!」
脅威の腕力で由利を引き剥がしたセルスラが枕元へ逃げる。二度寝する気だ。ここで許すほど由利は甘くない。ベッドの上を這うセルスラの足を捕まえて仰向けにすると、もう一つの技を披露する。
「これが『アキレス腱固め』な。良い子の獣人はマネすんなよ、危ないから」
「ひにゃああああ!」
獣人の兄弟が目を輝かせ、ちちっと鳴いた。尊敬している竜人を組み伏せる由利を、強者と認定してくれたらしい。やはり子供にとって強さは正義だ。
「やっと起きたか? 顔洗ってこいよ」
「お、お主は普通に起こせぬのか……」
「優しくしても起きないだろうが。昨日、俺がどれだけ苦労したと思ってんだか」
不満そうなセルスラを洗面所へ追い立てた。朝の時間は貴重なのだ。獣人の兄弟が後を追い、揃って洗面所へと消えてゆく。
荒れたベッドを整えた由利は、素早く身支度を整えた。昨日とデザインは違うが、今日も活動内容を考慮してズボンが選ばれている。スカーフの巻き方に苦戦した結果、東雲にやってもらおうと結論づけた。同じように手を動かしているはずなのに、狙った場所に収まってくれない。ネクタイとは柔らかさが違う。
洗面所から出てきたセルスラの髪を梳かし、ポニーテールに結んで寝癖を誤魔化してから部屋を出た。
朝食の時間にはまだ早い。せっかくだから散歩でもしようと誘うと、喜んでついてきた。特に獣人二人は部屋から見える庭に興味があったらしい。セルスラの頭の上に立ち、前足を動かす喜びの舞を披露している。許されるなら持って帰りたい。
庭へ出るためにテラスへ向かうと、先客がいた。こちらに背を向けてベンチに座っている。
首の後ろで無造作に結んだ薄灰色の髪が、そよ風に吹かれて広い背中に広がった。作業中なのか手を動かすたびに光の文字が飛び回り、まるで妖精が戯れているようだ。耳に心地よい歌声は、以前に聴いたことがある曲だ。
東雲がいる。くつろいだ様子の後ろ姿を見て、数ヶ月前まで女性として生きていたことを想像する者はいないだろう。以前の姿を知っているのは由利だけだ。
作業の邪魔をしないよう見守っていた由利は、東雲の手ばかり目で追っていた。
ふと昨日の庭園であったことが脳裏をよぎる。
髪を撫でる手と伝わってくる体温。
強引に始まった抱擁なのに嫌悪も恐怖もなくて、ずっと続けばいいとさえ思って。
「声をかけんのか?」
動こうとしない由利を不思議に思ったセルスラの声で、現実に引き戻された。
「えっ。いや、邪魔しちゃ悪いかなって……」
「もう終わったようじゃぞ」
「あっ……」
文字が消えている。
東雲は立ち上がり、手に持っていた道具を収納したところだった。
「おはようございます。散歩ですか?」
いつもの笑顔だ。柔らかくて、異世界に来てから頻繁に見せてくれる顔。なぜか心が痛い。
「ああ、朝食には早いから」
「そっちの三人は……探検? うん、行ってもいいけど荒らすのはダメだよ」
「我がついておるからの。そのような過ちは犯さぬ」
「本当か? 花びらをちぎって蜜を吸ったりすんなよ?」
「し、しし失礼な! 世話になっておる者の庭で、そのようなっ、子供のようなことはせぬ!」
――人の庭じゃなきゃ、やってたんだろうな。
分かりやすいほど動揺しているセルスラと、あからさまにがっかりしている獣人たちがいる。我慢していれば朝食のパンに蜂蜜かジャムを塗ると約束し、子供達を庭へ解き放った。つい意地悪なことを言ったが、セルスラなら大丈夫だろう。
「駄目そうならジャイアントスイングでもかけるか」
「由利さん、思考が尋常じゃないほど覗いてますよ」
うっかり本音が出ていた。
ベンチに座ると東雲も隣に腰を下ろす。
「さっきの歌、なんて名前だっけ?」
「Omnia Sol Temperat」
「……もう一回」
まさか外国語がそのまま返ってくると予想しておらず、綺麗に記憶に残らなかった。
東雲は由利にも聞き取りやすいように、日本語の訛りを強くして繰り返す。
「オムニア・ソル・テンペーラト。太陽は万物を暖める、とかそんな意味だったと思います」
「何語?」
「ラテン語らしいですよ」
「イタリア語かと思った。このペンダントって獣人と地球の言語は翻訳してくれないんだな」
「外交の範囲外ですからねぇ」
地球の言語はともかく、獣人の言語が分かれば楽しそうなのに――そう呟くと、東雲は調整してみましょうかと言ってきた。
「出来るのか」
「これに関しては全く自信が無いんですけどね。コピーとはいえ元が国宝級なもので、今とは全く違う魔法理論で作られているんです。賢者の時代よりも、もっと昔。むしろよく現代まで残っていたなーと」
「俺はそんなもんを見つけてコピーしたお前に感心するわ。本当に、どこにあったんだよ?」
ペンダントはシャツの中に隠している。襟元から引き出して鎖を外そうとしたが、金具の位置が見えない。手探りでなぞっていると、そのままでいいですよと止められた。
「この長さなら付けたままでいいです」
顔が近い。
何となく頭を横へ向けた方が作業しやすいだろうと、由利は庭を見た。藤紫色の瞳に首元を見つめられるのが恥ずかしいなど、欠片も思っていない。
しばらくペンダントをいじる気配の後に鎖がゆるんだ。東雲の調整が終わったのかと見上げると、駄目でしたと告げられる。
「資料が無さすぎて、どこに記述を追加すればいいのやら。そもそも知ってる魔法式を入れても正常に動かないだろうし……すぐには無理ですね」
「獣人が帰る方が早そうだよな。分かった。今まで通り通訳はお前とセルスラに任せるよ」
複製と改造は違う技術だ。言葉が理解できなくても、獣人が動きで気持ちを表してくれるため、おそらく意志の疎通はできている。絶対に必要な機能ではない。
「ついでにスカーフ結びますね」
適当に首にかけていたスカーフが巻き直されて、あるべき所に収まった。あんなに思い通りにならなかった布が、首から胸にかけて優雅に広がっている。由利は決して不器用ではないが、東雲と何かが違うらしい。
庭に視線を戻すと、走り回っていたネズミが二足歩行になっていた。大きさはネズミとほぼ同じで、少しだけ人間の容姿が混ざっている状態だ。
「東雲、あれって……」
「人間形態ですね」
「小さい」
「元がネズミですから。こちらの世界にも各地に妖精伝説があるんですが、人型になった獣人じゃないかって説が大半を占めてます」
「へえ……あれ? でもセルスラは竜になると、かなり大きかったよな?」
「竜とか幻獣種はまた別かと。どんな法則が働いているのか分かりませんが、この大きさが一番都合が良いんでしょうね」
獣人は落ち葉に隠れたり石の下にいる虫を追いかけたりと忙しい。もともと自然の中で暮らしていたため、庭で遊べることが嬉しいようだ。
「ケモナーが見たら大喜びですねぇ」
「あの光景を眺めた感想がそれか。大喜びって言うけど、ケモナーの中でも派閥が分かれているらしいぞ。こいつらは二足歩行の獣に近いから、人間寄りの獣人を好む層にはウケが悪いだろうな」
「由利さん詳しい」
東雲は疑いの目を向けてくるが、由利の趣味ではない。
「同級生がケモナーなんだ。美少女に獣の耳を生やしただけの生き物は、獣人とは認めないんだとさ」
「それは……そうですか。まあ、好みは人それぞれですからねぇ。由利さんだって、こっちに来るまではエルフ信者でしたし」
「夢を抱いていたことは確かだけど、信者じゃねえよ。いいんだよ、俺のことは」
使用人の一人が朝食の準備ができたことを告げに来た。由利はセルスラ達に声をかけて中へ入る。
「その前にセルスラ達は手を洗わないと」
「確かに汚れたのぅ」
洗われると聞いて逃げようとした獣人を捕まえ、由利は洗面所へ直行した。
道中のみならず洗っている最中に、いかに手洗いが重要なのか言って聞かせると、抵抗せず大人しくなる。どうやら理解してもらえたらしい。震えているのは、きっと水が冷たかったからだ。
「雑菌さんも恐ろしいのだ……」
「由利さん……この手の話題になると容赦ないですねぇ」
獣人の手をタオルで拭いていた東雲が言う。
もちろん妥協しても良いことがないからだが、やり方を改める必要はあるかもしれない。綺麗になった獣人を撫でて慰め、ようやく食卓へ向かった。
席に着く頃にはフェリクスとモニカも合流して和やかな朝食が始まった。約束通り獣人にはジャムを乗せたパンを与え、幸せそうにかじる彼らを観察する。食べ終わってくつろいでいると、部屋の外が騒がしくなった。
「朝早くに悪いな」
うんざりした顔の親衛隊長を引き連れ、ベルトランが乱入してきた。
「えっ……陛下?」
「あー聖女もいるのか。まあいい、ここで見聞きしたことは他言無用だ。いいな?」
「は、はい」
素の口調が露呈したベルトランは、開き直ってモニカを言いくるめる。ただでさえ緊張しているモニカは深く考えずに頷いた。
「いかがなさいましたか。ご用とあらば、いつでも城へ馳せ参じますが」
暗に家へ来るなよと告げるフェリクスは、立ち上がって君主を出迎えた。由利も遠回しに暇なのかと聞くと、さっさと潰したいだけだとベルトランが言った。
「酒の窃盗犯及び密売に関わっている連中の居場所が判明した。こっちにも事情があってな、今日を逃すと主犯に辿り着けん。力を貸してもらうぞ」
「ご随意に」
「子供らの救出も念頭に追いてくれるならの」
「そういう約束だったからね」
「いいねえ。腐った貴族どもに見習わせたい素直さじゃねえの」
ベルトランは満足げに頷き、獰猛な笑みを浮かべた。
「狩りの時間だ。俺の国を荒らす害虫どもを仕留めるぞ」




