雨と車と缶コーヒー
両刃の剣が翻り、太陽の光が鈍く反射した。
横薙ぎにされた剣は分厚い毛皮を易々と斬り裂き、赤黒い血を撒き散らす。額に一本の角を生やした熊が低い唸り声をあげて仰向けに倒れ、その胸元にとどめとばかりに剣が突き立てられた。熊の瞳から光が消えたのを見て、由利一成にも敵が死んだと分かった。
「大丈夫ですか? 由利さん」
熊に足をかけ剣を引き抜きながら、後輩の東雲美月が尋ねてきた。
「あ、ああ。大丈夫。助かったよ」
動揺を隠しながらそう言うと、東雲は照れくさそうに微笑みながら、剣を振って血糊を落とす。手慣れたような動作と表情の差が激しすぎる。丁寧に剣についた血糊を拭うところなんて、ただの会社員には見えない。
蚊以外殺したことありません、と言っても許されそうな清楚な外見だった彼女は、今や立派なスレイヤーだ。彼女の隠れファンの服部さんが見たら、ショックで倒れるかもしれない。会計課の要がいなくなったら会社が傾く。給料のためにも東雲の姿は秘密にしておこうと由利は決意した。
「良かった。どうやら警戒用のアラームを切ってたみたいで、気がつくのが遅れました。すいません」
動揺している由利に気付くことなく、東雲が辺りを警戒しながら言った。
「いや、俺もすっかり平和ボケしてた。ここが夢の中なんじゃないかって甘えたこと考えてたみたいだ」
「これだけ状況が変われば仕方ありませんよ。私だって寝て起きたら、いつものアパートにいるんじゃないかって思ってますから」
困ったような表情を浮かべる東雲は、どこからかナイフを取り出して熊を指差した。
「すぐに毛皮を剥ぎ取りますから、由利さんは休憩してて下さい」
「休むほど疲れてねぇよ。手伝おうか?」
「熊を解体したことありますか?」
「……大人しく待ってます」
その答えに満足したのか、東雲は爽やかに笑う。
――何でこんなことになったんだろうな。
手際よく熊の毛皮を剥ぐ東雲を見ながら、由利はため息をついた。
「やっぱり、色々とおかしくね?」
「いきなりどうしたんですか。ファンタジーな世界に飛ばされたんですから、モンスターぐらい出てきますよ」
「それは分かってる」
どういうわけか由利と東雲は異世界へ来てしまったらしい。自分たちに起きた変化や、襲いかかってきた魔獣を見て、ここが地球ではないと気づいた。日本で社畜をしていた二人だったが、巷にゲームやアニメが溢れる国に住んでいたお陰か、驚くほど冷静に状況を理解して行動できている。
もしかしたら正常化バイアスがかかっているだけかもしれないが。
「異世界に飛ばされたことも、お前によく分からん便利機能がついたことも、納得できなくても受け入れるしかないのは理解した。でもな! 何で外見どころか性別まで変わってんの!?」
東雲の手が止まった。
「……由利さん、いくら自分が超絶美少女に変わったからって、ショックを受けすぎでしょ。むしろ薄汚い山賊じゃなくてラッキー、ぐらいに思っておかないと」
「俺は男に変わってもすんなり受け入れてるお前に驚くわ!」
「町についたら裏通りは歩かないようにして下さいね。今の由利さんなら、喜んで襲ったり売り飛ばそうとする人が沢山いますから」
「異世界って怖い」
日本生まれ日本育ち。海外は旅行で数日滞在しただけという典型的日本人の由利にとって、このファンタジーな世界で生き残るのは少々――いやかなり厳しいようだ。
*
何度思い返しても、由利と東雲が異世界へ来ることになった原因に思い当たることはない。
その日は午前中から降り出した雨が、滝のように窓ガラスを流れ落ちていた。昼休みにコンビニへ出かけた同僚がずぶ濡れになっているのを見て、由利は心が沈んできたことを覚えている。後輩を連れて営業に出なければいけないのに、一向に止む気配がない。
「そんなに怖い顔しても雨は止みませんよ」
いつの間にか東雲が近くに来ていた。いつものように由利をからかいにきたようだ。入社して二年たつが、今だにスーツ姿が馴染んでいない。肩のあたりで切りそろえた黒髪に、色白で整った和風顔。身長も小柄かつ華奢。洗練された上品な仕草は絵に描いたような大和撫子だが、中身は休日のほとんどを引きこもってゲームをしているような残念美人だった。
東雲は手に持っていた缶コーヒーを見せ、どちらがいいですかと聞いてくる。
「部長からの差し入れです。ブラックとカフェオレですけど」
「好きな方を選んでいいぞ」
「じゃあカフェオレのほうをあげます。甘いコーヒーは好きじゃないんです」
東雲は肩にかけたカバンにブラックの缶を入れると、もう一つを由利に差し出した。
「部長が安全運転で行ってこいって言ってましたよ」
「俺はいつだって安全運転だろ。もし事故になったら、それは雨のせいだ。それより忘れ物はないか? 特にタブレットとか名刺とか」
「ちゃんと入れました。今から会いに行く担当さんって、厳しい人でしたっけ?」
「そうそう、だからいつも以上に気を使えよ」
由利は部長に声をかけ、コーヒーの礼と今から営業に出ることを伝えた。
東雲を連れて外へ出ると、雨はますます強さを増していた。梅雨独特の肌寒さと湿気がまとわりつく。
営業車を停めているのは、会社が入っているテナントビルの隣だ。傘をさしても濡れる足元に、うんざりしながら車に乗り込む。エンジンをかけると、クーラーからはカビ臭いにおいがした。
「今更なんだけど、昨日作ってた資料、タブレットに入ってる?」
「本当に今更ですね。それなら昨日のうちに入れましたよ」
助手席にいた東雲に聞くと、苦笑とともに答えが返ってきた。彼女はハンカチで濡れた肩を拭いていたが、カバンからタブレットを出してデータが入っているアプリを起動させた。
「問題ありません。由利さんが入れておいてくれって言ってたもの、全部入ってます」
「そっか。ありがとな」
駐車場から車を出し、狭い二車線の道路をしばらく走った。雨のせいで視界が悪く薄暗い。車のライトが水溜りに反射して、自分がどこを走っているのか分からなくなりそうだ。
苦労しながら幹線道路までたどり着き、右折待ちをしている車列に並んだ。いつも以上に混んでいるようだ。どこか遠くでパトカーのサイレンも鳴っている。事故でもあったのだろうか。
「由利さん、本当に会社を辞めるんですか?」
交差点で対向車が途切れるのを待っていると、東雲が話しかけてきた。
「ん? おう。辞めるよ。東雲と入れ替わりで退職した奴が会社を設立してさ。同期なんだけど。誘われたんだよ」
「やっぱり決心は変わりませんか。からかいやすい先輩がいなくなるのは残念です」
「……薄々感じてたけど、俺に対してだけ態度違うよな?」
「まさか。幸子先輩と同じで、同期の上、部長の下です」
「お前の心に対応マニュアルがあることだけは分かった」
良いのか悪いのかよく分からない。嫌われていないだけマシかと由利は無理やり納得した。
対向車は途切れる様子がなかった。信号が変わるまで待つしかないらしい。もらったカフェオレを手に取ると、缶についた結露で手が濡れた。由利は濡れた手でハンドルを握るのが嫌いだった。残念なことにハンカチはズボンのポケットの中だ。シートベルトをしているせいで取り出しにくい。無理に引っ張り出すしかないかと悩んでいると、状況を察した東雲がティッシュを差し出してくれた。
「そういえば由利さん、タブレットに知らないアプリが入っているんですけど、何かしました?」
「アプリ? ウイルス対策じゃねーの? 先週の朝礼で、セキュリティ担当がパソコンとタブレットのウイルスチェックするって言ってただろ」
「いえ、アイコンが魔法陣のやつで、セキュリティソフトとは違ってて。由利さんがゲームのアプリでも入れたのかと思ってたんですが」
「会社のタブレットにそんなもん入れるわけねぇだろ。削除しとけ」
「せめて確認してから言って下さいよ。仕方ないなぁ。代わりにチェックしますよ。ウイルスだったら責任とって下さいね」
「じゃあ放置で」
由利が缶のプルタブに指をかけようとしたところで、意識が途絶えた。直前に予兆があったわけでもない。映画のシーンが切り替わるように、瞬きした瞬間に知らない森の中に倒れていた。
広葉樹の木々の間から優しい光が差し込んでいる。むせそうなほど濃厚な草と土の匂いに目眩がしそうだった。全身に痛みと倦怠感はあるものの、動けないほどではない。体を起こすと顔についていたらしい枯葉が落ち、さらさらと長い黒髪が視界の端を隠した。
「良かった、目が覚めたんですね」
由利が自分の状況を疑問に思うよりも早く、若い男の声がした。それがこの世界での東雲との再会だった。
閲覧ありがとうございます
ブクマや評価、感想などいただけると励みになります




