リチウム
特に言うことはないので、読んでください。
――炭酸リチウム錠200「ヨシトミ」200mg。中枢神経に作用して気分の高揚を抑えます。通常、躁病および躁うつ病の躁状態の改善に用いられます。白色の錠剤、直径9.1mm、厚さ4.5mm。炭酸リチウム200mg、Lithium Carbonate 200mg、Y-LI200。――
副作用:勃起不全、性欲減退。
灰皿スタンドが置いてあるコンビニは今ほとんど絶滅に瀕していて、冬の寒い時期に缶コーヒーを買って空を見上げながら一服する、という行為が可能になる場所はもうあまりない。高田馬場の学生ローンやエスパスの攻撃的なネオンとは逆方向に歩き、ヴィジュアル系バンドの聖地、ライブハウス「AREA」の坂を右に下って真っ直ぐ行った先のコンビニ(ファミリーマートでも、ローソンでも、セブンイレブンでもなく、もはや東京都内で見かけることは絶無のポプラだ)は、それができた数少ない場所だ。今はコンビニが潰れて、謎のテナントになっている。タバコを吸える場所が一つなくなった、ただそれだけのことだ。
コーラと、牛乳パックと、菓子パン3個をレジに乱雑に放り投げる。
「ハイライト二つ」
ポプラにはタバコについている番号がない。置いてある銘柄も少ない。ハイライトは辛うじて置いてあった。
コンビニを出てすぐのところに、ご丁寧にベンチまで設えてある喫煙スペースがある。スペースと言っても、灰皿スタンドが無表情に立ってるだけなのだが。2月の中途半端な空気で、訳もなく不安になる。12月は年の瀬でめでたい。1月は年が明けてめでたい。じゃあ、2月は?寒いだけだ。短いことだけが救い。過度なカフェイン摂取は医者から禁じられていたので、好きなコーヒーを控えていたが、コーラだけはやめられなかった。強烈な炭酸、中毒的なカラメルの味わい、どれを取っても素晴らしい。世界で一番旨い飲み物だと思う(ペプシはクソ喰らえだが)。スタンドの前でタバコを咥えて、ペットボトルの蓋を開ける。何もない住宅街に、プシュ、という炭酸の快音が響く。火をつけてハイライトの濃い煙を吸い込み、寒さに震えながら冷たいコーラを飲む。たまらない。僕はタバコがないと何もできない体になっていたが、タバコが吸えるならあとはどうでもよくて、寒い中わざわざコンビニの外で震えながらコーラを飲むなんて到底意味のある行為とは言えないが、ニコチンを定期的に摂取しなければイライラして、不安になる。よくもまあこんなものが成人になったらとはいえ買えるようになっているものだ。
タバコをフィルターギリギリまで吸ったらスタンドで火を揉み消して、コンビニの裏路地に回る。部屋の番号は103。マンションのドアの鍵は左の尻ポケット。そう決めておかないと失くす。鍵を回して中に入る。
「ただいま」
返事が返ってこないので不思議がると、楓はベッドに突っ伏していた。スマートフォンからは音楽が流れっぱなしになっている。僕は、寝落ちができない体質だ。決められた薬を飲んで、部屋を暗くして、布団でうずくまって、意識が落ちるのを待つ。徹夜したとしても、気づいたら寝ているということはない。部屋の明かりはつけっぱなしで、どう見ても不自然な体勢でベッドに横たわっているというか、「突っ伏している」楓が、僕は若干うらやましくもあった。
「楓、楓」
体を揺すって起こすと、ん、ああ、宮原くん、帰ってきたんだ、と寝ぼけ眼で応えた。ご飯は食べてきたのかを聞かれたので、まだ食べてないと伝えると、私も食べてないから簡単なもの作るね、と言いながら台所に向かった。この場合の「簡単なもの」は決まっていて、鮭とえのきと小松菜をだしで雑に煮付けた名前のついてない料理と、粉末のポタージュ。3年近く同じものを食っているが、飽きるとか飽きないとかじゃなく、もはや我々の中ではそういうものだという認識になっていた。台所で料理をする楓の隣で、換気扇をつけてタバコを一本取り出す。
「宮原くん、ジッポ忘れていったでしょ」
「そうそう。わざわざコンビニで140円ぐらいのライター買っちゃったわ。アホくさ」
楓と付き合って間もない頃、ジッポを買った。ウイスキーのジャックダニエルのロゴがプリントされた、僕が持つには若干キザすぎるジッポ。確か6000円ぐらいだった気がするが、割高でも割安でもないといったところだ。オイルの臭いがタバコにつくのが好きで、買ってから3年間愛用している。ロゴは擦り切れてもはやジャックダニエルなのかなんなのか分からなくなっているが、オイルを注入したり、フリントを入れ替える作業は別に苦ではなかった。楓から受け取ったジッポでタバコの穂先を炙る。ハイライトのラムの香りとオイルの臭いが相まって絶妙な味わいだ。
「料理に灰が落ちないようにしてね」
楓は自分が料理を作っている横で呑気にタバコをふかしている男に対してさしたる感情を向けているようではなかった。僕は楓に下の名前で呼ばれたことがない。出会ったときから、付き合ってからも、宮原くん、と僕の苗字にくん付けで僕のことを呼ぶ。それが彼女なりの距離感なのだろう。僕は楓、と下の名前で呼んでいた。セックスの最中、お互いが苗字と名前で呼び合うことが滑稽に思われることもあったが、別にそれがどうという問題でもない。どうという問題でもないのである。
できた料理にいただきますをして、二人で食べる。テレビは、僕がクラシック音楽を好むのでNHKの「クラシック音楽館」の録画をいつも垂れ流しにしていた。うるさいバラエティとか、しかつめらしいドラマなんかよりこちらの方がよっぽどいい。録画していた「クラシック音楽館」の今日の曲目は、チャイコフスキーの交響曲第5番だった。食事中のBGMには若干しつこい気もするが、まあいいだろう。
「この指揮者、誰?」楓はクラシックに興味があった訳ではない。この番組を観ているときは詳しい僕に指揮者やピアニストの名前を聞くのが習慣だっただけだ。
「ウラディミール・フェドセーエフ。ロシア人。この人のチャイコフスキーは良いよ」と返した。フェドセーエフは来日公演でチャイコフスキーを聴きに行ったこともあるので、好きなのは間違いなかった。楓は、へえ、と返した。
「いつも思うけどさ、宮原くんって知らなかったり分からないジャンルってあるの?」
「あるよ。能とか歌舞伎とかは全然分からない。日本画も。西洋コンプレックスなんだろうな」
「私、宮原くんがクラシックとか哲学の話するたびに全然何も知らないんだなって思う」
別に知ったところでどうにもならないよ、と言いかけたが、言葉を飲み込んで、楓も僕の知らないことをいっぱい知ってるじゃん、と返した。本当に、どうにもならない。「教養」という言葉があるが、早くなくなってほしい。「教養」があるとか、ないとか、バカげている。大嫌いな言葉をあえて使うのならば僕は「教養」とやらがあって(!)、楓は「教養」がないのだろうが、ある僕は25にもなって働いていないし、ない楓は同い年でバリバリ稼いでいる。巷でよく言われているヒモというやつだが、僕はこうなったのは僕のせいじゃないということにしている。体が言うことを聞いてくれないのだ。楓との関係性も、水面下で、だんだんと、言うことを聞いてくれなくなってきている。
壊れる、という言葉がある。複数のパーツからなっているものの一部が機能しなくなることによって全体が機能しなくなるということだ。人生は、複数のパーツからなっているだろうか?フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは、生を時間の「持続」として捉え、分割できない「単純なもの」と呼んだ。本当に、ベルクソンの言う通りだろうか?僕は、僕の人生が「壊れた」、と思っている。19歳のとき、パニック障害を発症。それだけで済んでいたらよかったのかもしれないが、精神疾患というものは「寛解」と呼ばれる薬を飲まなくてよくなる状態(いわゆる「治った」というもの)のタイミングを見誤ると、発展して悪化する。僕の主治医は名医だったが、人なので、ミスはある。寛解を見誤って薬物投与を一旦中断してしまったのだ。そこから僕は「発展」し、双極性障害を抱えることになった。というわけで、明日の自分がどうなっているかまるで分からない。抑鬱が出れば何もできないし、躁状態に入ると電話をかけまくったり、酒を浴びるほど飲んだり、セックスの話を大声でべらべらと喋ったりする。僕の人生は、壊れてしまった。もう組みなおせないほどに。
となると、愛の問題は僕にとって重要だ。家族から歪んだ愛情をぶつけられた僕は、人にも歪んだ愛情をぶつけるようになった。楓がそうだ。外に出るときは手も繋げなくて、キスなんてもっての外で、でも家に帰ったら猿のようにベッドでまぐわっている。愛情の示し方も、示され方も、セックス以外に知らない。赤の他人から寄せられる愛は、壊れてしまった人生を組みなおせる最後のチャンスだ。「愛は新たに創造されなければならない」とはアルチュール・ランボーの詩にあるが、愛は創造されるものであると同時に創造するものでなくてはならない。それは新たな始まりであるかもしれないし、始まることによってゴール(終わり)が見えることもある。愛こそが、愛だけが、生きることの肯定になることだって、充分にある。さて、僕と楓はどうだろうか。愛によって創造し、創造されている関係性だろうか。そうは思えなかった。むしろ、タロット占いで切ったカードを左回りにかきまわすように、壊れた僕の人生に楓を巻き込んでかきまわしているような感じだった。楓は僕を組みなおす気はなかった。壊れた僕を見て安心していた。僕は楓の人生を壊そうとしていた。愛が、歪んでいた。始まりとしての愛ではなく、バッドエンドへ向かう愛。それは、愛か?僕は、愛という言葉をねじまげて捉えることによって、楓との3年間を無理やり認めようとしていた。恥ずかしい話である。
飯を二人で食い終わって、腹もくちくなった。テレビからはチャイコフスキーの5番の終楽章が流れている。楓は食器を片付けようとしたが、止めた。皿洗いぐらいはやらないと、という僕の最後の良心が訴えかけたのである。着替えて横になってな、と僕が言うと、分かった、と言って寝間着に着替えだした。3年も一緒にいると、着替えを見たところでどうということはない。楓は家にいるときは下半身は高校時代のジャージ、上はバンドTシャツを着ていた。マリリン・マンソンのTシャツが多かった。僕はマリリン・マンソンにさしたる思い入れはない。中学生のときに『アンチクライスト・スーパースター』を一時期ちょっと聴いてたとか、その程度のものだ。
換気扇をつけて、タバコを吸いながら皿を洗う。楓は飯の食い方が汚かった。大して良い家に生まれてなかったから、みたいな話をするのは倫理的にどうかという気もするが、楓の家はいわゆる成金で、なおかつ母親に遊び癖があって、どうやら不倫していたらしい。楓は右腕の上の方に無数の切り傷がある。不倫が発覚したときのショックを思い出すと、いてもたってもいられずカッターナイフで右腕を切る癖があった。鮭の骨にまだ食える肉がこびりついていたり、えのきを平気で4、5本残していたりする楓の育ちは、おおよそ察しがついた。「楓」とはいかにも高貴そうな名前だが、なかなか名前の通りに育たないものだ。皮肉なことに。僕は飯の食い方だけは綺麗だったが、箸の持ち方がめちゃくちゃだった。僕は家庭に表立った問題はなかったし、自傷癖もなかったが、箸の持ち方は僕が家で飯を食っていると母親がため息をつきながら、ちゃんと教えとけばよかったねえ、と口癖のように言ったものだった。たかが飯の食い方だが、されど飯の食い方である。育ちや、家庭が出る。楓が僕にかきまわされるのをよしとしているのは、不倫していた母親への復讐なのかもしれない。楓はそうとは気づいていないのが、また、なんというか、かなしみもある。
皿を洗い終えた僕は、そういえば楓はシャワーを浴びたのかが気にかかった。声をかけようと思って振り向いたら、ごそごそとタオルを取り出していた。僕が心配するまでもなかった。
シャワーを浴びる順番は、決まって楓が先だ。狭い浴室だから当たり前だが、一緒に風呂に入ったことなどない。楓の家の浴室は汚かった。長い髪が排水溝に詰まって常にブクブク言っており、掃除は僕の役目だった。また、湯船にも浸からないので浴槽はカビなんだかよく分からないものがこびりついていて、自律神経が狂っていて定期的に湯船に浸からなければならない僕はこれが我慢ならず、楓が働きに行っている最中これを必死に洗剤で落としていたら一日が終わっていたこともある。楓がシャワーを浴びているときは台所で換気扇を回してタバコを吸いながら本を読むのがルーティンだった。そのとき読んでいたのはマルクスの『経済学・哲学草稿』。『ドイツ・イデオロギー』はなんとなくかっこいいで読めたが、岩波のマルクスの訳は古くて読みづらい。この本は第一部がリカードやスミスといった古典経済学者たちの引用とそれに対する批判だが、正直第三部終わり辺りのヘーゲル『精神現象学』への批判が最もエキサイティングで面白い。ヘーゲルを知らなかったとしても面白いだろう。退屈な第一部をめくるのに飽きたら、本の終わりの方を読むのがこの本の楽しみ方だと思っていた。通読したはずだが、第一部と第二部は覚えていない。当然、『資本論』も読んでいない。
楓がシャワーを浴び終えた。僕は本を閉じて、着替えを持って浴室に向かった。
僕がシャワーを浴び終えると、楓はベッドにくつろぎながら、スマートフォンでYoutubeを観ていた。彼女の好きなバンドだったが、楓が僕のクラシック音楽に一応興味を示してみせるのに対して、僕は楓がどういう音楽を聴いているのか、さして興味もなかった。が、一応一緒に寝そべりながら一緒にスマートフォンの画面をのぞき込んだ。正直、あんまり面白いとは思わなかった。
「さっき楓は僕がなんでも知ってるみたいなこと言ったけど、僕はこういうのあんまり分からないな」
「えー、いいじゃん」
とはいえ、こういう時間が楽しいものだ。ベッドの上ですることは、セックスばかりではない(セックスと睡眠が最も重要なのは承知の上で)。こういう瞬間に愛とやらを感じることに、僕は何故か罪悪感があった。つながっていなければ、不安だった。何気ないおしゃべりとか、空気感の共有とか、そういったものを楽しむ資格が、僕にはないと思った。
鬱病(双極性障害を含む)の人にありがちな感情として、過度な自罰感というものがある。僕は、こういうとき、つまり恋人と一緒にいて楽しいとか幸せだとかいう感情を持つたびに、生まれてこなければよかったと思うことがある。この人が、いつか自分のものでなくなってしまうことがちらちらと見える感じがして、お腹の底が急激に冷え込んでいくのだ。「お腹の底が急激に冷え込む」という感覚は悪い兆候で、こうなるとバッド、いわゆる抑鬱状態に入りやすくなる。不安(不安というのは世間一般でよく使われる言葉だが、精神病理学の分野でも専門用語として不安――英語で言えばAnxiety――というのがある)が急激に押し寄せてきて、自分は「失敗作」だった、世界の吐いたエラーメッセージだった、としか思えなくなる瞬間がやってくる。こうなるともう、手に負えない。時間帯で言えば、朝と夜が勝負だ。僕の処方箋で朝飲む薬はないから、朝の抑鬱は耐えられないほどしんどい。特に寒い時期ならなおさらだ。そういうときは、温かい牛乳にはちみつを混ぜて、菓子パン(菓子パンというのは不思議な食べ物で、味がするのに味がしなくてカロリーだけ高いという、コンビニで買える最も奇妙な商品だ)をひたすら時間をかけて噛む。コーヒーが飲めない(カフェインは神経に障るのだ。コーラは我慢できないが)から甘くて暖かい牛乳を飲む。菓子パン3個を食べ終えたら、残っている牛乳と一緒に、タバコを一本。火をつけて煙を肺に入れた瞬間、朝のどうしようもない気分と不安感が劇的にやわらぐのを感じる。これが重要なのだ。これさえできれば、一日をうまく過ごせる。タバコは、僕には生きていく上で絶対に欠かせないものになっていた。ニコチンは最高の合法的なドラッグである。
話を戻そう。横で楽しそうにスマートフォンを見ている楓をよそに、僕の不安は急速に体全体を蝕んでいった。動けなくなる前にやらなければならないことがある。台所に行って換気扇をつけてタバコを吸う。ホットミルクを作ろうと思ったが、それはできないことが分かっていた。ニコチンを脳に行きわたらせて、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。タバコの火を消して、バッグからビニール袋に入った薬を取り出す。コップに水を汲んで、ベッドにいる楓の側に座り、錠剤を一つ一つ置いていく。楓は、こうなったときの僕を助けてくれない。触れないのが一番良いと思っているのだ。
すると、楓がこちらを見た。
「宮原くんの飲んでるその薬、他の薬より粒が大きいよね。それがメインなんだっけ」
「あ、ああ、リチウム?そう、これが一番効くんだ。これを飲めば大丈夫だ」
リチウムは、リーマスとも呼ばれ、特に双極性障害の患者が服用する薬だ。ドーパミンとセロトニンのバランスを調整し、「双極性障害のゴールデンスタンダード」という二つ名もある。僕はリチウムを寝る前に4錠飲まなければならないが、リチウムを飲んでいる患者は定期的に血液検査を行い、血中濃度を測らなければならない。理由は「リチウム中毒」という副作用を防ぐため。悪寒、手の震え、嘔吐、下痢などの症状を示す場合がある。オーバードーズ目的で100個とか一気に飲めば、最悪の気分で死ぬことができる。リチウムは、粒が大きく、変にしょっぱくて、苦くて、まずい。飲むのが辛いが、飲まなければ正気を失う。
楓と僕はいつも同じベッドで寝ている。僕はベッドの壁際で楓の方を向いてうずくまっていた。楓もこちらを見ていた。キスしてほしい。僕の体に触ってほしい。こんな状態でもなければ、セックスの始まりを言葉なしに告げるのは僕からだった。楓は何もしなかった割に、僕とのセックスが好きだった。それでも、今日は、楓から来てほしいと思った。
「楓」
「何?」
「お願いだから、キスしてくれ。嘘でもいいから、愛していると言ってくれ」
楓は、僕にキスをした。舌まで入れてきた。普段のお返しと言わんばかりのキスだった。愛しているとは言わなかった。楓は、3年間で一度として僕に「愛している」と言ったことはない。僕がどんなに抑鬱で苦しんでも、パニック発作を起こして気を失いかけても、頑なに「愛している」の言葉だけを拒んだ。
「楓、お願いだ、嘘でもいいから、愛していると、僕だけを愛していると今だけは言ってくれ」
「……言いたくない。言ったら、嘘だから」
僕は矢も楯もたまらず、楓の上に乗った。顔中を舐めまわすようにキスをした。楓の華奢な体を全身で締めあげ、爪を立てた。愛しているのに、愛しているのに、なんで、なんで、僕を不安にさせるの、楓、と言いながら、楓の首筋を噛んだ。今すぐセックスしたい。楓が僕を求めていると知って安心したい。しかし、僕のものはうんともすんとも言わない。リチウムを飲んでいるからだ。副作用の「性欲減退」だけ、僕には見られなかった。ただただ、ものが立たなかった。僕は楓の服を全部ひん剥いた挙句、到底人に言えないようなことをした。楓は抵抗しなかった。それでも、ダメだった。これは、珍しい夜ではなかった。よくあることだった。楓と僕の、3年間の、よくある夜。
僕がひとしきり暴れまわったあと、楓は静かに外出用の服を着出した。
「何してんの」
「話したいことあるから、ちょっと歩こうよ。ポプラの向こうのセブンまで、ちょっと距離あるでしょ」
何のことか分からないまま、僕は了承した。落ち着くためにタバコを一本吸った。
2月の深夜は、刺すように寒かった。楓と僕は、いつものように、手をつながないで、一定の距離を保って歩いた。楓が何を言いたいのか、僕は計りかねていた。ポプラで二人分の温かい飲み物を買った。楓もコーヒーが飲めなかったので、ホットカルピスの小さいやつを買った。会計はもちろん楓だった(コーラも、菓子パンも、牛乳も、タバコも、全部楓の金で買っていた)。楓は、ポプラの外の灰皿スタンドで、滅多に吸わないタバコを取り出し、火をつけた。今でも楓の銘柄は覚えている、マルボロの6mg。「金マル」の俗称がある。火をつけたライターは、楓の誕生日にあげたサロメというブランドのライターだ。ホットカルピスを飲みながら金マルを吸う楓を見て、僕はなんとなく楓の「話したいこと」を察した。
「この辺に、川あったよね。小さい川」
「ああ、銭湯行った帰りによく通るね」
「あそこ行こっか」
僕は、リチウムが効いてきたのか、タバコのおかげなのか、ほどよい眠気と落ち着きを取り戻していた。手もつなげない3年間の歪んだ関係性が、今から決定的に変わるという予感だけがあった。
ここの川は、名前が分からない。恐らく神田川なのだろうが、神田川にしては小さい。パニック発作が起こって、楓の家で暴れまわって過呼吸寸前の状態になった後、落ち着きたいときは、よくこの川に来た。実家の近くにも、川がある。水の流れを見ると癒されるというのは、恐らく人間の本能なのだろう。楓の家の風呂掃除がめんどくさいときによく使っていた銭湯からの帰りも、この川を見ながらタバコを吸った。何があっても、何もなくても、この川に来た。意味もなく空が白むまで川辺でぼんやりしていたこともある。楓と僕は、川を見ながら、橋にもたれかかって、同じタイミングでタバコを取り出し、同じタイミングで火をつけた。
「宮原くん」
「何?」
「宮原くんは、私のこと好き?」
「好きだよ。本当に好き」
「私も宮原くんのこと、好きだよ」
重い沈黙が流れた。
「でもね、多分愛してないと思う。3年間一緒にいたけど、宮原くんに愛されてるって思ったこと、一回もない」
僕はうろたえた。楓のことを一番――もしかしたら彼女の母親以上に――愛しているのは僕だという自信があった。それは多少、多少というかかなり、歪んでいても、愛だと僕は思っていた。
「なんで……なんで。愛してるよ。本当に愛してる。楓がいないと生きていけないよ」
「なんで私が、一回も、ただの一回も君に向けて愛してるって言わなかったか、考えてみたことある?」
「それは……楓が……僕のことを愛してないから……」
「この人は、私を自分のものにしたいだけだって思ったからだよ。宮原くんのこと本当に好きだったけど、でもね。3年間で変わるかなって思ったけど、変わらなかった」
僕は何も言えなかった。その通りだと思った。全て見透かされていた気持ちがして、猛然と恥ずかしくなった。
「……ごめん」
「謝られるのも、なんか違うな。もう、終わりにしようよ。どのみち長くは続かないと思ってたし、なんか、疲れちゃった」
楓が言ったことが全てだった。この歪んだ関係に、どちらかが終止符を打たなければならないことだけは確実だった。僕は、この人のために何かをしてあげられただろうか、何もしてこなかった。楓が僕にしてくれないと思っていたことは全て、僕が楓にしてあげられなかったことだった。ギブアンドテイクとはよく言ったもので、ずっと僕はテイクで、ギブがなかった。ただただ、楓を自分だけのものにしたいという一心で、彼女の家に転がり込んでは、病的にセックスに溺れたのだ。時折、リチウムで思い通りにならないながらも。どうにもならないことだけが、覆りようのないことだけが確実だった。
「……分かった。話はそれ?」
「うん。聞いてくれてありがとう」
この川から、彼女の家まで戻る道を歩くのが、最後になるのは確実だった。この街を離れなければならないことも。最後に、できなかったことをしたい、と思った。
「手、つないでいい?」
「うん」
3年間付き合って、楓と僕は、初めて手をつないだ。あたたかくて、柔らかかった。女の人の手のひらの感触を初めて知った。二人で、何も喋らず、2月の寒い高田馬場の裏路地を、ただただ、歩いていった。
愛が始まるのは、どのようにしてかという話は、結論が出ない。どんな始まり方でもいい。駅のホームですれ違って、とか、インターネット越しに、とか、まあ色々ある。肝心なのは、愛が始まる瞬間がある、ということだ。それだけは、信じなくてはいけない。愛の始まりを信じていれば、壊れてしまった人生が再稼働する可能性があり、愛に賭けるということは、この生に賭けるということだ。そして、愛が始まる瞬間を信じることと同じくらい、愛が「正しく」持続することは重要だ。この僕の話は、正しくなかった愛の持続。正しくなければ愛は持続しない。何をもって正しいとするかは、二人の問題であり、それは最小単位の倫理である。アンドレ・ブルトンは、多くの人々は人生の過失を愛に負わせたくなってしまう、なぜなら愛に人生を賭けていたから、と『狂気の愛』の中で述べている。ブルトンの指摘を真に受けるかどうかは、その人がどんな恋愛をしてきたかによるだろうが、少なくとも僕は楓との関係を「人生の過失を愛に負わせた」ものだと、今になって思う。もう、あのポプラはない。楓は、引っ越しているかもしれない。そして僕は、新たな、全く新たな愛を始めようとしている。リチウムのように、しょっぱくて、苦い錠剤のような愛が、確かにあった。しかし、ここでランボーのあの言葉を、今一度思い起こそう。
「愛は、新たに創造されなければならない」
この物語は事実が元になっていますが全てが事実ではありません。ただ、書き手である私の極めて重要な一部分をなしており、ある意味ではこの作品に賭けています。この一万字を読んでくれた方がいれば、満腔の感謝を捧げます。今後も恋愛について何か書けたらいいなと思っています。ありがとうございました。