花売
城を出て川を下流の方に伝って歩き、門を超えて橋を渡る。
活気に満ちた都の汚点と言われる貧民街では、暴力、略奪、売春が日夜に行われている。
時には貴族が一時的な欲求を発散するために金や暴力で奴隷民の娘らを拐かす。
そんな悪事に満ちた希望のない街並みが、幼い頃の記憶の呼び水となる。
地方領主の父と貴族の出の母。
誰から見ても政略結婚であった。
父は領主ではあったが、貴族ではなく民衆に近しい立場の者を近くに置き、領主というよりは領地の代表のような人物だったらしい。
母は中流貴族の一門であり、結婚してからも都を離れずずっと貴族として在り続けた。
私が幼い頃、オルランドと遊んでばかりだったことに癇癪を起こしたり、貴族として振る舞うための教養をひたすら叩き込まれた日を思い返す。
私は領主となった今でも、母のお小言を無視し、この街を何食わぬ顔で歩いている。
最高の部下であり友であるオルランド。
盗みと逃げ足で一番だったシモン。
男勝りで快活なカサンドラ。
いつも何かに怯えていたウベル。
古い友に想いを馳せ、ゆっくり今の街並みを見る。
ただ、誰もが誰も私の顔を見ては、頭を低くしこちらを窺っていた。
立場が変われば扱いが変わる。当たり前の話だが、私は立場上領主であり、領主は貴族である。
ふと、細路の奥に揺らいだ黒い髪に気を取られる。
その髪に引かれる様に、私は街の闇のなかに足を踏み入れた。
「カサンドラ!カサンドラじゃないか。」
その黒髪が闇に溶けてしまわないように、私は脳裏によぎった名前を呼んだ。
黒い髪がふっと揺らめき、その中から煤けた肌が覗いた。
「どなた様でしょうか。」
抑揚の無い声で問いかける。
「レオだ。昔よく遊んだレオだ。覚えてるか。」
「レオ、あぁ、領主様になった、レオ。」
思い出したような口振りから、私は安堵の息をつく。
「領主様が、この様な街、この様な女に何か御用でしょうか。」
カサンドラは感情の見えない瞳で私に問い掛ける。
「友達に声を掛けるのに、わざわざ用事が必要か。」
私は彼女に投げ掛けた。
彼女は僅かに眉を寄せ、ゆっくり目を閉じて告げた。
「貴方の友であったカサンドラは死に、私の友であった少年レオは旅立ちました。貴族がこの街に来る意味を、女に話しかける意味を、どうか察してください。」
静かに、しかし怒りを込められた彼女の返答に、胸が引き裂かれそうになる。
「それとも、貴方様もお花を買いに来たのですか。」
身体を少し屈め、胸元に手を当てた彼女は妖しく笑う。
一時の沈黙の後、彼女はゆっくり微笑みこう続けた。
「ごめんな。こうしなきゃ生きてけなかったんだ。どんなに強がったって男には勝てないし、オルランドみたいに傭兵にすらなれない。
父は戦争で死んで、母はもう年で、妹はまだ十三。
私が、奴隷民の女が稼ぐにはこれしかなかったんだ。」
沈痛な面持ちで、それでも無理に笑いカサンドラは口を開いた。
「もし、あんたが花を買ってくれるなら、今後も私を見付けたら呼んでくれ。
そのつもりがないのなら、どうかそっとして。産まれながら貴族のあんたと、永遠にこの救いの無い街に囚われる私。
今なら分かる。あんたの母親は正しかったってさ。」
「分かった。」
私の言葉を聞き、カサンドラは踵を返した。
「ならば、買わせて貰おう。」
カサンドラは背中を向けたまま、足を止めた。
私は東方由来の革袋を彼女の足元に投げ出した。それを彼女は開き、目を見開いて数を数えた。
「二、四、六、銀貨六枚と銅貨十五枚。これだけあったら一時食い扶持に困ることは無い。こんなにいいのかい。私は銅貨二枚程度の価値しかないよ。」
彼女の問いに間を置いて答える。
「何を言っている。銅貨2枚はお前の花とやらの値打ちだろう。私は花ではなくお前を買いたいと言っている。」
彼女は意味がわからないのか、しどろもどろになりながら言葉に詰まっている。
「あ、別に妻になれとかじゃないからな。男より女の方が向いてる役割が有るだけだ。」
彼女は歯を見せて笑い、たどたどしく敬服の礼を真似して見せた。
登場人物紹介
カサンドラ
22歳
レオの幼い頃からの友人。気が強く明るい娘だったが、家庭環境と貧民街の現実に心が折られた。
レオに家族ごと召し抱えられ、密偵として仕える。
現代的に言えばバツイチ。