死線
明け方の盆地は昨晩の雨を受け、白く深いカーテンの中に包まれている様だった。
私は兵達を鼓舞し、深い霧の中を静かに進んで行く。
八百の手勢は私を先頭に、偃月の陣を敷いてゆっくり、一寸先さえ見えない未明の野を進む。
幾分か歩いた先に、浅い柵が連なっているのが見えた。
奇襲ならばここで鬨の声をあげるのだろうが、静かに、姿勢を一段と低くして柵を進んでいった。
「敵襲ー!敵襲ー!」
怒号が鳴り響く。当然見張りはいるし、見付かるのは折り込み済みだったが、いざ見付かると心臓は止まりそうになった。
「進めぇ!進めぇ!」
秋の未明に鬨の声があがり、退路を無くした獣が一心不乱に突き進む。
私はその先陣に立ち、部下の標となるために全力で駆け抜ける。
予想した通り、彼らはこれほど深い霧を警戒してなかったのか、柵を越えるまではそこまでの妨害は受けずに済んだ。
この分ならば、騎兵の追撃も恐れることなく進めそうだ。
柵を越え、敵方の防衛の要、山道を覆うような兵舎の連なる丘を駆け上がる。
万全なら五千の将兵で固められていても、未明にこの霧という状況を加えれば或いは、そう期待して、一寸先さえ見えない中を走る。
流石に兵舎では幾百の兵士が隊列を敷き、私達の行方を阻まんと次々列に加わっていく。
「進め!進め!進めぇ!」
もはや我々に退路は無く、ただ進むしか生き残る道は無い。故に我々に迷いはなかった。
偃月の陣のまま手槍を水平に構え猛進する。
誰かの叫ぶ。誰がの血飛沫が霧を朱に染める。
「進め!進め!」
誰かが吼える。誰かの武器が頬を掠める。
「私は此処だ!私に続け!」
槍を突き出した形で走り抜ける。
誰かに掴まれそうになる。誰かの血が頬の傷を濡らす。
無我夢中で走り抜け、山間の細い道に着くまでにさほど時間はかからなかった。
「走れ!走れないものは殿を務めよ。一人でも多く生きて帰れ!」
深い霧の中を、経験と感覚で走り抜ける。
前後さえ不覚になりながら鎧を端に投げ捨てる。
ふと見上げると、日が昇っているのに気が付いた。後ろから走ってくる兵士達を再編成し、敵の追撃に備える。
「追っ手の姿は現在発見出来ません!」
「当方、現在二百五十余の兵士が生き延びました。」
生き長らえたからか、友を亡くしたからか、涙を流す者もいた。片腕を無くしながらも全力で生き延びた者もいた。
戦場は初めてでは無かった私だが、この日初めて総指揮官という職務の重さを噛み締めた。
「諸君、この難しい局面を良く戦ってくれた。ありがとう。
だが、まだ安心してはならない。追撃がくる前に本国に通じる道を破壊し、奴等の侵略を防がねばならない。負傷者を手当てせねばならない。今回亡くした我々の友人の供養をせねばならない。
故に、まだ我々は死んではならない。」
私の言葉に静かに頷く兵士達を見て、続ける。
「この先に橋があるのは皆も周知である。その橋を渡り、破壊する。そこまでして一時休憩とする。」
兵士達は疲弊した体に鞭を打ち、私の言葉に従った。
橋を渡りきり火を掛け、川のほとりにいた二人に声をかける。
「オルランド、エリア!よく無事でいてくれた!」
目が潤んでると自覚しながら、二人の元に駆け寄った。
「指揮官殿、見事な采配で御座います。」
彼は積み荷を船から降ろす手を止め、らしくない敬礼をした。
「社交辞令はいい。怪我人の手当てと食料を優先してくれ。」
「了。」
オルランドは積みうる資材と食料を積んで、エリアと共に川を下らせていた。川と陸路の交差点であるこの橋の手前のほとりを合流地点とし、行動させていたのだ。
一息入れると緊張の糸が切れたのか、無性に喉が乾いた。自分の兜を地面から拾い、川の水を兜に掬い上げ火を掛けた。
「几帳面な事を為さるのですね。」
エリアは笑いかける。
「何が几帳面か。本当に几帳面なら果実を探すかもう少し綺麗な器を探すわ!」
ふふっと笑い返すエリアを見て、少しだけ心が晴れやかになるのを感じた。
「確認だけさせてくれ。本当にあの内容の奇跡は起きるのか?」
エリアはいたずらな笑みを浮かべ一言。
「貴方が本国に帰りつく前には証明できるかと。」
多少訝しさは残るものの、少なくとも部隊の全滅は逃れ、寡兵でありながら大軍の追撃を絶ち切った事は確かなので、縛り首は無いなと胸を撫で下ろした。
~
負傷者の手当ても済み、本国の首都アルセイユまで行動を開始した。
およそ一週間の行軍となったが、幸いにしてこの兵力にわざわざ立ち向かう賊も無く、オルランド達が輸送した食料もなんとか足り、意外と穏やかな退路となった。
谷間の川が氾濫してるのを横目に、エリアが私に栄光を授けに来たと言ったのを思い出した。
寡兵でのこの戦果を上層部がどうとるかは分からないが、何故か次があることを確信している私がいた。