5、領都にて
アンドロフ伯爵領は雪に閉ざされた辺境である。北のシルヴァ山脈からの吹き下ろしは冷たく、それは伯爵の住まう領都ニコラシカも例外ではなかった。住民たちは常に寒さとの戦いを強いられている。
一年を通して雪に囲まれた環境では農作物は育ちにくい。街の経済を支えているのは専ら採掘業であった。
幸い東の鉱山から取れるミスリルは量も質も素晴らしく、ニコラシカを通じて王都へも出荷されている。
しかし隣国との国境に位置しているため、常に目を光らせておく必要があった。
先の戦争で功を挙げた伯爵にとって、国王より承ったこの土地は誇りである。と、同時に悩みの種でもあり、日頃より複雑な気持ちを抱いていた。
「本日の警備報告も、特に異常は見られないか」
目を通した書類をまとめ、政務机の隅に置くと、領主であるセルゲイ=アンドロフ伯爵は大きく伸びをした。黒革を張った椅子が軋んで音を立てる。
政務室の窓越しから入る日差しが顔に掛かる。思わず外を見やると通りを2、3人の子供が駆けて行くのが見えた。伯爵はシワの刻まれた目元を優しく細める。
(少し休憩するかな。午後からは雪だと聞いていたが、最近のソーニャの占いはどうにもアテにならん。ヤツも歳だな)
コンコンと扉がノックされる。伯爵が許可を出すと、しずしずとした動作で、一人の少女が入室してきた。
2つに縛り、腰まで下ろした長い金髪。長い睫毛に、整った鼻筋はまるで精巧に作られた人形のようであった。伯爵の一人娘であるフェズライアである。
彼女の手にしたティーセットを見て、伯爵は笑顔で応える。
「そろそろ休憩の時間と思い、お茶をお持ちいたしました。」
「やぁフェズ、いつも悪いね。本来なら侍女にさせる仕事なのに」
「まぁ。お義父様は意地の悪い」
言葉とは裏腹に、フェズは微笑みながらカップの用意を進める。
「おそばに居られるだけで、フェズは幸せでございます」
「ハハハハ。それならばおあいこだな。ワシもお前のような娘を持てて幸せ者だ」
伯爵は入れたての紅茶に口をつける。多忙な執務の合間に好みの紅茶を淹れるのはフェズの日課であり、ささやかな楽しみであった。
伯爵の方でも、血の繋がりは無いとはいえ、愛娘とのたわいもない会話を常に大事にしていた。
しかし、今日は些か様子が異なるようだ。
「お義父様、実はソーニャが来ております」
「うん?」
ソーニャは王都より遣わされた、伯爵付きの魔法使いである。占術や魔素の流れを見ることに長けており、軍人上がりの伯爵も領地を治めるにあたって、彼女の助言に耳を傾けてきた。謂わば恩人である。
魔法に適した土地だとかで屋敷とは別の場所に工房を構えており、用があればその都度、伯爵の方が出向いていた。
その彼女が事前の連絡も無しに来るなど初めてのことだ。
「分かった。すぐに通してくれ」
伯爵の声に若干の焦りの色が浮かぶ。
フェズは一礼すると退室し、すぐに黒いローブを着た老婆と戻ってきた。
皺くちゃの顔に曲がった腰。片足が不自由なのか、節の目立った木の杖を手にしている。
「これはセルゲイ様、ご機嫌麗しゅう」
挨拶を済ませて来客用のソファに腰をかける。フードを取ると大きく突き出した鷲鼻が露わになった。
「それでは、私は失礼します」
「その必要はないよ、フェズ。ソーニャも、それで構わないだろう?」
普段なら足を運ばない魔法使いが、館の中にいる。事の重大さを察して席を外そうとするフェズを、伯爵は引き止めた。娘も今年で17になる。些か不穏な事態ではあるが、後のためにも政務に関わらせるべきだと考えた。
「フヒヒッ。もちろん構いませんよ。領民の安全にも関わってきますゆえ、是非ともフェズライア様にも同席をば……」
ソーニャは捻れた唇を釣り上げる。訳知り顔で思わせぶりなことを口にするのは、伯爵もよく知る老婆の悪癖だ。なので此度も無視して話を進める。
「して魔法使いよ、老体に鞭打って屋敷まで来られるとは、よほど急ぎの事態なのだろう?」
「そうですなぁ、今しがた龍脈に変化がございました故、セルゲイ様の耳にすぐにでもと」
伯爵の眉がピクリと動いた。
魔法に疎い身ではあるが、それでも龍脈の重要性については領主として重々承知していた。国家間で災害指定されている龍王の存在はもとより、魔素の多寡によって領内の魔物の活動状況も変わってくるからだ。
領内には龍脈は一つしか存在しない。
「シルヴァ山か」
「左様でございます」
北の霊峰、シルヴァ山脈。人々の生活圏からは離れているとはいえ、場合によっては至急手を打たねばない。
顔にこそ出さないが、伯爵は自分の手の平が汗ばんでいることに気がついた。対照的に、ソーニャはあくまでマイペースに話を進める。
「ここ数日の間に、山の魔素が一点を中心に収束をしておりました。
思えば周期的にもそろそろな頃合い。その反面で非常に心苦しくもあり、老いた我が身を嘆くばかりでございます」
「……ソーニャ。要点だけを説明してくれないかしら?」
「フヒヒッ。申し訳ございません、フェズライア様」
老婆のペースをピシャリと止めた愛娘に、伯爵はニヤリと笑みを浮かべた。
「生け贄の儀でございます、御二方。数年に一度、山の中腹の村から生け贄の巫女を精龍王に捧げる儀式」
伯爵とフェズは顔を曇らせる。
領主となって7年、その恐ろしい悪習を耳するのは初めてではない。もちろん無辜の民が犠牲になる現状を変えたいとは願っている。しかし相手は霊験あらたかなる地を統べる龍王、人里に顔を出す魔物を駆除するのとわけが違う。
戦後の復興を優先しなければならない状況もあって、不本意ながら放置するほかなかった。
無力感が腹の底から込み上げてくる。伯爵は顔をしかめつつも、魔法使いが龍王について言及した理由について思案した。そして最悪の考えが頭をよぎる。
「まさか、その儀式で予期せぬ事態が起きたのではあるまいな? 例えば何かの手違いで、龍王の怒りを買ったとか」
伯爵の言葉に、隣で聴いていたフェズが表情を凍らせる。
生け贄を求め、自然災害と同等に扱われる怪物。それがもし怒りのままに山から現れては街はひとたまりも無いだろう。食い止められなければ領内のみならず、王国本土にも甚大な被害を及ぼすかもしれない。
しかし魔法使いは首を横に振った。
「その可能性は低いかと。むしろ逆、龍王と思わしき反応が消えたのでございます」
「なんだと?」
「それは、儀式が無事に終わったのではなくて?」
「いいえ。生け贄を取り込んだ龍王は、消化のためか数日の間はその場から動くことはございません。此度のように、姿を現してから数時間で消えるのは異例でございます」
「ならば魔法使いよ。お主はシルヴァ山で何が起きたと推測する?」
腕を組んで尋ねる伯爵を前に、老婆は初めて困ったような顔を見せた。
「今になって精龍王が儀式を取りやめるとは思えませぬ。となると答えは一つ、何者かが討ち倒したに他なりません」
伯爵と愛娘は互いに目を丸くして顔を見合わせた。
その様子を見て老婆はローブの袖で顔を覆う。自分で口にしておきながらも、荒唐無稽の絵空事だと理解していたからだ。
「ううむ、分かった。ソーニャよ、急ぎの知らせ感謝する。今後とも領内の発展に力を貸してくれ。
フェズ、すぐにシルヴァ山に衛士を送る。適任と思う者を手配してくれ。ともかく今は情報が欲しい」
「畏まりましたお義父様。ではソーニャ、こちらに」
「フヒヒッ。ありがとうございますフェズライア様。それと今回の件で山の魔物がしばらく騒ぐかと思います。街の警戒を強めるようにして下さいませ」
「分かったわ、衛士の皆に伝えておきます」
フェズはそっと老婆の肩を抱くと「失礼します」と告げて部屋を後にした。残された伯爵は大きく息を吐くと天井を眺める。
「突如現れ、突如消えた龍……か。討伐した英雄も記録にはあるが、はてさて」
木目は何も答えてくれない。
ただ、伯爵の新たな悩みが増えたことだけは確かだった。