2、生け贄の巫女
バレンノ王国アンドロフ伯爵領。その北端のシルヴァ山脈の洞窟は、緊迫した空気に満ちていた。
近隣住民から洞窟と呼ばれてはいるが、それは入り口の部分のみ。中を進むとすぐに拓けた場所に出る。そこは山肌が抉れて陥没しており、穴の空いた天井からは太陽の光が降り注いでいた。さながら自然の作り出した劇場のステージといえる。
寒冷地でありながらも日差しは強く、風が無ければ充分に暖かい。水晶の成分を多く含んだ岩壁が光を反射させ、幻想的な空間を作り上げていた。
吹き抜けになった舞台の中央。山なりに突き出た水晶の頂に、1人の少女が立っている。歳は10代半ば頃。青みがかった銀髪を腰まで伸ばし、憂いを帯びた瞳で天を見上げていた。
そこで突然、少女の全身が一際大きく輝きはじめた。少女だけではない、拓けた広場そのものが光に包まれた。
空から現れたのは他でもない。この山の主、精龍王 エル=カサンドラである。透き通るような身体は陽光を浴びて七色の煌めきを放っている。巨大な翼を器用に折りたたむと、音もなく舞台の中央に降り立った。
精龍王は首を垂れると、頂きの上に立つ少女と目線を合わせる。
「お待ちしておりました。精龍王様」
自分の身の丈はあろう、2つの金色の眼に向かって少女は跪いた。
『うむ。汝が此度の贄であるか?』
洞窟に満ち溢れる魔素を伝って、少女の脳内に直接語りかける。低く、地の底から響いてくるような声だ。
「はい。ロスオ村のパァルと申します」
3本の角は天を突くように伸び、その翼は太陽を覆わんとするほどに雄大だ。身体の大きさに比べて腕や脚はやや細くはあるものの、その爪や牙の鋭さこそが、数多の敵を屠ってきた何よりの証であった。
生まれて初めて見るドラゴン。その最上位の存在とも言える『龍王』を前にしても、パァルは物怖じすることなく言葉を紡いだ。
恐れを抱かなかったわけではない。その証拠に、薄衣から覗く白い肩をわずかに震わせている。
ただ理解をしていただけなのだ、生贄として育てられた巫女としての自分を。
霊峰であるシルヴァ山脈は、年中通して溶けることのない雪に覆われた土地。その麓にあるパァルの故郷、ロスオ村の生活も決して楽なものではなかった。
領都からも遠く離れ、常に飢えと寒さに苦しんでいた辺境の村。そんな彼らに対して手を差し伸べたのは、この地を治める龍王であった。
魔法の源であり、大気中に普遍的に存在する魔素。その魔素を多量に含んだ地は龍脈と呼ばれ、龍王は古来より龍脈を管理してきた存在である。
シルヴァの龍脈の管理者、精龍王 エル=カサンドラは、村人たちに降り注ぐ日差しと出来うる限りの豊穣を約束した。
その代わり数年に一度、魔力の才がある若者を生贄に差し出すことを要求したのだ。
この取り決めがいつ行われたかは定かでは無い。しかしロスオ村に住む者は皆、その定めを受け入れて生きてきたのだ。
パァルも例外ではなく、幼い頃より覚悟はしてきた。してきたつもりだった。
生贄の巫女に選ばれた事実を告げられてからの数日間、ただ感情を押し殺すことだけを考えた。別れを告げた両親の前で、枯れるほどの涙を流して、彼女は今ここに居る。
『すぐに終わる、痛みは無い。しばしの眠りと心得よ』
「はい」
言われた通りに瞳を閉じる。
大きな口で丸呑みされるのだろうか、それとも魔法にかけられるのだろうか。痛みは無いとのことだから、爪や牙を突き立てられることはなさそうだ。
出来るだけ思考を回し、恐怖を自分から遠ざけようとする。
吐息か鼻息か、生暖かい風が身体に当たる。精龍王の首がすぐそこまで来ているのが感じられた。大気が震え、洞窟内の魔素が精龍王の口元に集中する。
最期の時を意識して、パァルは唇を固く結んで俯いた。
『なんだこれは? 一体何をしたのだ!?』
精龍王の声がパァルの頭を震わせた。
それまでの落ち着いた口調とは一変して、明らかに動揺している。パァルは思わず顔を上げ、目の前の光景に唖然とした。
自分と精龍王との間に、ちょうど人一人分を呑み込める大きさの、黒く蠢く渦が発生している。水晶と陽光の彩りの中、突如として現れた漆黒の闇。
空間魔法を使った時の歪みに良く似ているが、ここまでの濃度の魔力は感じたことが無い。全く異質で強力な魔法に思えた。
「精龍王様?」
『ええぃ! 謀りおったか人間風情が。生贄のフリをして、我が首を獲りに来たか!』
どうやら眼前の魔法は精龍王が創り出したものでは無いらしい。
「ごっ誤解にございます」
『黙れ、取り決めを仇で返しおって。汝も、村の民も全て滅ぼしてくれようぞ』
「……そんな」
このような魔法など、パァルの身に覚えの無いものだ。理由も分からぬまま精龍王の怒りを買ってしまった。蒼い瞳を潤ませながら、ペタンとその場で座り込む。
パァルにはただ呆然と闇の渦を眺める他なかった。
発生からしばらくその場で停滞していた渦は、爆ぜるように霧散した。同時に集中していた魔素も大気の中へと溶けていく。
元の輝きを取り戻した洞窟の中。渦のあった場所には1人の男の姿があった。
赤毛の髪はボサボサで無精髭が伸びているものの、若さと生気に溢れた目は輝いており、精悍な顔つきに引き締まった体躯をしていた。
男は冒険者なのか、大きな荷物袋を背負っていて、革の鎧を身につけている。そのどちらもボロボロで、鎧に至っては肩が窮屈な割にお腹周りはブカブカと明らかにサイズの違う物だった。
しかし不相応にも、腰に差した長剣だけはかなりの業物のようであった。鞘には傷一つ付いておらず、紅く染められた柄は怪しげな雰囲気を醸し出していた。
「うわぁっ!」
開口一番、精龍王の顔を見て叫び声をあげた。異質な魔法空間からの転移してきたものの、狙ってこの場に現れたわけでは無いらしい。
巨大なドラゴンを前にして後ずさると、パァルと同じようにへたり込んでしまった。
「なんだ一体、どこだよここは?」
忙しなく首を動かして洞窟の中に目を泳がせる。しばらく動揺のあまり口をパクパクさせていたが、側に生えていた水晶の柱を見つけると、無言でそれを注視し始めた。正確に言えば、磨かれた鏡のような水晶に映る自分の姿を、だ。
「もしかして……これがオレか?」
信じられないといったふうで、自分の顔と水晶とを、交互にペタペタと触り始めた。
不審な行動を続ける謎多き男。パァルは声をかけようと思わず右手を伸ばす。
「あの……」
グオオオオオオッ!!
魔素による念話では無い。巨大な口を開けての咆哮であった。
巻き起こる突風に対して、パァルは伸ばした腕を顔の前で曲げてやり過ごす。
パァルより近くにいた男は、衝撃をモロに喰らって仰向けに倒れた。
『生贄の儀を邪魔しおって。我がこの地の主、精龍王 エル=カサンドラと知っての狼藉か!』
精龍王の怒りは留まるところを知らない。大きく身体を仰け反らせると、その光沢を浮かべる巨大な翼を広げて見せた。
咆哮はうねりとなって山を揺らし、翼の広がりに巻き込まれた岩壁が、音を立てて崩れ落ちて行く。透き通った無数の鉱石が砕ける様は、瞬く星々の輝きにも見える。
男は後頭部を押さえながら立ち上がると、渋い顔をして後ろを振り向いた。驚くパァルと目があう。
「生贄に……」
正面に向き直ると、今度は怒れる龍王を見上げた。
「龍王……」
最後に両手を前に出し、開いた自身の掌をジッと見つめる。
「そしてこのオレ、退魔の若獅子 レイシュ。しかもなぜか若い」
「なるほど」と呟くと、赤毛の冒険者レイシュはポンと手を叩いた。
「こいつぁ夢だな」
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