ゆがみ・まどろみ
愛情の深さと、それが裏返ったときの怖さは比例するものです…
私は、幸福な夢の中にいます。
あの人との会話、記憶の中にたゆたいます。
「私を捨てるなんて……許さないから」
「僕が……他の人を愛してても?」
「私……嫌よ、そんなの。別れてあげないもの」
あの人は意地悪な質問をやめて、
優しく私を抱き寄せ、指で髪をすいてくれました。
心地よさに目を閉じると、
彼の匂いが鼻をくすぐるのです。
カチコチと、時計の針が空気を刻んでいる。
「彼女の容態は……?」
「肉体的には、何も問題はありません。今は良く眠っておられます」
「一体なにが起きたのでしょう。私には、全くわけがわからない……」
「はっきりしたことは申せませんが、ショックによる記憶の混濁
……ということになるかと思います」
「……混濁?」
あの人は、私に首ったけ(古いですね)になってしまったんです。
誰かに心から想われることが……これほど温かいなんて知りませんでした。
「駄目なんだ」
「……」
「僕は……もうこのままの関係じゃいられない」
「……冗談はやめて」
私はほんのひととき、恐れました。
真っ直ぐな愛情の押し寄せるその力を。
私をさらって、どこかへ連れて行ってしまいそうなその力強い腕を。
「嘘じゃないんだ。自分の心が、もう言うことをきかない」
「う……そ……」
「心から愛してしまったんだ。本当だ」
涙が止まりませんでした。
私はこの人とずっと生きていく。
明日の朝食を作って、明後日の朝食も作って……
ずっと……ずっと……幸せに。
部屋の空気は、相変わらず重く沈んでいる。
「彼女は、こうなる前の会話はしっかり記憶しています。欠落はありません。先ほど、催眠中に質問させていただいて、確認しました」
「……欠落はない?先ほど混濁と」
「あなたと交わした会話を、彼女は寸分違わず覚えていらっしゃいました。これがその……記録です」
「……これでは……まるで……」
「彼女は、あなたと交わした会話はそのとおりに記憶しています。ただ、その流れが彼女にとってあまりに受け入れ難かった。だから――」
医者は、そこで言葉を一旦区切った。
「彼女は、あなたとの会話を逆の順序で記憶したようなのです」
僕の前で彼女が目を覚ます。
彼女は僕の顔を確かめると、
ふわり――天使のような笑顔を浮かべた。
(了)2010年2月
短いのに、校正にやたらと時間のかかった一本になってしまいました。
理由は、最後までお読みいただけた方にはおわかりかと…