紅茶とジンジャーエール
写真部はとても自由だ。
屋内で被写体を探すのは難しい。
同じ二年で、「夢は高校球児を追いかけるカメラマン」と入部早々、豪語した松林さん。
彼女は基本的に軟式、硬式問わず、いつも野球練習をファインダー越しに見つめている。
陰で「パパラッチ林」、「カメ林」と呼ばれていても。
本人も、面と向かって言われないが、何かしらのあだ名がついていることには気づいているらしいが気にしない鉄乙女。
中学の時はソフトボール部で、背は高いし、髪はそこらへんの男子よりも短くて、一見して運動部っぽいのだが、写真部だ。
低いアングルから、投球のダイナミックさをアピールしたくて、ピクニック用ビニルシートの上に横ばいになって延々とシャッターを切り続けても。その様子を後ろから見て、あわよくば下着を――という野球部員や下校途中の生徒がいても気にしない。
だって、ちゃんとスパッツを履いているから。
撮りたい絵のためならばどんな姿勢も、どんな視線も気にしない。写真部の鏡。
そんな彼女のように、部活動の様子を追いかける部員もいれば、校舎の外に被写体を求める部員もいる。
高校生にもなれば、写真雑誌や、インターネットで個人的に写真コンクールを見つけ出し、勝手に応募することは珍しくはない。
全校生徒の前で表彰されるのは、高文連――全国高等学校文化連盟という、高校文化部を総括する連盟があるのだが、そこが主催する写真展で受賞した時くらいだ。
最近はトイカメラやレトロレンズブームに乗って、もっぱらカメラを作るのに傾倒する部員も少なくはない。
白黒フィルム現像は、大手カメラ店でも今は外注になってしまって、仕上がるまでに一週間なんていうこともあるので、土日にフィルム五本くらい撮影して、平日は部室で延々(えんえん)と暗室に籠って現像作業という生徒もいる。
実のところ、現像液には水銀が含まれているので、使い終わったからといって、適当に捨ててはいけないのだ。
ちゃんと専用の回収業者さんがいて、ポリタンクに貯めた廃液を持って行ってもらう。
家でそんな危ない液体を扱いたくない、暗室を用意できないという生徒は自然と部室に集まって、部室では現像や引き伸ばし作業を行う。
一方、デジタルカメラ組は、放課後はそれぞれ撮影場所を求めてさ迷い歩く。
良くも悪くも、高文連の主催する写真展と高校でやる文化祭のために作品が用意できれば活動時間や内容はルーズだ。
そんなルーズな部活部員の僕は、アヌトロフが指定した時刻に合わせて学校を出て、いつも乗る電車には乗らず、学校とは反対側に足を進めた。
学校の最寄駅がある荻窪は、駅前こそ栄えているが、少し足をのばせば住宅街だ。
送られてきた地図を頼りに青梅街道を越えて細い路地に入っていく。
こんなところに喫茶店なんてあるのかと不安だったが、ミニ商店街的な通りがあり、指定された喫茶店は、店前に大きなメニュー表を掲げており、すごくわかりやすかった。
恐る恐る扉を開ける。
目に飛び込んできたのは、いろんな漫画のキャラクターたちのイラストだ。
壁にマジックなどで描かれたものだ。サインが書かれていることから、直筆なのだろう。
「いらっしゃいませー」
眼鏡をかけた店員さんが、カウンター越しに声をかけてくる。
「お一人様ですか?」
「いいえ、待ち合わせなんですが……」
アヌトロフからのメッセージでは「ヒバリって言えばいいよ」って書かれていたけれど。
店員さんは笑顔で、「奥へどうぞ」と手で店の奥を示した。
たくさんの漫画のキャラクタに見守られながら、それほど広くない店の奥へ。
そこには、あの時の彼女がいた。
あの時との違いは、場所が「喫茶店」というところだけ。
テーブルに置かれたティーセット。
ティーカップに注がれた透き通った紅茶。
彼女の手には文庫本。
「ずっと立ってないで座ったら?」
彼女に言われて、先ほどの店員さんが、お冷とメニューを持って、僕の後ろに立っていることに気が付いた。
「あ、っと。失礼します」
鞄は店員さんが用意してくれた籠へ。
「なんだ、あの時の盗撮君が、王様だったんだ」
そう言って、彼女は文庫本に栞を挟んでテーブルの脇に置く。
文庫本を包むブックカバーはこれまでに何十冊の本を包んできたのか、ところどころシールで補強されながら使い込まれたもので、まるでアンティークものの洋書のようだ。
「盗撮じゃないよ。ただファインダー越しに見てただけだよ」
「うわぁ、いきなり青春レベル高い言葉が出て来たよ」
そう言いながら、彼女は紅茶を飲む。
僕を待っていたアヌトロフは、あの桜が満開のなか、桜には目もくれず、読書に夢中になっていた同じ学年の女子生徒だった。
「ここらへんに住んでるの?」
「まあ、とりあえず何か頼んだら?」
目の前に置かれたメニュー表を開く。
思わず「高い」と声が出そうになる。
コーラとか、コンビニで買った方がはるかに安い。
ジンジャーエールも味が二種類ある。
ここは内装もそうだけど、ガチなお店だ。
高校生の財布に厳しいお店だ。
漫画だったら、今僕の頬には冷や汗が描かれているはずだ。
そんな感情を読み取ったのか、目の前の彼女は「一杯ならおごってあげるよ。呼び出したのは私のほうだし」と、言う。
そこには少し大人の余裕が見え隠れしている。
なんだ? 上流階級のお譲さんか? 確かにここらへんは大きい家とか多いけど。
「大丈夫です!」
パタンとメニューを閉じて、ジンジャーエールの甘口を頼む。
これなら駅前のスタバとかマックとか……。いや、同じ学校、同じクラス、顔見知りとのエンカウント率を考えると、ここくらいマニアックなところがいいのか。
店内は平日の中途半端な時間ということで他にお客さんはいなかった。
メニューをざっと見た感じ、お酒の種類が豊富だった。アルコール目当てのお客さんはまだオフィスでその日のノルマと戦っているはずだ。
ジンジャーエールが運ばれてくるまでの時間、壁の絵のサインを視線でなぞったりしたが、どうも居心地が悪い。
目の前の彼女と会うのは初めてではないが、話すのはこれが初めてだった。
「あの、なんの本読んでたの?」
「ミステリー」
味気ない水色の透明カバーを付けたスマホをいじりながら彼女はそれだけ言った。
会って話をしようと持ちかけてきたのはそっちじゃなかったか?
「どうぞ」
やがて店員がジンジャーエールを運んでくる。
一緒に伝票を置いていく。
ジンジャーエールにはミントの葉が添えられていた。
「じゃあ、再会を祝して乾杯しますか」
彼女は、スマホを文庫本の上に置き、自身のティーカップを持ち上げる。
「再会?」
自然と、僕は自分のグラスを持ち上げていた。
「そ。この世界での再会を祝してね」
そう言って、彼女はティーカップで僕の持つグラスにカチンと触れる。
ティーカップに縦に長いグラス。
紅茶とジンジャーエール。
女と男。
同じなのは高校と学年。
奇妙な出会い? 再会? それはこんなふうに、ジグソーパズルに無理やり違うピースをはめるような、そんな強引なものだったか。