灰色の王様
◆
愚かなり、愚かなり我が王よ。
聡明たる灯――ゾヴは城壁の上から、濠を挟み、向こう岸に見える街を見ながら心の内で呟く。
我らの王は心優しい。だがそれだけだ。
アヌトロフのような雄々(おお)しさもなければ、サマダのような猛々(たけだけ)しさもない。
玉座が何の上にあるのかわかっていない。
無知蒙昧。
愚昧。
大愚とまでは言わない。
ただ言われたことに従っていればそれでいいと思っている。
ゾヴは先々代の王から王族に仕えた魔術師。≪十二の燭台≫の最年長。
腰は曲がり、背も縮み、髪の色は抜け落ち、艶もなくなった。
百年ネズで作った杖をつかむ手は皺だらけ。
再び王に忠告すれば考えを改めるだろうか?
いや。
ゾヴは静かに首を振る。
フードから長い白髪が流れ落ちる。
己はこの城から去るべきなのだ。
王に与えるべき知恵はない。
与えすぎた結果が今だ。
遠くに煙る街。
今まさに、貧困に命を落とす者がいる。
◆
「セパス」という名前の意味を、帰りの電車の中で検索してみたが、出てくるのはワインの銘柄ばかり。
そして、検索エンジンは「『デパス』ではありませんか?」と間違いを指摘してくる。
ありがとう。でもその親切、今はいらないかな。
次に検索したのは、もちろん「アヌトロフ」という単語だ。こちらはお店の名前で、しかもその一軒の店の情報ばかり。
都内にあるその店は、奇しくも家から歩いて行ける距離にあった。
まさかその名前?
いや、アカウントのスペルが違う。
アヌトロフの個人ページにアクセスしたところで電車が高円寺に停車する。
ため息をつき、母親から買い物メッセージが入っていないことを確認し、ポケットにスマホをしまう。
改札をくぐり、イヤホンを耳にねじ込み、音楽を聴きながら阿佐ヶ谷方面へと足を進める。
好きなアーティストのメインギターが刻むリズムの間々に、「誰だ? 誰だ?」と僕の声が挟まる。
僕があの夢を普通の夢じゃないと気づいたのは、たぶんあれだ。保育園に入った時、夢の絵を描かされた時だ。
保育士がいう「夢」を、将来の夢ではなく、夜眠った時に見る夢と勘違いしたのだ。
あの時は半べそになる勢いで恥ずかしかったけど、同じように意味を取り違えた仲間がいたので、痛み分けでトラウマにならずに済んだ。
保育士は灰色のクレヨンで描かれた人物らしきものを見て、「薫君は消防士になりたいの?」と聞いてきた。
五歳だった僕は、消防士とは消防車と同じく、赤い色の服を纏っていると信じて疑わなかった。五歳の知識量や認識、思考なんてそのレベルだ。
ゲームで言えば人生レベル五だ。
当時では珍しい若い男の保育士に対し、僕は「違うよ」とか、首を横に振ったはずだ。
そして、「ぼくの夢に出てくる人だよ」と言った。
そこで誤解に先生のほうが気づいてくれたのだが、機転を利かせて、「戦う人になるのかぁ」とフォローを入れてくれた。
顔以外は、ほぼ灰色で描かれた絵。
――戦う人。
そう言われて、僕は夢の中で「戦う人」だと知った。
だが、同時にちょっとした違和感があった。
夢の中の僕の頭には、金の王冠が乗っていた。
戦っている時以外。城にいて、固くて冷たい石の椅子に座っている時、僕の頭の上には王冠が乗っていた。
王冠が乗っている人物といったら、トランプのキングだ。
僕は日曜日の午前中、トランプのキングを意味もなく四枚すべて持って、父親に「この人は誰?」
と聞いた。
実のところ、トランプのクラブ、ダイヤ、スペード、ハートのキングにはそれぞれモデルとなる人物がいるのだが、そんな薀蓄おたくでもない父親は、新聞を斜め読みしながら「どこかの王様だよ」と言った。
――王様。
その言葉だけで気分が高揚した。純粋だったんだな、あの頃の僕。
「王様も戦うの?」
四枚のキングをテーブルに綺麗に並べながら父親に聞いた。
「昔の王様はそうだったんじゃないか?」
いったん新聞を閉じ、父の指がキングが手にする剣を指差す。
「ほら、剣を持ってる」
昔は王様および、偉い人も大概は戦場に出て戦っていたと小学生の大ざっぱな歴史の授業で学んだ。
小学校に上がっても夢は見続けていた。
そして、その夢の舞台が歴史でいうところの中世あたりだということはわかった。
だけど、どこの国かまではわからなかった。
月が二つ並んで見える場所なんて僕は知らない。
音楽を止め、イヤホンを外して、我が家の扉を開く。
「ただいま」
今日は肉じゃがか、もしくはカレーだなと予想しながら扉を閉める。
ずっと見続ける不思議な夢でも、別に現実世界でなにか起きることなんてない。
人生レベル十六、そろそろ十七にレベルアップする春。
今まで特に変化なんてなかったし、これからも変わらないと思っていた。
階段を登って自室へ。
ブレザーのポケットからスマホを取り出し、イヤホンコードを適当に本体に巻きつけて、ベッドの上に放る。
制服から部屋着に着替え、座椅子に座ってため息を一つ。
目線は自然と、ベッドの上のスマホに向けられる。
アヌトロフ>「なぜ、セパスという名前なんですか?」
なんだか居心地が悪い。
スマホからイヤホンを抜き、もう一度アプリを立ち上げる。
何度も開いたヴォイシンクのメッセージボックス。
差出人の名前をタップ。
アヌトロフという名前と、最近ゲームセンターでよく見かける寝落ち三秒前くらいの顔をした猫のキャラクタのアイコン。
コピーライトマークがついてるから、公式で配布してるフリーアイコンってやつだろう。
一言プロフィールには、「映画と読書。」
モニタを見つめながら耳の後ろをかいていると、徐々(じょじょ)にカレーの匂いが部屋に満ちていく。
親指で戻るボタンを押して、再びメッセージ画面へ。
「薫ー! そろそろいいわよー!」
「わかったー!」
母親の言葉に応えながら、指はモニタを叩く。
セパス>「たまたまです。あなたの名前の由来はなんですか?」
それだけ書いて送信ボタンを押す。
短いメッセージはどれくらいの速さで相手に届くんだろう?
「メッセージを送信しました」という画面をそのままに、スマホをベッドの上に置いて部屋を後にする。
我が家での決まり。
――食事の時はスマホをいじらないこと。
僕って案外、律儀で真面目なのかもしれない。
誰も褒めてはくれないけど。