論争の横で
◆
石造りの室内にその音は冷たく鳴り響いた。
王の側近であり、≪十二の燭台≫の中でもっとも雄々(おお)しく燃え盛る火と讃えられるアヌトロフが、長年愛用し続ける槍の石突きで、床を突いた音だった。
「我が王、そして我らの国のため、万能の書は必要不可欠だ!」
雄々しい灯――アヌトロフ。
ある時は王の槍、またある時は王の友。そんなアヌトロフが険しい顔でその場に集まった十二人を代表して言う。
一本にまとめられた金色の髪はまばゆく背を流れる。
青い瞳は宝石のように輝く。
堀の深い目元に、整った鼻筋。
誰もが認める美丈夫。
四角い机を囲うように座った残りの十一人は、各々頷いたり、少し考えるように腕を組む。
だがアヌトロフは、なおも言う。
万能の書が必要なのだと。
なにより、王が必要としているのだ。
ならばここで改めて決を採る必要などない。
これより、万能の書探しが始まるのだ。
◆
その年、我が写真部が獲得した部員は女子生徒二人。
備品のカメラの台数や、デジタル現像やフィルム現像用の道具を考えれば、あまり多くの入部希望者が殺到しても困る。と、新部長、森山真路は言った。
その森山部長は、いつもは黙々(もくもく)とネガ現像用の薬品を作ったり、新しいデジタルカメラのカタログに目を通しているのだが、今はスマホに向かって真剣にタップを繰り返している。
その隣で僕は新入部員の世話をしていた。
写真部の伝統は、まず最初にピンホールカメラを作ることだ。
適当な箱を用意し、その箱の中をスプレーなどで黒く塗りつぶす。
そして、小さな穴を開ける。
暗室の中で、作った黒い箱の中、穴から光が当たる位置に感光紙を貼りつける、穴には光を通さないように黒いテープを貼る。
暗室から出て、適当な場所で穴を塞いでいたテープをはがし、天気のいい日ならば三十秒ほど、黙って箱を置いておく。
三十秒経ったら再び穴にテープで蓋をし、暗室で箱の中の感光紙を取り出し、現像液にその感光紙を入れる。
ピンホールカメラがうまく完成していたら、感光紙に像が浮かび上がる。
ピンホールカメラこそ、人類初のカメラであり、カメラの基本構造だ。
ピンホールカメラの作り方や、現像液の作り方、取扱いなどの指導は二年生の役目ということで、慣れない一つ下の女子生徒相手に説明し、ドッと疲れて椅子の背もたれに体を預ける。森山部長はまだスマホに向かって難しい顔をしていた。
「いつものアレだよ」
僕の部長に対する視線に気づいた高野章乃がコソッと耳打ちしてくる。
章乃とは中学からの付き合いだ。
章乃は中学の頃、バスケットボール部で主将を務めるくらいのスポーツ少女だったのに、いまではきっぱり足を洗い、短かった髪も今は肩くらいまで伸ばしている。
だが、身長や体格は見るからにスポーツ女子だ。
中学でクラスは三年間一緒だったが、僕は卓球部。クラス以外での付き合いはほとんどなかった。
だけど、僕の名字「塩入」と「章乃」という名前。
確か中学一年の時に席が並んだ時、クラスメイトの誰かは忘れたが、「塩コショウじゃん!」と言った。
「章乃」が「章子」ならば、アナグラムで「コショウ」になる。
それがきっかけで、気まずくなるを通り越してなぜか仲良くなった。
クラスメイトも悪気があったわけじゃなく、ふと思いついたことを口に出しただけだろう。それで気を悪くする人もいるとは思うけれど。
章乃は高校に入っても、中学から一緒の友人たちにコショウというあだ名が広められてたまったもんじゃないと言っていた。
それを言ったら僕は一生「塩」から離れられない。
「いつものって?」
鼻をこすると、手に残った現像停止用の酢酸の臭いが軽くした。
「カメラのメーカー論争」
「ああ」
フィルムカメラの時代からあったのかはわからないが、デジタルカメラには二大巨頭がある。
キヤノンとニコン。
この二つのユーザー間には深い溝が存在する。
そして、これからデジタル一眼を始めたいけど、どちらのカメラがいいんでしょう? なんてSNSの世界で質問したら最後、両者のユーザーの奪い合いが始まるのだ。
それは森山部長も熱くなるはずである。
いうなれば、お菓子の「キノコの山」、「たけのこの里」戦争。
そういえば、僕も入部した時には「カメラは持っているのかい!?」と迫られたものだ。
僕が使っているキヤノンは、デジタル一眼よりも持ち歩きに便利なミラーレスに乗り換えた父親のお下がりだ。
デジタル一眼とミラーレスの間にも溝は存在する。
それだけ、カメラというのは罪深い存在なのだ。
一人白熱する部長の横、僕が一人部室に残っていた時、みんなそれぞれのベストポジションで撮影した、プリントアウトされた桜の写真に手を伸ばす。
――と、ブレザーのポケットでスマホが震えた。
「お塩も先輩に加勢するの?」
章乃に言われて苦笑いを浮かべて首を横に振る。
第一、先輩はニコン。僕は先輩のライバル機だ。
スマートフォンが知らせて来たのはヴォイシンクのアカウントに届いたメッセージ。
メッセージなんて珍しいなと思いながら、僕はタップして受信箱を開く。
一年でスマホもヴォイシンクも使い慣れた。
始めは難しいと思ってたのに、慣れっていうのは本当にすごい。
メッセージはたった一言だった。
アヌトロフ>「なぜ、セパスという名前なんですか?」
その内容に、僕は黙ってしまう。
内容というより、差出人の名前。
アヌトロフ。
その不思議な響きは、小さい頃から見続けている夢に登場する人物の名前だった。
――なんで? あれってただの夢じゃないのか? 僕だけが見ているだけの。
「お塩ー、使い終わった現像液廊下に出すの手伝ってー」
章乃の呼びかけに、現実に引き戻される。
僕は返事をしながら、スマホを再びブレザーのポケットにしまう。
あれはただの夢じゃないのか?