現世での生涯
「マスター、」
シャーベット用のスプーンを片手に雲雀が言う。
「私たち、ヴォイシンクで他にも同じ夢を見てる人がいないかコミューン作ったんですけど、約一か月成果なしなんです。何か知恵貸してくれませんか?」
彼女の問いに対し、彼は軽く声を上げて笑う。
「はは、ソーシャルネットというやつだね。私も携帯は持っているけれど、店の紹介やメニューを作ったり、パソコン仕事は娘に頼んでるから、あまり力になれないよ」
ギャラリー側にいた女性が、ふと振り返る。
老婦人の相手をしている彼女が娘だったのか。
軽く微笑んで会釈する顔が、マスターにそっくりだ。
その彼女が言う。
「私もネットはそんなに詳しくないよ。ただ、大学でデザインやってたから、パソコンは扱えるけど」
「だとさ」
マスターは軽く肩をすくめる。
「せっかく仲間が増えると思ったんだけどなあ」
そう言って、雲雀は口を尖らせてポケットから取り出したスマホをいじる。
「でも、」
娘さんが何かに気が付いたように言う。
「SNS内のやりとりとかって、外の大きな検索エンジンからじゃヒットしにくいみたいだよ。だから、この店もSNSアカウントは持ってるけど、サイトは別に作ったの」
「へー」
僕は自分の席に戻り、溶けかけたシャーベットを口にする。
夏みかんの味がした。
「こうなったら地道にコールするしかないか」
コール――というのは、ヴォイシンク上での発言の拡散をさす。
拡散を呼びかけて、いろんな人に発言を広めてもらう、ということだ。
「うちは基本的にお店の情報しか載せないから、君たちの力にはなれないかな」
そう言ってマスターは肩を落とす。
「大丈夫ですよ。切羽詰まってるわけじゃないですから。地道にがんばります」
「仲間が集まったらまたここに来るといいよ。妻も、話しに加わりたかっただろうね」
マスターはカウンターの端に手をつき、壁に飾った亡き妻の作品を、目を細めて見つめる。
真ん中は王妃。
その左右に飾られているのは王、セパスの絵だ。
右は玉座に座った王。
左はベッドで眠る王。
もし、彼らが見る夢が現代の僕らの生活だったら――なんて、そんなことはないか。
ミントの効いたレモンスカッシュは甘すぎず、酸っぱすぎず、これから梅雨を挟んでやってくる夏を予感させる味がした。
ギャラリー・アンド・カフェ「ノイセテス」
マスターの名前を秋山将範さん、その娘の萌絵さん。
亡くなった奥さんは眞智子さんというそうだ。
他に息子さんがいるそうだが、住まいは別で、品川のほうに住んでいるという。
将範さんは僕でも知ってる有名な企業で働いていたが、昔からコーヒーにはこだわりを持っていたらしく、いろんな豆を集めるのが趣味で、いつかは眞智子さんの絵を飾ったギャラリー兼喫茶店をやろうと思っていたらしい。
二番目の子供である萌絵さんが芸術大学を卒業し、そろそろ会社を退職して本格的にカフェを始めるための準備を始めようとしたところで、眞智子さんに癌が見つかったらしい。
大腸にできた一個の悪性腫瘍。
それを取り除き、投薬治療、もしくは放射線治療を続けていれば再発はしないだろう。そう言われていた。
だが、そう簡単にはいかなかった。
一年後、再び大腸に癌が見つかった。
リンパ腺転移は認められなかったが、腫瘍は彼女の身体の中で増え続けた。
それでも、眞智子さんは絵を描くのを止めなかった。
あのクレヨンを用いた絵はすべて病室で描かれたものらしい。
長い入院生活、その時、妻の口から語られた言葉。
――私はね、小さい時からずっとこんな夢を見て来たのよ。
まるで子供に読み聞かせるかのように、手を動かしながら、夢の話を語ったという。
投薬による吐き気や、だるさなどを感じ取られないようにする、彼女なりの思いやりだったかはわからないという。
――現実世界で家庭を持って、夢の世界ではお姫様で、贅沢な人生だったわ。
それが彼女の最後の言葉だったという。
妻と一緒にやるはずだった喫茶店。
もうどうでもよくなって、仕事も辞めて、一人でどこかに逃げようと思ったそうだ。
そんな時、眞智子さんの絵を飾ろう、ギャラリーを造ろうと将範さんを励ましたのは、息子さんと萌絵さんだった。
そして、今にいたるのだと。
「あのカフェ、手前のギャラリー部分は貸しギャラリーになっててね、杉並区の住人だったら少し割引で貸してくれるの」
夕方、買い物袋を自転車の籠に積んだ人たちが行きかう通りを歩きながら、雲雀は言う。
「じゃあ、今日飾ってた絵は萌絵さんの絵じゃないのか?」
「そう。萌絵さんはCGとか、3D関係の仕事をあそこでやってて、ギャラリーの管理はそのついでなんだって」
「へー、ずいぶんと詳しいんだな」
「私も前に借りさせてもらったから。名前はその時に知ったんだ」
「借りたって、絵を飾ったってこと? 君が?」
「なに? 高校生のくせに生意気とか?」
少し眉をひそめながら聞いてくる。
「そんなことないよ。単純にすごいなあって。個展ってことだろ?」
そもそも、絵を描いていること自体、初耳だ。
今まで聞かなかったからだけど。
「そんなにすごいことじゃないよ。今はみんな、ネットで年齢関係なく自分で描いた絵をアップしてるじゃん」
「そりゃそうだけど。今って、部活とか入ってないのか?」
章乃から聞いた、転校してきたという話。
知っているということを伝えるべきだろうか?
「今は帰宅部だよ。なんだか燃え尽きちゃってさ」
「なんだよそれ、おっさん臭い」
「おっさん臭いはないでしょー」
そう言って、学校指定の青いバッグで殴ろうとする素振りをする。
「だって、燃え尽き症候群とか、運動部でもないのに」
「いいじゃん、別に。思春期ってやつ!」
雲雀は口を尖らせる。
駅にたどり着き、それぞれ鞄から定期入れを取り出す。
「そう言えば、君って――」
「雲雀でも、珠加でも、好きな方で呼んでいいよ」
普段、ヴォイシンクのメッセージでやり取りしているせいか、呼び方を意識したことがなかった。言われて、今更気づいた。
「じゃあ、雲雀で」
「うん、なにか?」
「雲雀の家って学校から近いのか? 電車通学じゃないなと思って」
「まあ、学校から十五分くらいは歩くかなあ」
「それって結構遠くないか?」
「雨の日は靴の中が悲惨なことになるけどね、こればっかりは慣れでしょ。高校よりは駅のほうが近いかな」
「へー」
電車通学の高校で名門、駅から近いところは少ない。
それでも、今の高校よりも駅の方が近いと考えると、やっぱり電車通学で他の高校に通った方が楽なんじゃないか?
「それじゃ、私は吉祥寺に寄っていくから」
「こっそり夢に出てくる名前探してるとかじゃないのか?」
訝しげな表情を向けると、雲雀はあっさり笑い飛ばす。
「たんに本を買いに行くだけだよ。荻窪駅前の本屋さんなくなっちゃったから、色々探しまわるよりは、吉祥寺のジュンク堂とか、新宿の紀伊国屋本店に行った方が早いんだよ。今はネットで店頭在庫も調べられるし」
本当、ネット様様な世の中だ。
「じゃ、また今度」
「うん」
改札をくぐって、お互い、軽く手を振って別れる。
クラスメイトでもないし、部活も一緒じゃない。
学校で会ったのは、初めて出会ったあの中庭でだけ。
ちょっと不思議ちゃんな気がするけど、普通の今時の女子高生だと思うけどなあ。
上り方面のホームに向かいながら、今までの雲雀の様子を脳内リフレインする。
上り電車はタイミングよくホームに滑り込んできた。
車内はすでに冷房が効いていて、少し加齢臭がした。