レモンスカッシュと王妃の夢
五月も暦半ばをすぎれば東京も夏日が続くようになった。
もう衣替え期間なんて廃止して、今すぐ夏服になりたい気分だ。
夏服といっても、ただブレザーを脱いで半袖のワイシャツになるだけなのだが。
道の向こうに蜃気楼が見えそうな夏日の放課後、僕は雲雀の後ろ姿を追いかけるように、西荻窪駅近くの通り歩いていた。
移動には電車を使った。
章乃から聞いた話。
――電車通学が辛くて転校してきた。
目の前を歩く雲雀。
電車に乗る前も、乗っているあいだもそんな気配はなかった。
僕らの乗った電車は部活のない生徒たちが目立ったが、通学時のような混雑はなかった。
そのおかげだろうか?
ところで――
「行き先を教えて欲しいんだけど」
「教えなくても、もう着いたよ」
そう言って、彼女は振り返る。
雲雀の後ろには一軒のギャラリー? いや、喫茶店?
「絵なんてまったくわからないぞ?」
「写真やってるのに?」
「写真は写真、絵は絵だよ」
写真部の三年には美術部とかけもちしているツワモノの先輩もいるが。
その人の場合、美術部では彫刻をやっているので、その作品の撮影も自分でやって、ブログにアップしたり、作品集を作るためにカメラを覚えたいと言っていた。
「とりあえず、中に入ろう」
店の扉の取っ手は太い木の枝の樹皮を剥がし、表面を滑らかに加工ものだ。
今流行りのDIYっぽい。「Do It Yourself」の略だったっけ?
中には、絵を描いた人だろうか? 老婦人に対し、絵の製作過程などをおとなしめに伝える若い女性がいた。
店の手前部分に飾られているのはどれも線が細かい絵ばかり。
すごいなーとは思ったけれど、何を描いたものなのか、想像力も芸術性のカケラもない僕にはわからなかった。
店の奥が喫茶店になっていて、カウンター席とテーブル席があった。
雲雀は迷わず、カウンター席へと腰を下ろす。
本屋で杉並区特集なんて雑誌をよく目にする。一度手にとってパラパラとめくって見たが、西荻窪はとにかく喫茶店が充実しているそうだ。
駅を出て、大通り沿いに歩いて来たのだが、ここにたどり着くまでの間にも、喫茶店の看板がこれでもかというほど乱立していた。
このお店は、内装もそうだが、外装からも最近出来たばかり、もしくは改築したのだろうか。
「もう夏だねぇ」
そう言いながら、お冷やとおしぼりを持ってカウンターから出てきたのは、白髪の品の良さそうなお爺さんだった。
深緑のタータンチェックのネルシャツに程よく色落ちしたジーンズ。そして、生成りのエプロン。
背筋は僕なんかよりもピンとしている。
「今日はデートかい? 若い人はこんなところじゃなくチェーン店がデートスポットじゃないのかい?」
「デートなんかじゃないですよ」
雲雀は手を振って否定した。
それに習い、僕も頷く。
「今日は我らが王をお連れしたんですよ」
は?
なんの前触れもなく雲雀の口から告げられた言葉に、ギョッとして彼女の顔を見るが、普段は見せないよそ行きの顔を、目の前のご老人――マスターに向けている。
「我らが王ということは、この子が前に話してたセパス王かな?」
前に話してたって何?
「夢の話、したのか?」
こんな見るからに一般人に対して?
雲雀はお冷やを飲みながら頷く。
「だって、この人は関係者だもん」
関係者? ということは――
「その前に何か飲んだらどうだい?」
彼は少し身をかがめて顔をこちらに近づけると、「今日は奢ってあげるよ」と言って、メニューを僕らの前に広げた。
前の店よりも良心的な価格だ。
アルコールのたぐいはなく、スイーツ関係が多かった。
暑い中歩いてきたこともあり、二人揃ってミントの効いたレモンスカッシュを頼んだ。
矍鑠としたマスターが奥でレモンスカッシュを準備している間、雲雀に問いただす。
「あの人が関係者って、どういうことだ?」
「そのままの意味だよ」
「そのままって、同じ夢を見てる?」
「そ正しくはその関係者」
頷きながら、雲雀は指先でグラスに付いた結露をなぞる。
「ここのギャラリーの名前、見なかった?」
「名前……」
体をひねり、ギャラリー側に体を向けるが、名前が見当たらない。
「ギャラリーアンドカフェ『ノイセテス』と言うんだよ」
レモンスカッシュを乗せたトレイを手に店主が言った。
「はい、シャーベットはおまけだよ」
言いながら彼は、レモンスカッシュとシャーベットの入った器を並べていく。
「ノイセテスって、王妃の名前でしたよね?」
「私の妻だよ、ノイセテスは。先に逝ってしまったけどね。元々、ここには妻の作品を飾っていたんだよ。最近は個展で貸し出す方がメインになったけどね」
「画家、だったんですか?」
「いやいや、そんなに偉いもんじゃないよ。でもまあ、芸大を卒業していたし、小さい賞ももらっていたし、私はよく知らなかったんだが、ファンも少なからずいたみたいだね」
マスターは謙遜するが、それだって、ろくに絵を褒めてもらったことのない僕からすればすごいことだ。
「妻はよく、絵本のような、物語のワンシーンを若い頃から描いていてね、始めは私の知らない物語か何かなんだろうと思っていたんだよ。だけど、そうではなく、夢の中での自分の体験だと言っていたよ」
「夢の中での体験……」
「ほら、そこに飾ってるものは妻が描いたものだよ」
そう言って、主人が指差す先、カウンター席の後ろの白い壁に三枚の絵が飾られていた。
それぞれ、木製の額に収められた絵。
椅子から立ち上がり、近づいてよく見てみる。
「……これ、クレヨンですか?」
「そう、下に色を敷いて、上から黒いクレヨンで塗りつぶして、削って線だけ残していくんだ。昔は油彩画もやっていたけれどね。あれはかなり場所をとるからね」
それで、B5サイズ程度の小さな絵を描くようになったのだろうか。
全体的に暗い色彩だけど、とても幻想的な絵だった。
真ん中の絵は鏡に映った王妃ノイセテスだ。
黒くて長い髪。そして白い肌と青い瞳。
絵の中で彼女が着ているのは深緑色のドレス。
僕がまだ若いせいかわからないけど、夢の中で「美人だな」と思うことはあっても恋愛対象として見ることはなかった。