プロローグ
アヌトロフ>「なぜ、セパスという名前なんですか?」
SNSアプリに突然届いたメッセージ。
それがすべての始まりだったと今では思う。
スマートフォンの普及と共に、人は本来の名前の他にもう一つの名前を持つようになった。
ソーシャルネットワーク――ネット世界における名前。
実名をそのまま使う人もいるだろう。
作家やイラストレーターなどは、仕事の時に使っている名前を使う。活動の宣伝も兼ねて。
だけど、たいていの人は自分で「もう一つの名前」を作るだろう。
面倒くさがりは普段人から呼ばれる時のあだ名だったり、実名の一文字を拾ったり。
好きな過去の偉人の名前や、好きなアニメやゲームのキャラクタの名前を使う人もいる。
顔文字や絵文字など、おおよそなんて呼べばいいのか、記号を使う人も少なくはない。
そして世の中に、本来の名前と、ネット世界上の名前があふれかえる。
名前の飽和状態。
一人でいくつもの名前を使い分ける人もいるかもしれない。
だけど、ネット上での名前の意味を深く考える人は果たしてどれくらいいるだろうか?
本当の名前、本名は生涯つきまとうもの。だから、親やもしくは祖父母、親族は真面目に考える。
意味のある名前を与える。
一昔前に「キラキラネーム」と言って、おおよそ名前には似つかわしくない名前や漢字がニュースで取り沙汰されることがあった。
そこに、深い意味はあったのだろうか?
将来こんな人間になってほしいとか、こういう人生を送ってほしいとか。
「キラキラネーム」の多くは既存のキャラクタの名前などが多くみられた。テレビモニタの中で活躍するキャラクタのような人間になってほしい、そういうことなのだろうか?
自分の名前は他人から与えられる。
だって、生まれたばかりの「自分」は、アーとか、ウーしか言えないし、名前の意味もわからない。だからつけてもらうしかないのだ。
だが、それなりに物事を理解し、スマートフォンやパソコンなどのネットという広大な仮想世界にアクセスするための端末を手にした時は違う。
自分で名前を付けることができる。ゲームなんかもそうだ。
本名と違って、改名のために裁判所に行かなくてもいい。ボタン一つでいつでも改名が可能だ。
端末を手にした時は、ソーシャルネットワークの右も左もわからず、自分のもう一つの名前を考えるのにだいぶ時間を費やす人もいるだろう。
そして、使い慣れた頃に「なんだ、名前って簡単に変えられたんだ」と気が付くはずだ。
ネット世界における名前。
簡単に変えられるそれに対して、どんな由来があるのか、深く考える人は少ないと思う。
普段の発言やプロフィールに書かれた趣味嗜好から、なんとなく名前の故郷を察することはできる。
だから、そのメッセージを見た時、逆に「なぜそんなことを聞くのか?」と頭の中で呟いた。
メッセージが届いたのは、「ヴォイシンク」という本社はアメリカのソーシャルネットワークサイトでも最大規模のサイト、そのアプリ。
どうでもいいような呟きから、画像やムービー、少ない文字でのやり取りから、グループを作って、仲間内でのチャットなんかもできる。
フェイスレス・ワールド。
朝のニュースで社会学者だったか、大学の先生が言っていた。
顔が見えない世界。顔のない世界。
そこには年齢や立場といった、現実の社会で人を縛るものが存在しない。
たまにマナー違反な人がいて炎上――騒ぎが起きることがある。
そんな時、大人たちは決まって、親の教育が悪いとか、モラルがないとかモニタ越しのニュースキャスターに向かって言うけれど、騒がれる、その行為を批判する人々が多くいるということは、ヴォイシンクを使っている大多数はモラルある人間だということの証明。
二十一世紀になったって、人々の思考は変わらない。
空飛ぶ車も、タイムマシンもない。
生まれたのはフェイスレス・ワールドだけ。
ネットワークを介して、人との距離が縮まっただけだ。
これはネットニュースの受け売り。
本当だとは思っていない。
だから、「セパス」という僕の名前に対する質問が突然舞い込んできたところで、失礼な奴だな、とも思わない。
突然見ず知らずの人からメッセージが届くなんて珍しいことではないのだ。
「セパス」といういかにも二次元のキャラクターチックな名前。
どこから来たのか?
はっきりいって、僕自身よくわからないのだ。
物心つく頃には「セパス」という音が頭の中で響いていた。
高校生になり、電車通学となった僕に親が買い与えてくれた一台のスマートフォン。
それと、「ヴォイシンクのアカウントを作ろう」という友人の誘い。
指は勝手に「セパス」という名前をタップしていた。
「なにそれ? 何かのキャラ?」
クラスメイト、椎名一太がモニタを覗き込みながら聞いてくる。
彼こそが、僕をソーシャルネットの世界に引きこんだ張本人。
出会いは何のことはない。
高校に入学し、始めの席順は出席番号順。
僕の名前は塩入薫。
一太は僕の前の席だ。
「何かのキャラってわけじゃないんだけど、小さい頃に見たアニメの登場人物なのか、ずっと覚えてる名前なんだ」
「へー、お塩はお塩でいいんじゃね?」
「いや、案外多いよ」
始めは一太の言う通り、名字の「塩」を使おうと思ったが、「塩」も「ソルト」も満員御礼。そこに誕生日の四ケタの数字を入れるのも危険な気がして別の名前を考えた。
ただそれだけ。
本当にそれだけだったんだ。