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52 ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア

「痛――っ!」


 駆けていた途中に足をもつれさせてしまった姫は、派手に転倒してしまう。

 身にまとっていた“紅蓮のローブ”の効果なのか、地面に膝をしたたか打ち付けたにも関わらず痛みはまったくなかったが、代わりにローブで保護されていない前腕部に擦り傷を負ってしまっていた。


 思い返してみれば、最近はろくに食事も摂らずにベッドでうずくまってばかりいたのだ。

 そんな自分が急に体を動かせばこうもなろうと姫は自嘲し、立ち上がろうとする。


 ――が、姫の体は彼女が思った通りには動いてくれなかった。

 上体を起こそうとするも腕に力が入らないのだ。


「あれ……? 私の手……震えている……?」


 その言葉通り、姫の手は震えていた。

 そしてそれは手だけに留まらない。

 “震え”は姫の歯や足などに次々と伝播していき、やがて彼女の体全体がカタカタと震え出す。


 その震えが恐怖から来るものだと姫が理解するのに、そう時間はかからなかった。


 恐怖、そう恐怖だ。

 適度な衝撃には気付けの効果があるという。


 幸か不幸か、姫は転倒した際に受けた痛みによって、先ほどのまでのヒロイズムに酔っていた状態から醒めてしまう。

 つまり正気を取り戻してしまっていたのだ。


 こうなってしまうと、もはや先ほどまでのようにはいかない。

 先刻までの彼女は、友を救う――そんなヒロイズムに酔いしれて熱に浮かされていたようなもの。


 セリアスを助けたいという想いは本心からのものだが、しかしそのために命を捨てられるかと言えばそれはまた別の話。

 勝算があるならともかく、本来は理性的な人間であるところの彼女が、まったくの勝算もなしに無謀を冒せるはずもないのだ。


「あ……ああ……っ!?」


 そして姫は気付く。

 あの時、何故アレックスのことが気になったのかを。


 アレックスは怯えていた。

 それはいったい何に?

 戦場に出ることに?


 ――否。

 彼が真に怯えていたのは、自身の仲間たちに対してだ。


 姫の言葉で狂気に駆られ、簡単に命を捨てるような行動に出る仲間たちに。

 そして、自国の民を平然と死地へと駆り立てる姫にこそアレックスは怯えていたのだ。


「ま、待って……!? そんなっ……そんな……っ!!」


 姫は気付く。

 自分が、取り返しのつかない過ちを犯してしまったことに。


「あああ……あああああああ……っ!!」


 かつて彼女は自身を“餌”とすることで、隣国の兵士たちを死地(その時の姫はそう思っていたのだ)へとおびき寄せた。

 しかし、今回は前回のそれとはワケが違う。


 今回は、姫が、自国の民を、自身の言葉で、勝算もない戦へと、それも無意味に、駆り立ててしまったのだ。


「アアアアアァァァアアアアアアアアアアアーーーッ!!」


 自分の言葉のせいで罪なき民が死んでしまう。

 その事実に堪えられず、姫は喉が潰れんばかりに慟哭する。


 なんとかしなくては――そんなことを思っても、もはや状況を変えることは不可能であることを姫は悟っていた。


(な、なぜ……何故こんなことに……! そ、そうっ、これも全てあいつの……ウィザーのせいだ!!)


 そう、ウィザーが余計な情報を姫に与えなければ、こんなことにはならなかったのだ。


(それを言うと、あのドリィとかいう娘も同罪だ!!)


 ドリィが姫の部屋に余計なものを用意しなければ、こんなことにはならなかったのだ。


(あ、あの老人たちもだ!!)

 

 あの老人たちが余計な奮闘をしなければ、こんなことにはならなかったのだ。


(それに何より、全てはあの子が……セリアスが余計なことをするから!!)


 セリアスが余計な行動に出なければ、ずっと自分のもとにいてくれれば、こんなことにはならなかった――そんな風に考えて彼女は自分を弁護する。


 しかし、どれほど“言い訳”を重ねようとも、自身の心を偽れるはずもない。


「違う――っ!!」


 そう叫ぶと、姫は突っ伏したまま思い切り地面を叩く。


「全ては私のせい――なら私が責任を取らないと――っ!!」


 姫は状況を打開すべく、歯を食い縛りながら必死に頭を回転させる。

 何故なら力を持たない彼女には、それしか出来ることがない。


 しかし、それなら出来るのだ。


(ミルディンに投降する……?)


 まず浮かんだのはそんな考えだ。

 自身が投降する代わりに他の者たちの安全を保証してもらうというものだが、姫はすぐにそれを却下する。


 あの男がそんな約束を守るとは思えない。

 むしろそんなことを言えば、嬉々としてセリアスたちを嬲り出すことすら考えられるからだ。


(あとはあの男……ウィザーに頼るくらいしか……)


 と言っても姫にはウィザーに差し出せるような対価が何もない。

 頭を下げる程度でよければいくらでも下げるが、姫はウィザーが情で動くような男だとはとても思えなかった。


(そういえばあの時……)


 姫はふとある事を思い出す。

 それは彼女が“リルガミンの迷宮”を出立する直前のこと。


『貴方は……何故私にここまで……?』


『フン、貴様には借りがあるからな。それに、そこまで大したことはしていない』


 そう、“借り”だ。

 あの時ウィザーは、姫に借りがあると、確かにそう言ったのだ。


 あれはいったいどういう意味だったのかと姫は考える。

 思えば姫はウィザーに出会ってからという助けて貰いっぱなしであった。


 初めはセリアスの命を救ってもらったし、その後は身の安全と衣食住を保証してもらっていた。

 そんな姫がウィザーに貸しを作ることなど――と、そこまで考えて、姫はある可能性に思い至る。


(まさか、たったそれだけのことで……!?)


 ()()は、姫から見ればとるに足らない、ほんの些細なことであった。

 しかし、種族が違えば価値観も違う。

 姫から見ればそうでもウィザーからしてみれば、返しても返しきれないほどの大恩に感じられたのだとしたら?


(もし本当に私の想像通りなら……!)


 姫は必死に考える。

 本当にこれで良いのかと自分に問うが、彼女には策を推考している時間も悩んでいる余裕もなかった。


 ゆえに姫は立ち上がり、あらん限りの声でもって彼の名を叫ぶ。


「どうせ観ているのでしょうっ!? 出てきなさい、ウィザァァァーーーッ!!」


 かくして姫の声が届いたのか、その男は彼女の目の前に忽然と現れる。


「……姫ともあろう者がはしたない。そんな大声を出さなくとも聞こえている」


 現れると同時にそんな皮肉を言うウィザー。

 しかし、姫はウィザーの言葉に耳を貸さず、こう告げるのであった。


「取引をしましょう……ウィザー……!」

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