50 仄暗い水の底から
「――そうか、やはり戦闘が始まったか」
その報告を受けて男はギリッと歯噛みした。
戦闘が始まった――それはつまりクチカ村の住民たちが、あの大軍勢を相手に立ち向かったということだ。
なんと勇敢な者たちなのだろうかと、男はまだ見ぬ彼らに尊敬の念を抱く。
今すぐにでも彼らのもとへと駆けつけて共に戦いところではあったが、今現在彼が置かれている状況がそれを許さない。
彼が自身の状況を再度確認するために周囲を見渡すと、そこには何度も見ても変わることのない、憔悴しきった顔でへたりこんでいる大勢の民たちの姿があった。
彼の名はアレックス。
兵士になってからまだ数年ほどしか経っていないが、姫の国に仕えていた兵士である。
彼は今、数人の兵士仲間と、そしてその何倍もの数になる数十人の民を引き連れて、クチカ村目指して行軍を行っている真っ最中であった。
その途中、背後からミルディンたちの軍勢が迫っていることに気付き、慌ててこの森の中へと身を隠したというわけだ。
「アレックスよぉ! やっぱり俺たちも加勢に行ったほうがいいんじゃねぇのか!?」
アレックスの仲間であるカーネルがそんな提言を行う。
「それはダメだ。俺たちがいなくなったら、誰が彼らを守るんだ!」
が、アレックスはその提言を一蹴した。
アレックスの言う『彼ら』とは、つまり民のことである。
カーネルも、民のためと言われては弱い。
しかし、言葉に詰まりながらも、なお彼は提言を続けた。
「で、でもよ、このままじゃクチカ村も占領されちまう! そうなりゃ俺たち、いったいどこ目指せばいいんだよっ!?」
カーネルの叫びが森の中に響く。
すると、その声に驚いたのか、それともその内容に不安が爆発したのか、少し離れた場所から少女のすすり泣く声が聞こえてきた。
カーネルはバツの悪そうな顔をすると、それ以上何も言わなかったが、確かにカーネルの言うことにも一理ある。
対案を出すことが出来ずに、今度はアレックスが言葉を詰まらせる番となった。
彼らがクチカ村を目指していたのにはワケがある。
アレックスたちの隊長の犠牲により、辛くも燃える王都から脱出した彼らであったが、まず問題になったのが“どこに逃げるのか?”ということであった。
様々な案が出ては却下されていく中で、誰かがクチカ村の名を出した。
何十年か前に流行り病が蔓延して以来、王都との交流が途絶えて久しいが、あの村であれば隣国の侵略はまだ受けていないはずだ、と。
反対意見が出なかったことにより、彼らは一路クチカ村を目指すことになったのだが……。
あと一歩というところで、ミルディンたちの軍勢に追い付かれてしまっていたのだ。
しかし、だからと言ってここから引き返すことも難しい。
慣れぬ行軍に、乏しい食料。
長期に渡る逃亡生活により、民たちはもはや限界が近い。
いや、とうに限界など越えていると言ってもいいだろう。
今から再度別の場所を目指すとなればいったいどうなるかは、火を見るより明らかであった。
つまりアレックスたちは、進むも地獄、戻るも地獄の袋小路へと陥ってしまっていたのだ。
(隊長……俺はいったいどうすれば……!)
アレックスは今は亡き隊長に助けを求める。
そもそも彼は兵士といっても、まだ新米に毛が生えた程度のものでしかなく、まだ若い彼とその仲間たちに、このような重大な決断を下させるのは酷という他ない。
もちろん集団の中には、アレックスたちよりずっと年上の人間、それも男はいる。
それにも関わらずアレックスたちが集団のリーダー的役割を担わされているのは、彼らが“兵士だから”――ただそれだけの理由であった。
はんば押し付けられただけのリーダー的立場であったが、それでもアレックスは自らの責務を果たすべく必死に考える。
カーネルの言うように、もはや他に道はなしと玉砕覚悟で敵軍に突っ込む?
しかし、それでいったい何が守れるというのか。
結局それで守ることが出来るのは自身のちっぽけな自尊心だけだ。
アレックスが守りたかったものはそんなものではない。
(そうか……考えるまでもなかったんだ……!)
アレックスは思い出す。
自分がいったい何者であるのかということを。
彼は兵士である。
ならば国を、民を守ることこそが彼の使命。
そしてそれは、アレックスが隊長から受けた最期の命令でもあった。
ゆえに彼は決断を下す。
「……戻ろう」
短く、そして静かに発せられたその言葉。
しかし、その言葉はカーネルたちに衝撃をもって迎えられた。
アレックスは、隊長に救われた自身の命を安易に捨てるよりも、たとえ無様であろうとも最後まで足掻き続けることを選んだのだ。
「お前――ッ」
予想だにしていなかった返答に怒りを覚えたカーネルが、アレックスに突っかかろうとする。
その瞬間のことであった。
「――貴方様はっ!?」
後方でそんな声が聞こえたかと思うと、民たちがにわかに騒ぎだす。
アレックスたちは敵襲かと即座に戦闘態勢に入るが、しかし民を間を縫って現れたその人物は――
「貴方たちがここの代表者ですね?」
疲労のあまり幻覚でも見ているのだろうかとアレックスたちは困惑する。
それほどまでにその人物は、ここにいることがありえない人物であった。
しかし、彼らがその人物を見間違えようはずがない。
アレックスたちの前に突然現れたその人物は、彼らが仕える国の姫その人であった。




