万年講師(2024年編集)
~ 阿蘇くまもと空港 ~
「ついに来たな、熊本の地へ。プライベートじゃ、中々、来る機会がないからな」
到着するなり、氏原は、県道36号線(第二空港線)の中央分離帯に植えられた、ヤシの木に感銘を受け、表情を緩ませた。
「佐久間、あれは何のヤシの木だ?」
「あれは、カナリーヤシだ。もう少し細いものは、ワシントンヤシだが、使い分けているのだろう」
「南国らしくて、良いねえ。ここから、目的地までは、どのくらいかかるんだ?」
「…少し、待ってくれ。山さんメモを見てみるよ」
佐久間は、山川お手製のメモを取り出した。丁寧に、路線名や駅名、行き先、乗り場番号まで記載されていて、山川の几帳面さが、よく出ている。
「阿蘇くまもと空港から、熊本交通センターまで、バスで約一時間。路面電車の上熊本行きに乗り換えて、辛島町から上熊本までが、約二十分。さらにJR上熊本駅で、肥後本線の福岡行きに乗り換えて、1駅先の崇城大学前駅で下車する。所要時間は五分くらいだろう。乗り換え、待ち時間を含めると、二時間くらいだな。確か、上熊本交番の岡元巡査が、出迎えてくれるはずだ」
「仕事は、きちっと、こなすから、馬刺し食って帰ろうぜ。熊本名物なんだろう?」
「ああ、捜査が終わったらな。空港近くの県道沿いに、実は、馴染みの店がある。霜降りの馬刺し定食が、二千円で食べられるんだ」
「それは、楽しみだ。では、崇城大学に行くとしますか」
二人は、バスに乗り込み、一番後部座席に座った。熊本市内行きのバスは、テクノリサーチパークを通過し、軽快に市内を目指す。
「氏原、向こうに見える山々が、阿蘇山だ。白川水源も有名だし、野生の馬が走っているぞ」
氏原は、食い入るように、景色を楽しんでいる。
「本当だ。テレビで見るものとは、別もので、…雄大だな」
「益城町あたりまで、のどかな景色が続くが、水前寺公園、健軍町を過ぎたあたりから、市街地に入る。熊本大学付近には、細川元首相の邸宅があるんだ」
「国中を、飛び回っているだけあるな。千春ちゃんも、一緒か?」
「熊本県には、来たことないな」
「誘えば、良いのに」
「千春は、京都派なんだよ。愛知県を経由して、京都に、時々行っている」
「…九条大河か?」
「ああ、九条大河には、捜査協力を求める機会が増えたよ」
陸上自衛隊 健軍駐屯地を過ぎた辺りから、景色が変わる。
「路面電車だ。独特だろう?」
氏原は、子供のように、車窓に手をつけ、感心しながら眺めている。
「初めて見た。一般車両と、併走して走るんだな。…信号ルールも、違うんだ」
「ああ、路面電車専用のルールが、この熊本にはある。広島市も同じだ。慣れないと面食らう」
「あと、自転車も多いぞ?」
「熊本市内は、こじんまりとしているからな。大通り沿いに、ぐるっと回るより、自転車なら、ショートカットで、突き抜けられる。学生は、路面電車より、自転車を選ぶのも、その理由からだろう。水道町に入ったから、間もなく前方に、熊本城が見えてくるぞ。交通センターに着く頃だ」
氏原は、眼前に見える熊本城に興奮した。
「本物だ、本物の熊本城だ。そびえ立ってるぞ」
「そうだろ、私も初めて見た時、感無量だったよ」
交通センターで下車した二人は、路面電車に乗り込んだ。
「常磐線と同じ間隔で、すぐ乗車出来るとは思わなかったよ。車内は、電車というより、路面バスみたいな間隔なんだな。それにしても、路面電車って、凄いんだな。割と、狭い空間を走っているぞ」
「土地柄なんだよ。道路用地幅が決まっていて、その中で運行するしかなかったのだろう。重要文化財も多いだろうし、新たに鉄道用地を確保出来ないのだと思うよ」
二人が、路面電車の話で盛り上がっている間に、もう終点の上熊本だ。予定通り、岡元巡査が出迎えてくれる。
「佐久間警部ですね?テレビで、お見かけしたことがありますから、すぐに分かりましたよ」
「警視庁捜査一課の佐久間です。こちらは、科捜研第二化学科の氏原です」
「どうぞ、よろしく」
二人と挨拶を交わした岡元巡査は、車両の扉を開けた。
「現場まで、パトカーでご案内します。すぐ着きますよ」
パトカーに乗り込み、県道31号線(熊本田原坂線)を北上すると、程なくして、前方に、巨大な城壁はそびえ立っている。
(………?)
氏原は、思わず首を傾げ、尋ねた。
「中世の城っぽいホテルじゃなくて、崇城大学に行くんじゃないのかい?」
岡元は、大笑いした。
「絶対、間違えますよね?あの城壁、実は、大学のモチーフなんです」
「どう見ても、城壁じゃないか?」
「学長の趣味らしいですよ。学費が高すぎると、地元では有名です。学内には、リニアモーターカーの研究施設や、スペースシャトルの形をしたエレベーターがありますよ」
「はあ、何とも凄いね」
「岡元巡査。大学の状況は分かったから、まずは、事件現場を案内してくれないか?」
「分かりました、停車します」
Uの字の、急勾配の坂を登り切ったパトカーは、平坦部分に車両を寄せた。三人は、坂を少し戻り、岡元は、茂みの端を指さした。
「この場所で、うつ伏せで倒れていました」
佐久間たち、注意深く、周囲を観察する。茂みの端ではあるが、少し歩くと、逃走は容易い。深夜であれば、道路照明が当たらず、いくらでも死角が出来る地形だ。道路に面しているとはいえ、注視しなければ、見落とすであろう。
(………)
「佐久間、思った通りだな?」
「犯人は、おそらく坂を登らず、路地をうまく利用したのだろう。付近の雑木林に、いくらでも痕跡を隠せるし、事前に準備も出来る。早々、人が立ち入るような場所でなさそうだから、犯行を行うに、絶好の場所だよ。私が犯人でも、この場所を利用するだろうね」
岡元は、興味深く聞き入る。
(………)
佐久間は、死角の地に、僅かながら違和感を憶え、首をひねった。
(犯行場所としては、有利な地だ。…犯行しやすく、逃げやすい。…だが、何故、死体を隠さず発見されやすくしたのか。…普通なら、雑木林に隠して、逃走時間を稼ぐ訳だが。…誰かに対する予告だと、言いたいのか?」
「岡元巡査が、被害者の確認をしたんでしたね?どんな感じだったんですか?」
「現着した時には、既に、生き絶えていました。口から薬物の臭いと、失禁を確認したので、通信指令室に、『毒殺の疑い有り』と報告し、大々的になりました」
「他に、気にかかる点は、ありませんでしたか?」
(………)
岡元は、言葉に詰まる。
「…それが、無我夢中で、鮮明に覚えていないんです。初動捜査が始まった時には、規制線対応をしておりまして…。鑑識作業など、見ることが出来ませんでしたから」
(仕方はないか)
「…では、群衆の中に、不審者はいなかったかな?例えば、野次馬の振りをして、捜査状況を尋ねてくる者とかね」
(………)
「…どうだったかな?……やはり、記憶にないです。申し訳ありません」
「こちらの科捜研は、あの雑木林を、調べていたかね?」
「ええ、かなり広範囲を調べていましたよ。三時間程度、捜査していましたから」
(熊本県警察本部も、同じ違和感を憶えたようだな)
「被害者の詳細情報を、聞かせてください」
「はっ。被害者は、船津大介。四十六歳、独身。崇城大学で、応用微生物学科の講師です。住まいは、熊本市北区植木町と聞いています」
「植木町は、ここからどのくらいですか?」
「三十分程度で行けるかと」
(行けない距離ではないが)
「家宅捜索の結果は、後で聞くとして、まず、崇城大学で、聞き込みをしてみよう。何か話しを聞けるかもしれないぞ」
佐久間たちは、正門に向かった。正門は、坂の上にあり、三十メートル手前から、警備員が立ちはだかる。
警察手帳を提示すると、警備員がすぐにどこかに電話を入れ、程なく入場を許可された。警備員に案内された経路で、応用微生物科を目指す。
「とにかく、船津大介の人柄や、研究内容を探ってみよう」
(応用微生物科は、…中庭の方か)
正門から、右手に進むと、また坂である。
「佐久間、九州は坂道だらけと聞いていたが、本当だな」
「長崎に比べれば、かわいいものさ」
「警部、あの高い棟は、土木工学科と建築学科が入っています。あの棟から、左手の階段で下ると、応用微生物科の建物があります」
「詳しいな、もしかして?」
「実は、崇城大学の卒業生です」
「では、被害者の船津大介と面識が?」
岡元は、首を横に振った。
「船津大介の着任は、私の卒業年度の翌月なので、面識はないんです」
「そうか、では、情報収集するしかないな」
佐久間たちは、中庭で手分けして、学生たちから、船津大介の評判を確認した。
集約すると、次の通りである。
◯毒物学を専攻研究していた
◯学科では、一般薬学を教えていた
◯時間にはルーズで、休講が多かった
◯パワハラで有名だった
◯学会用論文は、自分で書かず、学生たちに手伝わせていた
◯教授から、疎まれているようだった
「聞く限り、評判は良くなかったな。故人を悼む生徒がいない。話が飛躍するが、船津大介は、車で通勤していたのか、初動捜査でどうだったか聞いているか?」
「車通勤だったと、大学関係者から、情報を得ています。大学内に駐車場があって、グラウンドの裏手に駐車していたはずです。駐車場から、裏道をグルっと迂回していくと、先ほどの事件現場まで、辿りつけます」
「船津大介の車は、まだ駐車場に?」
「機動捜査隊で、念のため調べましたが、不審な点がなかったので、身元引受人が取りに来るまで、放置だそうです」
佐久間は、左手で、顎先を撫でるように触った。
(現場までは、徒歩で来るように、呼び出されたということか。正門から一度下りきって、現地へ行くために、急勾配の坂を、歩いて登るよりかは、裏門から行った方が、はるかに楽だ。…犯人は、どのような話で、船津大介を誘ったのか?……それとも、どこか別の場所で殺害し、遺棄したのか?)
「氏原、あとで熊本県の科捜研に、擦過傷の有無と、不審な点がなかったか問い合わせみてくれ」
「分かった。『現地で殺害されていない』と思うんだな?」
「ああ。自ら、みすみす行くとは思えない。どこかで殺害されて、遺棄されたと考えた方が早い。擦過傷がなくても、捜査を攪乱するために、慎重に遺棄すれば、偽装は出来るからな。科捜研なら分かるだろう」
「次は教務課へ案内します」
~ 教務課 ~
「警視庁捜査一課の、佐久間と申します。学長と、船津講師の上司に面会したいんですが?」
(------!)
窓口の職員が、警視庁と聞いて、慌てて学長に連絡を入れている。
五分後、笹山学長と上妻教授が現れ、教務課の最奥に通された。教務課の職員たちは、仕事の手を止め、こちらの動向を伺っている。
「東京から、刑事さんが、わざわざお越しになるとは。例の絡みですか?」
佐久間は、ドア越しに、会話内容が漏れぬよう、静かにドアを開け確認すると、聞き耳を立てていた職員たちが、蜂の子を散らすように、慌てて持ち場に戻る。佐久間は、職員たちに、事情を説明した。
「申し訳ありませんが、機密情報を少し語るので、聞き耳を立てないようお願いします。場合によっては、公務執行妨害になりかねません」
(------!)
「公務執行妨害とは、穏やかではありませんね?」
佐久間は、表情を変えず、ソファに腰掛けると、早速、本題に入る。
「船津大介の殺害事件ですが、熊本県警察本部による捜査ではなく、警察庁テロ対策特別チームで、捜査を開始しています」
(------!)
(------!)
笹山と上妻の表情が、固まる。
「ち、ちょっと待ってください。船津大介の死は、普通の殺人事件ではないのですか?熊本県警察本部の任意聴取では、そのような話、一言も出ませんでしたよ」
「犯行に使用された毒物は、サリンです」
(------!)
(------!)
「サリンって、あのサリンですか?」
二人の開いた口が、塞がらない。思わず、顔を見合わせた。
「それだけでは、ありません。類似の事件が、岡山県でも発生しました。昨夜のうちに、警察庁で会議があって、テロ対策特別チームが、発足されたという訳です」
(------!)
(------!)
事態を重くみた笹山が、上妻に詰め寄る。
「上妻教授、君は、何か隠しているんじゃないのかね?この事件に、船津講師が関わっていたとすると、間違いなく、監督不行き届きで、君は、解雇だ」
上妻は、慌てて反論する。
「学長、待ってください。船津大介は、確かに毒物学を研究していましたが、私は決して、船津大介の研究成果を、一切認めていませんでした。万年講師は、そのためです。お忘れですか?」
佐久間の目が、光った。
「……ほう。少なからず、上妻教授は、把握しておられますな?」
上妻は、開き直って、ソファに深く腰掛けた。言い逃れしない方が、得策だと思ったのだろう。
「当たり前です。研究室は、私の息が掛かっているんです。サリンっていうものは、世の中が思う以上に、精製が難しいんです。一体、どうやって、私の目を盗んで…」
「お待ちください。まだ、船津大介が、サリンによって殺害されただけで、加担した証拠は、断定出来ていません。しかし、殺されたのには、必ず理由があり、犯人と繋がりがあるはずです。船津大介の履歴書開示と、研究室を確認したいのですが?」
(………)
「お断りすると言ったら?」
笹山の発言に、氏原たちは『意外だ』の表情を見せるが、佐久間は微動だにせず、口を開く。
「そのような事も想定し、裁判所に捜査員を待機させています。私の一言で、捜査令状の即時発行が出る手筈をしているので、通常、数時間掛かるところを、ものの一時間で処理出来ます。私の号令により、今から、一時間半後に、警察庁、警視庁、熊本県警察本部合同で、崇城大学の家宅捜査を実施します」
(------!)
(------!)
「じょ、冗談ですよ」
上妻教授は、学長に耳打ちする。
「学長、本当に、冗談は、やめてください。一刑事だと、高をくくると、まずい。佐久間警部は、テレビで何度も、見たことがあります。立場は、警部ですが、それなりの権力を持っていると思った方が良い」
(………)
「佐久間警部。失礼ですが、あなたは、キャリア組ですか?それともノンキャリアですか?」
氏原は、僅かに、眉根を寄せる。何か、口にしようとしたところを、佐久間が、左手で御した。
「捜査と、何か関係が?」
「いえ、捜査に協力したくないと言う訳ではないんです。警察庁の合同捜査で、警察庁ではなく、警視庁の刑事さんが、お見えになった。しかも、指揮権をもっている。立ち位置というか、佐久間警部の素性に、興味が沸いてしまいました。…いや、失敬。老人の戯言です」
佐久間は、深くため息をつく。
(……全く。どこの世界も、変わらないな)
「おい、佐久間、良いのか?岡元巡査も、聞いているぞ?」
「大丈夫だよ」
佐久間は、少し、間をおいてから、口を開いた。
「警視庁の一刑事が、警察庁で総括指揮を執る。大学側の目線で例えるならば、一講師が、大学の学長の代行で、理事会で発言する。当たらずと雖も遠からず…とでも言いましょう」
(------!)
(------!)
上妻は、高揚を隠せない。
驚くのは、上妻だけではない。岡元巡査もである。
(佐久間警部が、警察庁の中で、陣頭指揮?それって…)
氏原は、岡元の心情を読み取り、刹那的に釘を刺した。
「その顔は、察したようだな。幹部以上しか知らない。その意味を知るんだ」
(------!)
「そういうことです。まあ、普通に考えて、警視庁の人間が、特別チームの捜査指揮を執る時点で、勘ぐられますが。身の上話は、よろしいですか?約束通り、捜査には、協力して頂きますよ」
「分かりました。上妻教授、研究室を開放したまえ。捜査している間に、履歴書も用意する。これで、よろしいでしょうか?」
「助かります。お二人に、念を押しますが、この事案は、警察内部でも、知られていない守秘義務です。この手の噂話が、外で聞こえた場合には、真っ先に、あなた方に疑惑の目が掛かります。どうか、ご内密にお願いします」
二人とも、思わず生唾を飲んだ。
「わ、分かりました」
~ 船津研究室 ~
「ここが、船津大介の研究成果です。好きなだけ、見て頂いて構いません。席を外しましょうか?」
「いえ、その必要はありません。外部の人間を、単独にするのは、互いにまずい。紛失や誤解を防ぐためでもあります。監視していてください。…では、氏原、始めよう。岡元巡査は、無闇に触らず、見ていたまえ」
「は、はい。勉強させて頂きます」
佐久間たちは、用意した手袋を装着すると、棚のファイルから、調べ始めた。怪しそうなファイルは、次々と選別され、応接テーブルの上に、積み上がっていく。毒物学を専攻研究しているだけあり、並の刑事では、選別もままならないが、科捜研の氏原が、専門知識をいかんなく発揮し、佐久間を補助している。
(………)
佐久間たちの、物的捜査を見守る上妻が、岡元に耳打ちした。
「あんたは、佐久間警部のことを、どの程度、知っているのかね?」
「全国トップクラスの刑事と聞いています。テレビで、顔は知っていました」
「ここだけの話なんだが、実は、私も見たことがあるんだ。…あれは何だったかな?…確か、ミステリー作家の事件と、山川って刑事が逮捕された時だな。……そうそう、思い出した。あれが、一番印象深かった。被害者家族に、土下座して謝罪した時かな。自分には、直接関係ない、過去の警察組織の不祥事を、躊躇無く、謝った。あれには、全国中が度肝を抜かれたな。中々、全国ネットの生中継で、土下座は出来ないぞ」
「あれは、熊本県警察本部でも、話題になりました。マスコミも、佐久間警部には、心情的に、協力したくなるみたいです」
(うんうん)
「トップに立つ男は、責任を取れる人間だ。君も、頑張りなさい」
(いや、いや、いや。無理でしょう)
「自分なりに、頑張っては、いるのですが…。キャリアでないんで、交番止まりですよ、多分」
「小事を気にするようじゃ、一端の刑事には、なれないぞ?」
(------!)
ハッと振り返ると、佐久間が、棚のところで、ほくそ笑んでいる。
「岡元巡査、先輩として、尋ねる。何故、警察官になった?」
(………)
「昔、自分の身内が、事件に遭いまして。当時の警察では、解決出来なくて、迷宮入りしたんです。時効ギリギリに、なんとか、解決しましたが」
(………)
「警察の不甲斐なさに、憤った。『自分だったら、もっと早く、解決する』と自負したんだな?」
岡元は、強く頷いた。
「はい、その通りです」
(………)
「察するに、大義をいつしか忘れ、ボケッと、警らしているだけではないのか?」
(------!)
返す言葉がない。いつの間にか、佐久間が、岡元の正面に立っている。
(------!)
「いいか、確かに、『平和』が一番だ。しかし、その平和を保つことが、一番難しいんだ。キャリアがどうだとか、配属がどうだとか、交番勤務がどうだとか言う前に、目の前の事件や、職務を誰よりも、こなしてみろ。苦労した分、結果は後からついてくる。本気で刑事になりたいのなら、誰よりも苦労し、捜査にも、顔を突っ込め。規制線を張り、維持するのも、大事だ。だが、与えられた仕事だけしていたら、それ以上は、伸びない」
(………)
遠くから、氏原の独り言が聞こえる。
「十年前、どこかのお馬鹿さんは、交番勤務していて、殺人事件の現場に遭遇した。岡元巡査と同じように、規制線の前で、仁王立ちさ。ところが、気づけば、お馬鹿さんがいない。鑑識官と話し、その場で、捜査方針にケチをつけてしまった。当時の捜査一課は、カンカンで、上から相当怒られたっけ。『組織として成り立たない』ってね。でも、どこかのお馬鹿さんの推理で、事件が解決。その後、警視総監賞を受賞したとさ。…まあ、当時から、毛並みが違ってたけれど」
「氏原、余計なことを」
「本当のことだ。おしゃべり、おしまい」
(佐久間警部が、同じ交番勤務?…いや、それよりも、自分はどう思った?捜査に入りたいなと、指を咥えて、見ていただけだ。…何で、『勉強させてくれ』と、頼めなかった?……この差か)
上妻は、岡元の肩に手を置いた。
「まだ若いし、きっと間に合うさ。まさに、一期一会だ」
(------!)
岡元は、途端に、目頭が熱くなり、必死に堪える。
「えへへ、そうですね。今の僕は、邪魔にしかなりませんが、大先輩の捜査を、盗ませて頂きますよ」
その様子を、微笑ましく見ながら、佐久間は、叱咤を忘れない。
「なら、もっと近くで盗むんだ。遠慮は、いらない」
「はい!」
~ それから、三十分経過 ~
「氏原、やはり、類似した薬品が出てきたな?」
「…ああ。イソプロピルアルコール、リン塩化物、アトロピン。どれも、サリンに関連しているな。一瓶ごとに間隔が空いているから、熊本県科捜研が、持ち出したのだろう」
「気になるのは、硫酸ニコチンやパラコート、パラチオンだ。どれも、劇薬だぞ?サリンには、関係ないだろうと、持ち出されていないようだが」
「ちょっと、良いかな」
上妻が、口を挟みたいようだ。
「邪道で、道を外した研究だよ」
(邪道?)
「船津大介は、『毒物学には、必要不可欠だ』と、決して譲らなかったがね。…危険すぎるのだ。生徒が、誤って持ち出したり、不用意に触らんよう、常に監視していたよ」
(…静観していた訳でもないようだ。教授なりに、未然に防ごうとしていた。…潔白だろう)
「…状況は、理解しました。二次被害は、防げたという訳ですね。岡元、何か、気になる物は見つかったか?」
「亡くなるまでの一ヶ月間、医療品メーカーと、打ち合わせしたり、会食に参加していたようです」
(------!)
「また、あいつは!」
上妻が、怒りを露わにする。
「どういうことです?」
「……接待だよ」
「医者の世界と、一緒さ。医療品メーカーや、テキスト販売の出版社と、こっそり会って、私腹を肥やすんだ。…まあ、だからこそ、助教授にも推薦されなかったのだが」
氏原が、他の薬品を探索する中、佐久間は、ふと手を止めた。
(…何か、引っかかる)
「上妻教授、ちょっと宜しいですか。…接待についてですが、教授である上妻なら、納得がいきます。何故なら、教授には、人事権があるからです。一番下っ端である、講師が、何故、接待を受けられますか?講師が、便宜を図るなど聞いたことがありません。医療品メーカーだって、同じでしょう。甘い汁を吸える相手を選ぶはずだ」
(------!)
上妻も、佐久間の疑問に、相づちを打つ。
「そう言われてみれば、そうだな。講師に、見返りを求めても、せいぜい、教授の私に、顔繋ぎするだけ。…では、何故、そんな頻繁に、接待を受けたのかね?」
佐久間は、左手で、顎先を撫でるように触り、仮説を立てる。
(もしかすると、この中に犯人が?犯人は、行動したくても、薬物の知識がない。だから、何かあった時に、切り捨てられる手駒が欲しかった。大学教授では、足がつきすぎる。だが、講師なら御しやすいし、都合が良い。…そんな簡単に、尻尾を掴ませないだろう。…もう少し、検証が必要だな)
「岡元、良いところに目をつけてくれた。ここ半年、いや、…三ヶ月前から、船津大介が接触した者たちを、全てメモしてくれ。岡山県の事件でも、該当するかもしれない」
「分かりました」
「氏原は、室内の薬品を、全てメモしてくれ」
「もうやってるよ」
「私は、パソコンをチェックしよう。パスワードは、知っている」
上妻も、率先して、捜査に協力する。
「助かります」
教務課から、履歴書が届けられ、研究室での、必要な捜査が完了した。
「とりあえず、足掛かりは出来たな。岡元巡査は、植木町の自宅アパートを、再度洗ってくれ。住所は、履歴書に書いてある。私から、熊本県警察本部に電話し、『捜査一課のメンバーに加えろ』と命じておくから、頼むぞ」
(------!)
上妻が、岡元の肩を、今度は『ポンッ』と叩く。
「良かったな」
(捜査一課に、自分が?……夢みたいだ)
氏原が、岡元の頭を、鷲掴みする。
「人と人の繋がりは、無限の可能性を秘めている。この出会いは、大切にしろよ?」
佐久間も、微笑む。
「これも、今まで、警察官として生きてきた結果だ。通信指令室に振り回されて、悔しい思いや、理不尽なこともあっただろう。それらを糧とし、今日に至る。…ここからは、自分の頑張り次第だ」
「は、はい。ありがとう、ありがとうございます!頑張ります!」
(………)
「上妻教授。色々と、半ば強引に捜査してしまいました。本来、この手法は、好みません。歳上の方に、この振る舞いをした非礼、深くお詫び申し上げます」
佐久間と氏原は、深々と頭を下げ、謝罪すると、岡元も、右に倣った。
(------!)
上妻も、想定外の謝罪に、大いに動揺した。
「謝罪など、とんでもない。他言したくない、素性まで掘り下げ、こちらこそ、深くお詫びします。どうも、この学力社会にいると、『建前論と権力』で、物事を判断してしまう。特に、『教授という地位』は、諸悪の根源みたいなものですから、初心を思い出せました。本来なら、朝まで杯を交わしたいところですが、事態は、逼迫しているようだ」
「上妻教授には、隠せませんね。…お察しの通り、芳しくありません。このまま、岡山県に行こうと思います」
(------!)
この発言に、氏原は、間髪入れず、苦言を呈する。
「異議あり!おい、佐久間。馬刺しを食わせるって言ったじゃないか?岡山県の捜査は、明日だろう?馴染みの店は、どうした?ころころ、話を変えるなよ」
「あの、ちょっと宜しいですか?」
岡元が、嬉しそうに提案する。
「それでしたら、三角港近くに、幻の名店があります。こっそり、みんなで行きましょう。今の時間なら、飛行機で行っても、新幹線で行っても、今日中に、岡山県に行けるし、明朝の捜査に、支障はしないと思いますよ」
上妻教授が、提案に食いついた。
「岡元巡査、それはもしかして、福原精肉かね?」
「はい、そうです」
「ぜひ、連れて行ってくれ。あれは、美味い」
「だそうだ?……佐久間大明神さま」
佐久間は、三人の気迫に、思わず苦笑いした。
「…後輩の意見に従おう。但し、パトカーはダメだぞ。タクシー代は、私が出そう。それと、時間休は目をつむるが、私服には、着替えろよ」
「車なら、上妻号を使えば良い。普通の自家用車だし、車両保険が気になるなら、大丈夫。誰が運転しても良いように、無制限に入っているからな」
「では、お言葉に甘えます、教授」
「そうこなくっちゃ!佐久間の気が変わらないうちに、さっさと行こうぜ。岡元、急いで、戻ってこいよ」
「はい、直ぐに戻ります」
「速度超過は、厳禁だぞ」
岡元は、喜び勇んで、戻っていった。
(……人と人との繋がりか。確かに、そうだな)
熊本県での捜査を終え、この瞬間だけは、互いの繋がりを大切にしようと、気持ちを切り替える、佐久間たちであった。