雨の午後(2024年編集)
~ 十月十日、熊本県熊本市中央区 ~
熊本大地震で損壊した、熊本城の修復作業を、横目に見ながら、岡元孝仁は、平和な日常を、噛みしめながら、今日も元気に、警らしている。
(すっかり、空気が冷たくなったな。…そろそろ、阿蘇の秋桜でも、見に行こうかな)
上熊本駅前から、自転車で熊本市内に向かい、県道1号線の坂道を越えると、熊本市役所前から健軍町方面に、一般車両と並走する、路面電車の車窓が視界に入った。抱っこされた男の子が、手を振ってきたので、こちらも思わず、手を振り返す。
反応したのが、余程、嬉しかったのだろう。
何度も手を振り、やがて母親も、こちらに気がつき、『すみません』と言わんばかりに頭を下げ、岡元も微笑みながら、会釈した。
交通広場から繁華街に入ると、紳士街通りアーケードから下通りアーケードへと、通りの名称が変わる。中心部の繁華街は、路面道路が走る、県道28号線の通町から水道町を軸に、北側が上通りアーケードで、鶴屋百貨店が入る南側が、下通りアーケードである。熊本県の若者は、主に、この通りを行ったり来たりし、買い物を楽しむのだ。
平成6年頃までは、ディスコが、新市街の地下に入っていたが、現在では、面影すらない。バブルが弾けて、街の様子も様変わりしていき、ディスコが、モツ鍋店に変わったかと思えば、そのモツ鍋店も、いつしか、ブームの終わりとともに、ある日突然、姿を消した。
変わらないのは、狭いアーケード街の、古着屋を巡る、学生たちの姿だ。
独創的な身なりで、買い物を楽しみ、それぞれが、自由を謳歌している。
(今年は、ペンドルトンのジャケットをよく見かけるな。スラムダンクの作者が、バイトしていた古着屋は、……今日も、変わらず、盛況のようだな)
かつてほど、古着屋は多くはないが、熊本県民は『東京に次いで、日本で2番目に、オシャレ意識が高いと自負している』と、誰かが言っていたのを憶えている。
(今日も、この街は、平和だ)
下通りアーケードから、上通りアーケードを抜け、藤崎宮交差点の『異常なし』を確認してから、県道1号線を熊本城方面経由で、再び坂を越え、交番へ帰る。これで、一回の警らが終了である。
約四十分程、掲げていた不在表を片し、交番内に入ったところで、内線連絡が入った。
「通信指令室より、巡回中の三号車、および上熊本交番へ連絡」
(------!)
「上熊本交番、岡元です」
「こちら、三号車片山」
「二分前に、『路上で人が倒れている』との110通報あり。意識がない模様。所在地は、西区池田四丁目、崇城大学付近。現場の通報者と接触し、状況を報告せよ。現在、救急車を手配中」
「三号車、現場へ急行する」
「上熊本交番、直ちに、現場へ急行します」
(リスポンスタイム、七分以内だ)
岡元は、パトカーに乗り込むと、すばやく、赤色灯とサイレンを鳴らし、現場へ向かう。
崇城大学は、上熊本駅から、県道31号線を北上し、3キロメール程の場所にある。元は、熊本工業短期大学だったが、1967年に熊本工業大学として開学。2000年に、現在の崇城大学となった。地元では、私立大学が少ないため、『お金持ちが通う大学』と知られている。巨大なレンガで作られた城壁が特徴的であり、九州新幹線の車窓からでも、一目瞭然である程、インパクトが強い。学部は、工学部、情報学部、生物生命学部、芸術学部、薬学部と多岐に渡り、特にバイオ分野、エネルギー分野、宇宙開発分野には国内を通じて、一定の評価を得ている。
三号車よりも、岡元が先に現着した。
通報者は、パトカーを見かけると、大きく手を振り、現場を指した。周囲は、野次馬が駆けつけ、物々しい雰囲気だ。
「お巡りさん、こっちです!」
「えー、みなさん。捜査の邪魔になりますから、もう少し下がってください。直ぐに、パトカーと救急車が来ますから、道をあけて、ご協力ください」
学生たちが下がると、岡元はまず、カラーコーンで簡易的な区分けをしてから、通報者に声を掛けた。
「えーと、あなたが、第一発見者で、通報をくれた。間違いないですか?」
「間です、…間 勝男と言います」
「間さんですね。詳しくは、後ほど伺いますが、まずは、一緒にお願いします」
「それはもう。…あの茂みです。ほら、足が、ここからでも、見えるでしょう?」
(------!)
言われた通り、路上の端に生えている、茂みに目をやると、容易に確認出来る。状況を確認した瞬間に、岡元の表情が曇った。
既に、事切れている。
(……遅かったか。外傷は…なし。病死か?……ん?これは?)
半身うつ伏せになった、被害者の上半身を確認すると、口元から、かすかな臭いがし、苦悶の表情で、絶命したのが分かる。下半身は、失禁した様子が残っており、何らかの薬物反応である疑いが強い。
(こりゃあ、大変だぞ)
「みなさん、無線で応援を呼びますから、そのまま、下がっていてください。絶対に近づかないで!」
ざわつく学生たちに、背を向ける形で、マイクを握った。
「上熊本交番、岡元より、通信指令室、応答願います」
「ブブ…。こちら、通信指令室。どんな状況だ?被害者は、無事か?」
「十五時二十分、現着し、被害者を確認。被害者は、中年男性。年齢は、四十歳〜五十歳くらい。既に死亡。目立った外傷はないですが、口元からの臭いと、苦悶の表情、失禁の状況から、薬物死の疑いがあると判断しました。捜査応援と機動捜査隊、鑑識官の手配が必要かと」
「了解。三号車は、そのまま現場へ向かえ。この無線を傍受している、熊本警察署は、班編成を行い、直ちに、現場へ急行せよ。岡元巡査は、各応援が到着するまでの間、現場保全に努めよ」
「了解しました」
無線マイクを戻すと、大声で、周囲にアナウンスする。
「みなさーん。もう少し下がってください。今から十分以内に、この道路一帯は、完全に立ち入り禁止となります。この中で、倒れている男性と面識がある方、『見たことあるぞ』っていう方は、いらっしゃいませんか?」
誰も反応しない。
(……まあ、そんな都合良い話、ないよね)
「あっ、通報者の間さんは、発見までの状況を、詳しく伺いますので、まだ残っていてください」
「分かりました」
程なく、応援のパトカー、熊本警察署、機動捜査隊、救急車が現着すると、一気に、物々しい雰囲気となった。
岡元は、規制線用の黄色いテープを、道路の上下線を、完全に塞ぐ形で張り、張り終えると、人が入らないように、両手を後ろで組み、見張り役に徹した。
後方では、鑑識官たちが、検死を開始したかと思うと、ざわつき始めた。
(ん?…何か、様子が変だぞ?…何か、無線連絡しているな)
岡元は、姿勢を崩さず、無線内容に耳を傾ける。
「こちら、機動捜査隊の遠藤です。被害者の体内から、特殊な毒物を確認。断定は早計ですが、防護服要員での対応が必要です。繰り返します、特殊な毒物を確認。断定は………」
(------!)
捜査関係者が、その場で少し下がって待機していると、待つこと二十分。特殊な洗浄液と、防護服を纏った消防隊員たちが、被害者だけではなく、発見された周囲20m程、範囲を広げ、念入りに洗浄を始めた。
「もっと、規制線を張り出してください。全然足りません!」
(------!)
消防隊要請により、岡元と熊本警察署の署員たちは、すぐに規制線を張り直した。通常事件より、深刻な状況となっていったのである。第一発見者の間は、特殊な洗浄液で、身を清められ、何かを測定されている。おそらく、毒物の影響がないかを、チェックされているのであろう。
(ただの毒物事件じゃないのか?……捜査に加わりたいけど、まだ新米巡査じゃ、現場保全しか出来ないだろうし。………一体、後ろで何が起きているんだ?)
岡元が、悶々としていると、熊本警察署の署員たちから、声が掛かる。
「岡元巡査。君は、被害者を触ったんじゃないのか?念の為、あちらで、洗浄液を浴びてきたまえ。それと、検査キットで、数値確認も怠るなよ。…何かあってからでは、命がないぞ」
(------!)
熊本市の平和な日常は、降り出した雨とともに、洗い流されていく。
崇城大学前の、急な下り坂を駆け下りていくように…。