天使ニーナ
ニーナに案内された場所は、都市の中心にある高層ビルの屋上だった。
ビルは駅からはそれなりに距離がある場所であったが、ここまで来るのは一瞬の出来事だった。
ここに来る前、ニーナは 「ちょっと待っててね」
そう言うと目を閉じ、指を組み、祈る様な姿勢でうつむいた。。その瞬間ニーナの頭上に光の輪が現れ、輪が強い光を放ったかと思うと、いつの間にか、この場所に移動していたのだった。
「すごい……」
夢亜が驚いていると、ニーナは少し得意気に笑う
「すごいでしょ?あたしはなんたって天使だからね!」
夢亜は空を見上げた。澄んだ青、白く大きな入道雲、太陽の光が眩しい。
その景色は、夏を象徴していた。
そんな景色を前にしても、暑さを感じない事に気づいた。
それは自分が死者である事がまた一つ変わった瞬間だった。
もうあの鬱陶しい気温を感じられないのは、少しだけ寂しく思えた。
ニーナの方へ視線を戻す。
彼女は見た目こそ幼いが、青く澄んだ瞳、白い肌、美しい金色の髪、整った顔。そして背中には純白の翼。どこを見ても異彩を放つくらい美しく、夢亜はすんなりと天使だと信じる事が出来た。
彼女の存在が、自分が死んだ事より現実味が沸かなかった。
「……どうしてここに連れてきたの?」
「ここお気に入りの場所なんだ。眺めがすごくいいの」
ニーナは手すりから体を少し乗り出し、歌いながら地上を眺めている。
その歌は、夢亜の知らない言葉だった。だけど多分、人間の言葉だ。そう直感で思った。
ずいぶんとのん気な物だと思った。
夢亜も同じ様に地上を見下ろしてみたが、テレビの砂嵐の様に車や人がごちゃごちゃしていて、とても良い景色とは思えなかった。
やがてニーナは歌い終わると、こちらを向き、穏やかな口調で話しだした。
「さてと、じゃあそろそろ本題に入ろっか。 あなた、本田夢亜は7月18日午後6時20分に横断歩道を渡ろうとしていた所、信号を無視して走ってきたトラックに撥ねられた。すぐに病院に運ばれ、治療受けたけど、残念ながらあなたは亡くなった」
「ええ、事故に会う直前までは覚えている」
あの日は学校帰りだった。真っ直ぐ施設に帰るのがなんとなく嫌で、門限ギリギリまで
駅のまわりをぶらついていた。門限を破ると後が大変だし、仕方ないから帰ろうと思っていた所、あのトラックが突っ込んで来たのだ。
「つまり、今のあなたは魂。そんなあなたを天国に連れて行くのがあたし達天使の役目」
「天国に行くと私はどうなるの?」
「あなたの魂は浄化されて現世の記憶を完全に忘れ、そして新しく生まれ変わる、次に記憶があるときはあなたはもう、本田夢亜じゃない、全くの別人」
「そう。それなら天国でもどこでも、早く連れてって欲しいものね」
正直生まれ変わりたいとは全く思わないが、”本田夢亜”が消えるなら何でもいい。
ニーナはキョトンとした顔で訪ねる。
「あなたは驚かないんだね、大体の人間はあたし達が存在すること、自分がもう死んでいる事に多少は驚くんだけどな」
「まあ、今までも死んでるみたいだったし、死にたいとも思ってたから、丁度良かったわ。違いは事故か自殺ってだけね」
強がりではない。天使が本当に存在するとは思ってはいなかったが。
夢亜は元々死にたかった。
今は驚くどころか、安心して落ち着いている。
もうあの残酷な世界を生きなくてもいいと思ったのだ。
こう言ってしまうと、ニーナは怒るだろうか?
しかし彼女は夢亜を責めず、 「あたしはあなた達の生活が羨ましいけどな」と静かに笑うのだった。
これには夢亜も拍子抜けした、さっきからこの天使はずっとふわふわとした調子だ。
これでは天使というよりは、日向ぼっこをしている猫と会話している様だった。
「貴方が天使で私が死んだのはもう分かったから、早く天国に連れていってよ」
あまりにのんびりとしているので、口調に苛立ちが出てしまう。
「うん、あなたはあたしが責任もって連れて行く。でもその前に――」
ニーナはまっすぐに夢亜を見つめた。
彼女の青い瞳を見つめていると、なんだか心を見透かされているようで落ち着かない。
「夢亜、あなたはやり残した事はある?」
「やり残した事?」
ニーナは嬉しそうな顔で話し出す。
「うん! 例えば大切な人に別れの挨拶だったり、何か自分が生きた証を残したり、好きな人に愛の告白だったり、そんな、どうしても天国に行く前にやりたい事をあたしが手伝うの! 条件がつくけど、少し間、現世に生き返る事も出来るんだよ」
「私は生き返りたくなんてない」
夢亜は淡々とした口調で言い放った。
冗談じゃない。これ以上こんな世界にはいたくない。
「会いたい人なんて、一人もいないし、やり残したことも無いわ」
ニーナの表情が曇る。
「本当に?」
「ええ、本当よ。強制じゃないんでしょ?」
「確かにそうだけど……」
「それならいいじゃない」
「うーん、あたしはそれは嫌だなぁ」
ニーナは少しの間考え込み、
「じゃあこうしない?、今日から三日間だけ幽霊としてこの世界に滞在しようよ。 なにかやり残した事が見つかるかもしれない」
「幽霊?」
「うん、それならあなたの姿は私以外に見えないし。ただ、この世界の事を眺めてるだけでもいい。あなたは三日後、必ず天国に連れて行くから、少しだけあたしのわがままに付き合って欲しいの」
ニーナは青い瞳で真っ直ぐ夢亜の目を見る。
ここだけは譲らない。そんな言葉が聞こえてきそうだった。夢亜はため息を吐く。
「……わかった、三日だけだからね」
そう言うとニーナはも無邪気に笑い、「良かったぁ。 ありがとう! 夢亜」 と抱きつかれた。天使は幽霊に触れられるらしく、久しぶりに暖かい体温を感じた。
「ちょ、ちょっと!」 夢亜は戸惑い、引き離す。
「あ、ごめんね。 つい感動しちゃって」
「別にいいけど……だけどニーナ、強制じゃないのなら、どうしてそこまでするの?」
そう聞くと彼女はふわりとした笑みで
「あたしが担当する魂は、笑顔で天国に行って欲しいんだ。 悲しいまま行くのは、本当に残酷な事だから」と言った。その時の表情は、とても大人びていることに驚いた。
彼女なりの哲学なのだろうか?
まるで彼女は、子供と大人が入り交じった様だった。
夢亜は少しだけ柔らかい口調で「貴方っておせっかい焼きなのね」 と言うと、ニーナはクスリと笑いこう返した。
「うん、あたしは天使だから」