三話
最初に目に着いたのは見慣れない天井とその天井にチラチラと踊る光で創られた何かの影だった。視界と思考はまだぼやけ、夢の中の様な抵抗感のなさを意識する。次第に体の感覚が戻り、つられる様に意識も鮮明になってくる。徐々に思い出される自分にとってはつい先程の出来事に僅かばかり高揚している。この部屋で目覚めなければ現実だったのか疑問に思ったかもしれない。
掛けられていた毛布をどかし起き上がると気怠さからか微妙に頭が重く感じる。窓から見える外は既に日が落ち暗く、民家の部屋から洩れる光と道を照らす街灯が異国と教えてくれていた。回りを見渡し光が洩れる扉を見付けるとなんの躊躇いもなくドアノブに手を掛け開ける。と、不意に芳ばしい香りと鼻に突くスパイスの効いた香り。必然的にと言うか反射的にと言うか腹から響く音に空腹であることを思い出す。足は自然と匂いの元へと向き、そこには自身の思考がはい入る余地は皆無だった。
「起きたか。いいタイミングだったな。それとも匂いに釣られたか。」
野太いが優しい声。どうだったかなと呟き振り向くと空のグラスを2つとワインボトルを持った老人がこちらへ歩み寄ってくる。悪戯っぽくにっと笑うとグラスを傾け、その先にはテーブルがあり既に料理が並べられていた。
「ローストビーフ?」
匂いの元が分かり更に腹の虫が騒ぎ出す。
「こちらの習慣さ。座って。」
言われるがまま、椅子に腰掛け大人しく待つがその姿はお預けをされた犬の様に見える。少々情けない姿に苦笑いをしつつ老人は対面に座りワインのコルクを抜き2つのグラスへ注ぐ。辺りに赤ワインの香りが加わり更に食欲をかき立てた。
いただきますと言い終わると同時に程よく蒸し焼きされた肉へかぶりつく。
「気に入った様で何よりだよ。」
「ご馳走様でした。いや、マジで旨かった。」
「ま、自信はあったがな。それで、今後の話だ。」
光に照らされルビーの様にチラチラと輝くワインを注ぎながら老人は話を切り出した。
「取り敢えず、レスターを目指して見てくれ。君は剣を使うから必ず役に立つ。」
席を立ち、隣の部屋へ行くと暫くして本を手に戻ってきた。テーブルに広げられたそれは地図だった。
「ここがこの町だ。レスターはここ。まずトットネスに行きそこから汽車に乗れ。」
本を見つめたまま黙り込む彼に再度確認すると思いがけない返事が帰ってきた。
「じいさん、とんでもない事に気付いた。これはいったいどう言うことだ?あんたは言ったはずだ。ここは俺が元いた世界だと。異世界ではないと。」
「そうだが、今さら何をいってるんだ?」
「ならなぜ読めない文字が書いてある!」
「は?」
「つまりあれか。会話は問題ないが字が読めない、と。」
正直、どうでもいい話だった。これからの事を考えると字が読めない事など大した問題ではない。生死が懸かった日々が待っているのだからそんな事に気をまわしている場合ではない。それなのにこの目の前の男は字が読めない事がもっとも大事なことのように言う。はっきり言って理解に苦しむ。心なしか頭痛がしてきた。
「それはあれだ。会話はタリスマンの力で翻訳されているが文字は知識が必要だろう。流石に知識までは補えないと思うが。と、言うか、流石に読めないとは大げさじゃないか?書かれているのはフランス語だが文字自体はアルファベットだろ。」
思わず目頭を押さえる。本当にこの先大丈夫なのだろうか。
「ああ、なるほど。言われてみれば、確かに・・・よく見れば、読めなくはないが読み方が分からないのが多いだけのような・・・・・」
「もういいだろう。話を進めるぞ。トットネスまでは連れていく。そこでレスター行きの汽車に乗るんだ。レスターに着いたらあの街で一番古い建物へ行け。それでおそらく君の進むべき道が示される。」
随分、曖昧なアドバイスだが反論は出来なかった。明らかに不機嫌になっている老人を更に不快にさせる度胸はなかったから。
「・・・ふう。色々押し付けてすまない。現実問題として破滅種がなぜ復活し何を企んでいるのか未だに分かってないんだ。前も言ったが相当数の覚醒者が闘っているはずなのだが一向にその辺りの話が出てこない。知った者が始末されているのかまだ誰もそこまでたどり着けていないのかわからないが、十分に気を付けてくれ。勿論、身を隠すつもりでも構わないよ。」
「謝らなくていいよ。あのままだと死んでいたんだろうし面倒もちゃんとみてくれている。なによりこれからの道を指してくれた。感謝してます。それに・・・」
そこまで言って扉を叩く音に遮られる。誰かが訪ねてきたようだ。面倒くさそうに立ち上がり玄関に向かう老人の顔が一瞬、険しくなったのを榊は見逃さなった。それを見たせいか、こんな時間にと文句を言うその姿は何処となく芝居がかって見える。扉が開かれた玄関から野太い男の声が僅かに漏れているが内容までは聞き取れず会話はすぐ終わり老人はばつの悪そうな顔で戻ってきた。
「すまないがこちらの手違いで今すぐ旅たってもらうことになった。準備は出来ているからすぐ着替えて表に来てくれ。」
ソファーに賭けられた着替えを手に取りつつ文句を垂れるも全く聞き入れる事はなさそうである。
「普通もう少し慣れてからとか特訓期間があったりとかするもんじゃないの?」
「すまんな。こちらの都合と列車の時間がな。文句言ってないでさっさと着替えろ。時間は止まらんぞ。」
麻布のシャツにダークブラウンのタイトな革のパンツ。それと太股までのコート。こちらも革製のようだが随分マッドなブラックだった。そして飾り気のない茶系のブーツ。中底が厚く長時間履いていても疲労を出来るだけ抑えてくれそうだ。
「ほう。中々似合うじゃないか。よし、じゃあトラックに乗って早速出発してくれ。私とはここでお別れだが機会があれば何処かで合うかもしれないがな。」
榊の手を取り両手で握り締める。その姿は彼の手の温もりを忘れない為の様にも彼の無事を祈る為の様にも見える。
「身を隠しても構わないと言った手前、勝手とは思う、押し付けだとも。だが・・・」
そこで言葉に詰まる。言うべきか言わざるべきかの葛藤がそこにはあった。
「・・・願わくば、君が皆の助けになるように。」
伝えられない想いは沢山ある。当然だ。人なのだから。それでも、本当に大切な事は伝わる。そう信じている。それこそ人なのだからこそ。
「確実な事は何も言えないしわからない。まだ何も知らないしな。けど、出来るだけ出来る事はするよ。それだけは約束する。」
十分だった。握り返してくれていた手を離し背中を強めに押し出す。
「行ってこい。」
押し出された先には今朝乗せられたトラック。荷台には少し大きめの上部を絞るタイプのバックパックとシェリーが乗っている。
「なに?一緒に来るの?」
「まさか。チケット渡しに来たの。ついでだからトットネスまでついていく。」
笑顔の奥の不安を榊は感じ取る。それが何を意味するかは分からないが伝えないと言う事は自分に迷惑を掛けたくないと言うことだろう。言われない以上、気にしても仕方なかもしれない。
「じゃあ、出発するぞ。落ちるなよ。」
野太い声が合図になりトラックは走り出した。慌ただしい一日だったがそれなりに楽しかった。
「・・・また来たいな。」
遠ざかる街並みを見つめる自然とそう呟く。
「・・・そうだね。」
無意識に出た言葉に返事があり少々慌てたが消え入りそうなシェリーの言葉に僅かな疑問があった。そしてそれはすぐ理解できた。それは今朝出て来た森を横切る時に気付いた。暗闇の森の中でチラチラと躍る紅い光。遠くてよく見えないし数も多くない為はっきりとは分からないが村長達の一連の言動で確信が持てる。
「水くさいよな。」
それは本当に一瞬だった。隣にいたシェリーがまったく動けないほどに。彼は一言呟くと走るトラックの荷台から柵でも越える様に飛び降りた。上手い具合に茂みへと転がり込むがいくらなんでもスピードの出た車から落ちた様なものだ。無事なはずがない。普通ならば。
(やっぱりか。普通のコートとは思えなかったけど、戦っていく上で必要な加工が施されている。)
頬を枝に切り裂かれるが気にしない。茂みへ突っ込んだ衝撃はあるが痛手を負う事は無かった。
(木に当たればアウトだったかもしれないな。さすがにそこまでの防御力は無さそうだ。)
コートに着いた落ち葉や枝を払いながらそんな事を思う。闇に沈んだ森を見渡し灯りを探すがここからだと見えなかった。
(方角は覚えている!あっちだ!)
悩んでいない。戸惑いさえ無かった。思考より感情が体を動かし全力で走り出す。元々、夜目がきく為、暗闇にはすぐ慣れた。そして気付く。足元が掬われない事に。
(これがタリスマンの力か・・・)
老人は言った。翻訳と刻印そして最後の力が、成長と。おそらくこれがその成長だろう。『経験』を『増幅』し『成長』させる。『適応能力の高さ』が唯一で最大の武器ならこのタリスマンの三番目の力はまさにうってつけだ。
程なく、灯火が視界に入る。数は三つ。光りに照らされた人物達が僅かに見える。その醜悪な姿に昨夜の恐怖心が蘇る。それと同時に自分の想像に確信が持てた。あれは町を襲う。そう確信出来る。町と言うより、おそらく自分を、だろうが。
彼等は犬並みの嗅覚を持つと聞いた。この森に入った時点で既に気付かれている。だからこそあえて雄叫びを上げこちらに気を引かせる。勿論、鼓舞する意味合いもあったが。
3体の内、2体がこちらへ向かい1体はその場で弓を構え品のない鳴き声で走る2体へ指示出しているようだ。
昨夜と同じ鼻に突く獣臭。二手に別れ円を描くように両側に回り込もうと走り寄る片方へ一直線に突っ込む。それに気付き振り上げられた湾曲した太刀が榊の頭部を目がけ振り下ろされる。
刹那、辺りに響く金属同士がぶつかる音。
「よう、獣ども。どうやらお前等の敵の存在に感付いたようだが、残念だがここで俺の練習台になってもらうぞ。」