十一話
ヴェルノの来訪から二日後、六人の姿は大学内にあった。
榊は空手部の指導員として、他の五人は短期留学生として潜り込む。ヴェルノから見た目的にも榊も学生で問題ないと言われたが彼本人が強い要望で学生になるのを頑なに拒否をする。
歴史有る大学らしくどことなく教会と同じ様な造りをしており白を基調の壁には植物をモチーフにした装飾とあちらこちらで見掛けるアーチ状のデザインがこの場所を訪れる者に優しい印象を与えた。古い建物のせいで年中校内の何処かを業者が補修しているとのことだった。
校内はどこも伝統校として名を通しているお陰か比較的騒ぎを起こす者が少なく静かだった。あくまで表面上は、だが。
校内は大きく分けて四つの建物に別れている。中央に本館があり東側に図書館、西側に体育館そして本館の北側、つまり奥には礼拝堂がある。寮は存在していないが本館の中に仮の宿泊施設は存在しており研究や課題で帰れない学生や職員が利用している。これは事前に許可を得れば比較的安易に使用可能で空いていれば直前でも受け付けてもらえる。
あまりスポーツが盛んではないのか体育館は普通だが図書館は歴史ある大学のせいなのかかなり貴重な書物も存在し一部の書物は厳重に保管されており閲覧には少々面倒な手続きが必要だった。全ての書物が館外への持ち出しを禁じており中にはいささか怪しげな物も存在しているのは一部の特殊なマニアの中ではこの図書館は有名である。
本館中央を貫く通路を進むとまず最初に目につくのは掲げられた大きな十字架。地面に敷き詰められた石畳は十字路になっておりそれはまるであの掲げられた十字架の影の様にみえる。アーチ形の入口は縁に植物を模したレリーフが豪華に使用され所々に天使や妖精の様な彫刻が見受けられる。そこをくぐり中へ足を踏み入れると円形状の空間へと続き一番奥には祭壇が設けられている。
さて、留学組の五人は他の学生へ紹介される事はなく学内にある連絡用の掲示板へ留学生として名前と専攻が書かれるだけである。少々拍子抜けした彼等だが面倒な自己紹介が省かれたことで胸をなで下ろす。特に問題なくその日を過ごしていたのだが実は榊だけは一悶着起こしていた。
目の前にいるのは筋肉隆々の学生。威嚇のつもりかやたらと握り拳を見せつけにやつきながら榊を見下ろし、そこには体躯に恵まれた者特有の自身が見える。身長差は20センチ程ありそうだ。もっともはちきれんばかりの道着を見る限り体重差はそれ以上にありそうだが。
榊は決して大きい方ではないが社会人になっても鍛錬は続けているお陰で彼の身体は実は硬い筋肉で覆われている。その筋肉も瞬発力と突発的な動きに対応出来る事を前提に鍛錬を積んできたおかげで柔軟性にすぐれている。所謂着やせするタイプでそのせいか腕力至上主義や筋肉至上主義の者からは度々今回のような見下された態度を取られてきた。だからいい加減飽きてきたこの対応に彼が深い溜息をつくのは仕方のないことかもしれない。
しかしこれがこの学生の癇に障った。
指導官として、目上の先輩としての立場の相手にも拘わらず彼は激昂し榊へ襲い掛かる。それは見事な正拳突き。体格もよく主将であり大きな大会での活躍も期待されている。当然のように有段者でありこの部での彼の権力は揺るぎないものだろう。
そのプライドが、彼を怒らせる。
自分より遥かに小さく細い男が鼻で笑った様に見えたから。
力こそ至高と信じて疑わない、またそれを実行し現実に叶えてきた彼にとってこの目の前の細い男が指導官など滑稽だった。その男が鼻で笑ったのだ。怒りが爆発するのも無理はなかったのかもしれない。
囲っていた他の学生もこの力自慢の主将が突然来た指導官を吹き飛ばすのを期待していた。それはすぐに間違いなく現実に起こるはずだった。しかし実際は彼の放った正拳は空を打ち抜き本人はその場に力なく崩れ落ちていく。
それはただの中段突き。結果だけ見れば、だ。
榊のその動きは誰もが気付かなかった。無駄のない動きに脳は錯覚する。まるで消えたかのようにその瞳に写す。特に対峙している者にはそれが如実に効果が表れる。
館内は静まりかえり次第にざわつき始める。認識出来ない出来事に人々が取る行動は一つ。その出来事を疑うこと。インチキやトリックを使ったと思い込むこと。一人がそれを口にすると瞬く間にその場の全員へ広がる。それだけは防がなければならない。焦った榊が放った言葉はこうだった。
「これが忍術だ。」
「あんたバカでしょ?」
唐突に辛辣な言葉を投げかける目の前の美女に文句の一つも言いたくなるが何一つ思い浮かばない。実際彼自身もそう思っている。あの一言はなかった、と。
皆はそれぞれ事件解決の糸口を掴めそうな話を聞いてきたのに彼だけは大量の弟子志願者を引き連れてきた。いくら断ってもついてくるから仕方ないだろうとは彼の弁だがそんな子供じみた言い訳を皆が受け入れるわけはなくただただ残念な人を見るような視線を彼に浴びせるだけだった。椿の冷たい視線で弟子志願者を諭さなければいまだ食事にありつけなかったかもしれない。
「格闘技を習っているような連中が忍者に憧れてないわけないでしょ。迂闊すぎるのよ、あなたは。」
サラダを口に運びつつ彼女はそう警告する。少し大きめのエビを見つけて嬉しそうだ。
最近ではこの大通りに面したテラスでの夕食が日課になりつつある。シェリーが加わり中での食事が少々窮屈になってきたからだが、屋外での食事が思いの外癖になっているのは否めない。
「無断休講した教授をみかけたって話を聞いたぜ。しかも講義が終わったあとに。」
気の毒に思ったのか将が話の流れを変えようとする。それを察した睦生もその流に乗ってくれた。
「僕の方は地下の音ですね。どうも最初に聞こえた場所より移動しているらしいですよ。教授に聞いた話は既に七不思議の様な扱いになってて比較的に楽に教えてもらえましたね。」
「盗難に関しては不確かだって。勘違いもあるし紛失は今までもたまにあったから盗難なのか紛失なのは分からないそうだよ。ただ気になるのが一つあって、無くなった備品は未使用のもの、特に特定の時期に来た物が多いって言ってた。」
「贋作に関しては全く謎だったわ。噂の真偽どころか出所さえ分からないし。でもね、最近やたらと羽振りのいい人をみつけた。」
「誰も知らない生徒についてもわからなかったですね。でも一週間ほど前に大学宛に脅迫状、と言うか警告書のような物が届いたって聞きました。」
『今すぐやめなければ実行する』
その警告書にはそれだけ書かれていた。受け取った学長は悪戯だろうと特に表立って何か対処することもなく放置しているそうだ。ただ単に『やめなければ』の意味がよく理解できなかったのが主な理由かもしれない。一部の者にしか知られなかったこの警告書が少しばかり噂になった原因は知る者が見なければ理解できないこの文章のせいだろう。
「最初に知った者の中の誰かが故意に噂をながしたんだろ。てゆーか送った本人がその中にいるだろ。どー考えても。」
食事を運ぶ手は止まり一斉に榊に視線が集まる。言ってる意味が理解できないでいるようだ。その反応に気付いた榊は少しもったいぶったようにワインを飲み干すとすっと椿にそそぐよう促す。
彼曰く、『実行』とはそれは内部告発だ、と。告発する為の後押しをする為にわざと回りくどい手段を取ったのだろう、と。
何かをしている者、言わば犯人にしか分からない内容ならばそれを知らない学長が警告書を無視するのは当然であり、無視された警告書に犯人は胸を撫でおろすだろう。安心した犯人は取り合えず一旦悪事を止めるだろう。しかし警告書を出した者、告発者は『学長に無視された』と言う大義名分を得て告発へ踏み込む口実を作り出す。決断を下せない自分を誤魔化し正当化し実行する為に。更に告発者は内容の噂をそれとなく流し犯人が確実に悪事を止めるようしむけた。
「警告書を出したやつはどうしても悪事を止めなければならなかったんだよ。じゃないと物的証拠が動かされて告発しても逃げきられるしな。」
締めくくる様にワインを飲み干すとコトリとグラスを置き少しばかり誇らしげな顔で笑みを浮かべる。メンバーからの賞賛を待っているようだが返ってきた反応は素っ気ないものだった。
「まあそう言う事にしときましょうか。情報もまだ不足してるしね。あ、榊はその線で調べてても構わないですよ。」
こちらもお酒が入っているせいなのか普段より言葉の端々に刺、と言うか毒的なものを感じる
。霞がそれを何故か嬉しそうに微笑を浮かべグラスの中の葡萄の果汁を遊ばせる。幼い頃のまだ素直だった睦生が少しずつではあるが戻ってきているのを見れて喜んでいるのだろうか。
彼が他者へ敬語を使うのは霞を守ると決めた辺りからだ。隙を作るのが嫌だった為だろうがそれは自分が精神的に弱い事を理解しているからでもある。
そしてそれは睦生本来の性格を抑え込む事になり、霞はそれがとても悲しかった。
しかし最近、榊と出会ってから変わりつつある。本人も自覚しそれを危ぶんでいるが霞はそれがとても嬉しかった。
「くっ。一応一番年長者なんだから~も~すこし敬意とゆ~か尊敬とゆ~か労り的なものがほしなあ~。」
「甘えんな。アラサーの癖に。そもそも俺等の方が覚醒者として先輩なんだから逆に俺等を羨め。」
「アラサー言うな。てゆーかエビのしっぽ投げんな。それよりこのワイン美味いぞ。飲んでみ。」
「マジで。飲ませて。」
あぁそれはやめたほうがいいんじゃないかなと思うも彼女は笑いをこらえ黙りを決め込む。まだお酒は飲めないからあのグラスに混ぜられたタバスコが匂うかどうかは分からない。それでもどのような反応があるかは分かる。そしてそれは分かっていてもまだ幼さが残る彼女は悪戯心を優先し彼が苦しむのを楽しむことにした。
「おっ前ふざけんな!これ毒じゃねーか!」
「毒とは失礼な。タバスコ様に謝れ。」
「お前が謝れよ!食い物で遊ぶな!無駄にすんな!」
「お前が飲み干せば無駄にならんから頑張れ。」
「てめーが飲め。」
「あんたらうるさい。周りの目もあるんだから静にしなさいよ。」
「それちょっと貸して。」
「え、飲むの?」
「これワイン入れてないよね。じゃあジンで割れば飲めるかも。」
「普通ウォッカじゃない?」
「ウォッカじゃあ度数がね~。」
「将飲まないの?なにそれつまんなーい。」
「お嬢さん?意外とひどくない?」
「そうでもないよ?ふつうだよ?」
「あざといけど可愛いからまあいいです。それより村長に連絡入れてるのか?こっちに一緒にいていいの?」
「好きにしてこいって言われたから大丈夫じゃないかな。それにみんな今までと同じ生活してるしね。」
「そうなの?」
解放されたからといって村から出る者はおらずまた、それを望む者もいない。束縛は彼等にとって保護であり安定でもあった。
それが、消えた。
当初は戸惑いと混乱で荒れていた。本来なら解放後の生活はなく消えるはずだったのだから当然かもしれない。だが日は沈むしまた昇る。腹も空くし眠気もくる。日常はすぐに戻ってきた。もしかしたらただの思考停止かもしれないがそれでも普段の生活をするしかなかった。
「私から言い出したの。宗司について行けば何かわかるかもって。まあ村長がそれを本気で考えたわけじゃないけどね。」
彼は多分、外の世界を彼女に見せたかったのだろう。彼女もそれを理解している。そして時間が過ぎれば徐々に他の者も外の世界へ行く。その時に村を出た者に助言が出来る程度には知っておきたいとの想いも彼女は持っていた。
もっとも、今はただただ榊達との日常を楽しむつもりではあるようだが。
「取りあえず、今は楽しむの。宗司にもとてもユニーク仲間が出来たみたいだし。」
そこは静寂が優しく包みこみ古書をめくる音と静かな足音だけが存在を許されている。
石積みの建物自体は随分古く補修と保全は当時の姿を残そうとこまめに行われているが近代化や安全性のため燭台があった場所には電気が通され書物の日焼けを防ぐために間接照明を取り入れてある。
左右相称のアーチ状の梁には特徴の濃い植物を模した幾何学模様の飾りが随所に施され左右の壁の上部には聖人の像が佇み来訪者を優しく見守っている。一見すると教会の様に見えるがただただ広い空間に数本の太目の柱と整然と並べられた本棚がその認識を打ち消す。
館内は年中を通して一定の室温に保たれ、少ない照明は薄暗く感じるが書物を読むのにさほど支障はなく、むしろ内容に没頭出来るかもしれない。古い書物が殆どの為か独特な匂いがそこにはありそれを歴史の重みと感じるかかび臭いと取るかは人それぞれだろう。
特殊な蔵書が多いせいで普段からここは人がまばらで学生の中でも研究者や学者志望の者しか足を踏み入れない。また事前に大学から許可さえ貰えれば一般の者でも利用できる為、学内でもこの場所は外部の者が多い。
そこに、一人の男が現れた。
木製の床板を規則正く打ち鳴らして歩くその姿はどことなくくたびれて見えた。少し前のめりに歩くからだろう。事実、それを何度も咎められていたが、半年前に入った会社の上司にあたる人物の嫌味を帯びたその注意も、特に意に介さず気の抜けた返事でその場を濁す。仕事面でも他の従業員との交流面でもそのよう感じのせいで職場の彼に対する評価と評判はあまりいいものではなかった。
作業着を着た男は立ち止まると持っていたバッグを置きその中から小さめの古びたメモ帳を取り出しぶつぶつと呟く。歳は三十代前半くらいだろうか。少し肩幅が広いが中肉中背で彫りの深い顔のせいで東洋人か西洋人かの判断が付きにくい顔立ちをしている。帽子から覗く髪は黒く瞳は黒寄りの茶色だ。目を引く特徴が無くはっきり言って印象に残りづらい人物だった。
周りを見渡し何かを確認しているようだがまだ残っている学生にはまったく興味を見せず、また学生も彼に興味を持たない。確認出来た物に納得でもしたのか頷くとメモ帳へ視線を落とし何かを書き込んでいる。一連の動作をみるだけならば特に不審はないのだが、場所が場所だけにその姿は事情を知らない者には奇妙に見えたかも知れない。しかしここは年中業者がどこかしらで作業をしているため誰もこの男に気を止める事は無かった。さらに言えば貴重品が数多く保管されている場所もあるため構内へ入るにはセキュリティが厳しい場所もあるが信頼ある業者へ依頼されているせいか警備する者によっては作業者への検問が甘かったりする。
男は慣習による人為的な認識の欠如を上手く利用し構内を自由に徘徊していた。
彼はメモ帳をバッグへ仕舞うと再び規則正しい足音を立てながら壁際へと歩き出し目的の場所まで来ると立ち止まる。そっと手のひらで触れた長い年月を過ごしてきたその壁は何度も補修を繰り返されており既に本来の姿はそこにはない。積み上げられた石の上から補強と装飾の為に塗られたしっくいを指でなぞり爪を立てて掻いてみるも爪が痛むだけで特に何かが見つかるわけではなかった。
思ったものが見付からないのか首を傾げ再び周りを見渡す。どうやら確認しているのは天井付近に飾り付けられた怪物を型取った石像のようだ。本来なら雨樋の役目を担う石像が室内にある時点で不可解なのだが、全部で七つありそれぞれ違うデザインをしているそれは全てが同じ場所を見つめている。
先程の場所から少しばかり右下にずれ再度石像の視線を確かめる。
「ここか。」
笑み、と言うには不格好だがそこには確かに安堵の表情が僅かに見える。緊張が解けたのかため息を漏らししゃがみ込むと床の一点を見つめる。そこには小さな長方形の破片が埋め込まれていた。取り出したナイフでそれを取り除くと今度は現れた隙間にナイフを差し込み板の一部を剥ぎ取る。
ぽっかり空いた床におもむろに手を入れ中から10センチ程の木箱を取り出す。箱の中でカタっと何かが動く音と振動に男は満足そうに頷きそれをそのまま無造作にバッグへ入れると板を戻し彼は立ち上がり来たときと同じ様に規則正しい足音を立てその場から離れていった。
疲れた。
肉体的にではなく精神的に。
殆ど隔離されたような生活をしてきたせいか人との接し方がよく分からなくなるときがある。普段は周りのみんなが勝手に話しているからあまり困ることはないが初対面の人にどのように話しかければいいか分からない。
初日は興味本位で話しかけてくれる者もいたが流石に三日目、四日目となるとそれもなくなり
結局、初日に聞いた噂話くらいしか事件に関する話題は聞いてない。
それでも一応、見かければ声をかけてくれる者もいるし一緒に昼食を共にしてくれる者もいることはいる。もっぱら相手の話題に興味があるように対応しているだけだが。
目下に広がる中庭を学生と楽しげに横切る将をみて少しばかり腹が立つのはおそらく今の自分がそう言う状況なのだからだろう。
(空き缶でもなげてやろうかしら)
想像して思わず笑い声が出ていたのか同じクラスの生徒が声をかけてくる。
「珍しいじゃない、思い出し笑いなんて。」
「思い出し笑いって言うか、幼馴染み見てたの。元気だなぁって。」
「ああ、ショウね。女子の間でも気にしてる子はいるよ。彼ってなんて言うか、あっちこっちにいるよね。」
「落ち着きないのよ、昔から。」
「仲いいよね。もう一人のムツオとも。あっちは超人気者みたいだけど。」
「日本ではあんな感じの細いのがモテるけどこっちではどうなの?イメージ的に外国の方って筋肉質のスポーツマンタイプがモテる印象あるけど。」
「場合によるんじゃないかな~?私は好きよ。ムツオみたいなタイプは。アニメから抜け出したみたいな容姿だしね。さっきも他のクラスのコに追いかけられてたみたいだし。」
悪戯っぽい笑顔。なのにそれは同年代とは思えない程、色気があった。同性にもかかわらずドキリとする。
「確かに彼はそんな感じだね。」
少し、いや、かなり嬉しい。
将と睦生が褒められ認められると自分の事より嬉しく感じる。あの二人の世界が広がるのは、想像していたのよりずっと心地良かった。
講義の時間が迫っているクラスメイトを送り出すと視線は再び中庭へと移る。そこには既に将の姿はなく、代わりに時間の空いた一組の男女が談笑交じりにベンチに座っている。
一生懸命、女性を楽しませようと言葉を紡ぐ男性。それに気付き精一杯の反応を表現している女性。お互いを意識してはいるがまだ踏み込めない微妙な関係。好意を交わし合ってはいても踏み込めないのは今の関係が壊れるのを恐れているから。
欲しいのは、確実な好意。
「私には、まだ分からないかな。」
将と睦生のどちらかと恋愛関係になることを考えなかったわけではない。恋愛感情が熟成する前にそれよりも大切な事を優先してしまった。
本当に生きる事を。
「私の我が儘なんだけどね。」
頬を乗せた石材の手摺は冷たく、火照った顔に気持ちよかった。少しざらりとしているがそれも心地いい。冷えた風が髪を梳かし次第に体温が奪われていくのを感じると身を起こし身震いする。
「そろそろテラスでの食事は厳しいかなぁ。」
僅かな寂しさは少しだけ胸を締め付ける。空を見上げ降り注ぐ陽の光に目を細め寂しさを埋める別の事を探す。見上げた空はこの時期には珍しく雲一つ無い青空が広がっていた。
(そう言えば今日は朝からずっと天気が良かったなぁ。このまま一日が終わってくれたらいいのに。)
雨が多い、と言うか一日のどこかで雨が降るせいかあまり青空を見掛ける事が少ない。そのせいなのか今日は随分と出歩く人が多いように思う。そう言えば朝からテレビで今日は快晴が続くと騒いでいた気がする。視線を再び中庭へと落とすと先程より人が増えている。
芝生の上でランチを楽しむもの。お茶を楽しみながらも読書に耽るもの。午後は休講しどこに行くか予定を話し合っているもの。
普段は落ち着き物静かな学生達も今日ばかりはみな浮き足立ち羽目を外しているようだ。あまり騒がないよう注意する教諭達もまたそれを望み自分達も一時の余暇を楽しむつもりでいるように見える。
そんな中、一人の人物に目を奪われる。
明らかに異質に映るその人物は賑わう中庭をするりと抜けていく。誰に止められることもなく、咎められることもなく。
直感が、反応する。
気付いたら階段を駆け降り中庭へと足を踏み入れていた。あまり、と言うかまったく運動をしてこなかったのがたたって息切れが酷く両膝に手をつき肩で呼吸をするも視線だけは周囲へ配る。あの足運びならおそらくまっすぐ校外へ行くはずだ。本館を通り抜ける廊下を見据え目をこらすも人の出入りが激しくよく見えない。
(諦めない!)
折角掴んだ手掛かりだ。ここで諦めるわけにはいかない。確証はないのだが。
榊の真似事ではないが、姿勢を正し深く呼吸を繰り返す。そして自分の中のイメージを鮮明に思い出す。
それは、本棚。その中の一つの本を、開く。
『略式呪術』
そう名付けた。少し恥ずかしかったが、名前をつけた方がイメージし易いと相談した際に椿がそう助言してくれた。
予め生み出した術をイメージの中の本へ記録させておき本を開くと発動させる『略式呪術』は旋律なしで使う事が出来るがその場の状況に左右されるような術には使えない。
つまり予め決まった対象には使えるがその都度その場の状況で対象を選定しなければならないような術は記録できない。しかも対象が10m程の中にいないと使えない。
便利と引き替えに色々制約はある、が。
(今はそれでも十分!)
本に付けたタイトルをこっそり読み上げる。
『魔導書・強化』
それは身体能力の向上と体力の回復。
みんなについて行く為に、将や睦生が自分を気にせず立ち回れるように、そして何よりみんなが必ず生き残れる為に作った術。
疲労は消え身体が軽くなるのを実感する。思い通りに動かせる。だからといって常人離れした身体能力を手に入れるわけではない。それだと肉体が持たない。同じ理由で長時間の継続も出来ない。
効果は5分ほどで能力向上も1割程度だ。それが今の自分達がギリギリ耐えられる時間と効果だった。
周りを見渡し気付かれていない事を確認できると軽快な身のこなしで人の間を走り抜けていく。心なしか人の動きが緩く見える。身体能力には脳の処理速度も含まれているのだろうか。だとしたらこの術の副作用もかわってくるかもしれない。
本館を抜け正門へ駆けつける。丁度、先程の作業着の男が横付けされた車の助手席へ乗り込む所だった。運転しているのは女性のようだ。黄土色に近い明るい黄色の車は普通車に比べ小型で小廻りが得意そうだ。ナンバーを覚え急いで携帯で写真を撮ると全員へ一斉にメールする。もちろん、ナンバーも記入して。




