第Ⅳ章 傲慢王子
迷宮の内装はと言えば、全て見事な石造りであった。白を基調とした柱や壁、扉。しかし、それらの規格がおおよそ人間族のものとは思えない。流石は巨人族の迷宮。しかし、あの湖の浮島の地下にこのような巨大空間が存在するのは、やはり物理的に不可能だ。となると導き出される答えは・・・・・・・・・・・・。
「そうか。ここは別位相の空間なのか」
「別位相?どういうこと?」
リーナがアッシュに尋ねる。するとアッシュは両掌を上に向けて、リーナの眼前へ差し出した。
「右の掌が、僕たちが普段生活している空間。左の掌が、僕らが今いる空間。この二つの空間は、こんな風に並行して連続性をもって存在しているんだけども、少しズレた場所にあるんだ。数学的な言葉を使って言うと、『座標が違う』ってこと」
「う~ん、なんだかよく分からないです」
「だろうね。まあ難しい話ではあるけど、別の次元から何かを召喚したりっていうのは、魔法や魔術の世界ではよくあることだよ」
「おい、無駄話をしている暇があったら少しは策を考えろ。手を貸す代わりに俺の手を貸せと言ったのは貴様だぞ」
マティアスがアッシュに釘を刺す。そしてある部屋の巨大な石扉を押し開けた。分厚く巨大で、人の力では到底動かせそうにないのだが、どうもマティアスが軽い力で押し開けていることを、アッシュは不思議に思った。
「なるほど。扉と根元に術式が埋め込まれているのか。それなら、造りは仰々しくても指一本で開けられるな」
「術式を埋め込む?」
リーナが再びアッシュに質問する。リーナの魔術や魔法に対する知識の無さは、ほとほと呆れる。
「本当になんにも知らないんだね・・・・・・・・・・・・。まあ、いいけど。ほら、ここ見て」
リーナは若干傷つきながらも、アッシュが指差した場所を見る。するとそこには、何やら刻まれいる。
「これは・・・・・・・・魔法陣?」
円図形の内側の幾何学的な模様、そして幾つも彫り込まれた文字。そう、魔法陣。数多の儀式や魔術の発動の鍵となるものだ。
「埋め込むっていうよりかは、素材そのものに『刻み込む』って言うか、『編み込む』って言うか。要は石とかにこんな風に術式を直接捻じ込んで、物を浮かせたり、動かす補助にしたりしているのさ。アリアドネの糸にも、同じ技術が使われてるよ」
「え?でもあんな糸にどうやって魔法陣とかを描くの?」
「言ったでしょ?素材そのものに『編み込む』って。糸を構成している素材単位に術式を捻じ込んでいるのさ。精密な作業だから、かなり高位の魔導士か魔術師にしかできないけどね」
「じゃあ、どんな術式が組み込まれてるの?術式って魔力への命令なんでしょ?」
「それは知ってるのか・・・・・・・・。そうだな。簡単に言えば『転写』と『再構成』。まず糸の素材を解析させて、複製する。そして大量に複製した糸の素材を、糸に再構成する。そういう風にして、実質無限に伸びる糸が出来上がるってわけ。結構歩いたけど、糸は全然減ってなかったでしょ?」
なるほど、とリーナが手鼓を打つ。
「おい貴様ら!!俺を差し置いて学び舎の真似事なんぞするな!!時間がないのだぞ!!!」
マティアスが床を叩く。アッシュは短く詫びを言ってその場に座り込んだ。
「まず僕たちがここへ来た理由から説明しておこうか。数時間前、何者かが湖に毒を流した。犠牲者はなかったけど、毒を口にした時の衝撃でまだ目覚めない人もいる。毒が発せられていたのは湖の中心である浮島からだった。僕は迷宮内部から何者かが毒を流したと推測し、来てみれば迷宮入口の封印は人の手によって破られていた。それで《遺産》を持ってる僕たち二人が、国の軍隊に先駆けて内部調査しにきたってわけ」
「ふむ。それで、先刻ヒュルデに心当たりがあると言ったな。あれはどういう事だ?」
マティアスは手を顎に添えて問う。
「僕はそのヒュルデって魔術師が犯人だと睨んでいる。ここの入口の封印魔術を作ったのは君らの所にいた宮廷魔術師だ。誰か一人だけが編んだ術式っていうわけでもないだろう。封印魔術や防御魔術の類は、施術する術者の数が多ければ多いほど、質が高ければ高いほど強度を増す。ヒュルデって人物は、間違いなくあの封印魔術の施術に一枚噛んでいる。逆に言えば、それの解き方も知ってるわけだ。けど、全部綺麗に解術ってわけにもいかなかったんだろう。宮廷魔術師っていうのは、大体超万能な魔術師一人か、各分野に秀でた魔術師を数人雇うのが基本だ。クレタ王国は後者の方を採用してたらしいね」
「だからあんな強引に抉じ開けたように、石扉が砕かれていたってこと?」
その通り、とアッシュはリーナに言う。しかし間にマティアスが割って入る。
「だがそれでは犯人がヒュルデであるという確固とした証拠がないぞ?」
「まあ、ね。犯人の枠にヒュルデって人を入れてるのは、君がさっき口走ったからなんだよ。それ以外はその人だって決めつける根拠はない。それに、真っ先にその名前を口にしたってことは、何か心当たりがあるってことだよね?」
マティアスはふむ、と言って黙り込んだ。
「・・・・・・・・・・・・・ヒュルデと言う女はな、俺が生まれる前の年から宮廷に雇われた魔術師でな。俺からしてみれば、二人目の母親も同然だった。よく子供の俺の面倒も見ていてくれていたしな。姉上もあやつには世話になっていたから、その意見は変わらんと思う。だが、歳を重ねて考えてみれば、いささか不審な点は多くてな。先刻、姉上は魔術医療を受けていた、と言ったであろう?彼女の体調管理や治療を任されていたのはヒュルデだったのだが、あやつはその度に部屋に姉上と二人きりになっていたのだ」
「なるほど。多分その個室は儀式用の簡易祭壇を備えた部屋だ。遠くにいる人間に呪いを掛けるなら、もっと本格的な祭壇や陣が必要になるけど、相手に直接触れられるならそんな大掛かりな準備をする必要はないからね。他には?」
「工房には誰一人として立ち入らせなかったな。父上や母上でもだ」
「ちょっ、ちょっと待って二人とも。なにがなんだかさっぱりだよぅ」
リーナが涙目で訴えてくるが、男二人は首を傾げる。
「そうか?これくらい普通であろう」
「僕としても話が早いのは助かるんだけど。まあ、少しペースを落とそうか」
そう言ってアッシュは大きく息を吐いた。
「普通、魔術師の工房には人は入れないものなんだ。自分の技術を盗まれる可能性があるからね。でも宮廷魔術師は別。ある程度は雇い主に公開しないといけない。そうでないと、国王の暗殺なんて簡単にできちゃうからね。そんなことが頻繁に起こったらこの世の中は滅茶苦茶だ。だから、宮廷魔術師は自分の雇い主にある程度の情報公開が要求される。それは技術的な面でも、設備的な面でもね」
「じゃあ前国王はそれをしなかったの?」
「父上はあやつを大層気に入っていた、というのが大きいだろうな」
「なんて職務怠慢だ。どれだけ贔屓してたんだ」
各々、深く溜め息をついた。この期に及んで、前の王室のとんでもない内情が浮かび上がってきたからである。
「ここで犯人捜ししてても仕方がない。とにかく魔力を毒に変えた儀式の跡を探そう」
「場所に目星はあるのか?」
「何処か外の湖に、浮島の下あたりに繋がってる扉。この迷宮の魔力が外に漏れだしてる場所。心当たりは?」
アッシュがマティアスに尋ねると、彼は顎に手を当てて考え込んだ。
「・・・・・・・・・・一つだけ心当たりがある。案内しよう」
迷宮の中の造りは相変わらず人間大には造られておらず、しかし人間でも動かせられる仕組みが整えられている。人に親切なのか不親切なのかよく分からない。
「着いたぞ。転移門だ」
二人はマティアスに連れられ、手狭な部屋に辿り着いた。控えめに広がる白い空間の中央の段差で高くなった場所に、二本の柱が屹立している。
「転移門・・・・・・・・・・・・・・。特定の場所どうしを繋ぐ魔術装置か」
「もしかして、この迷宮の入口と同じものですか?」
「リーナさんにしては鋭いね。正解だよ」
「アッシュくんひどい!!」
二人のやり取りを見て、マティアスは本日何度目かの溜め息を吐く。
「なんでもいいから早くしてくれ・・・・・・・・・・。この向こうは浮島の下、湖面よりも下の場所にある空洞に繋がっている。そしてそこの突き当りには、水溜りのようなものがある。そこから下は湖の底まで水中だ」
アッシュは頷くと、転移門の段差を登る。
柱の間を通過した瞬間――――――――――――――――――――――――――アッシュの姿が消え去った。
「今ので向こう側に転移したってことですよね?」
「そうだ。貴様も早く行―――――――――――――――」
「待った!!」
マティアスの言葉を遮るように、アッシュの声が響いた。アッシュが転移門の向こうから戻ってきたのだ。
「なにかあったの!?」
リーナがアッシュに尋ねる。すると、アッシュは親指で背後を指した。
「毒を作った祭壇がまだ動いてる。向こうの空間は毒だ満たされている。リーナさん、悪いけど先に行ってもらえるかな」
アッシュがそう言うと、リーナはゆっくりと頷いた。そして大きく息を吐き、浄化の力を展開して門の先へと踏み出す。刹那にしてリーナの姿は消えた。
「貴様、毒まみれの場所に女を一人で先に行かせるのは、なかなかにいただけないぞ」
「一応最初に向こうに行ったのは僕だよ。それに、魔力で出来た毒なんて手に余る。適材適所ってやつだよ」
程なくして門からリーナの顔がひょっこりと現れる。どうも喋る生首が浮いているようにしか見えない。
アッシュとマティアスは門を潜り、向こう側の空間へと出た。
そこは洞窟のようになっており、天井からはひたひたと水滴が滴っている。直下の水溜りに落ちるたびに、軽やかな音があちこちに反響する。
先ほどアッシュが目の当たりにした毒気はすっかり消えており、安心して呼吸ができる。一同が奥へと進んでいくと、突き当りについた。そしてそこには巨大な水溜りがあった。
「これが外の湖に続いてるのか。そしてこっちが・・・・・・・・・・・・・」
アッシュが視線を動かすと、その先には小さな祭壇と魔法陣が設置されていた。これが毒を作り出していた仕掛けだ。アッシュが剣を抜いて祭壇を切り刻み、陣を崩すと、毒の生成は止まった。
「よし。あとはここに来るまでに湖に漏れ出た毒を消すだけだ。リーナさん、もう一回頼めるかな」
「うん、任せて」
そう言うと、リーナは水溜りに両手を浸し、胸元に吊るされた遺産に魔力を集中させた。空気中の魔力が淡い水色の輝きを放ちながら渦を巻き、水溜りの奥へと消えていく。
「・・・・・・・・・ふう。これで大丈夫なはず」
数十秒後、濡れた手を布で拭いながら、リーナは立ち上がった。
「よし。あとは、これを仕組んだ張本人をとっちめるだけだね」
「そうは言っても、そやつは何処にいるというのだ。目星はついているのか?」
アッシュにマティアスが問いかける。すると、アッシュはさも当然のように答えた。
「いや、正直あんまり。だけど、この迷宮の中にいることは確かだ」
「そこまで言い切る根拠は?」
「根拠はない。ただ・・・・・・・・・・そいつはこの迷宮の中にある“なにか”を狙っているんだと思う。それがこの迷宮の遺産なのかもしれないし、君たち姉弟なのかもしれない。ともかく、そこは本人に聞いてみないと分からない」
アッシュはそう言いながら顎を撫でる。そして踵を返し、小声でぶつぶつ呟きながら転移門の方へ歩みを進める。
「おい、リーナと言ったか。あやつはいつもあんな調子なのか?」
アッシュの背を追いながら、マティアスがリーナに小声で問いかける。
「ええ、まあ・・・・・・・・・。多分そのうち慣れますよ。わたしは、まだいまいち慣れませんけど・・・・・・・・・・・・」
そう答えながら三人は門を潜り、先ほどの純白の空間へと戻ってきた。
するとアッシュがいきなり、何かに蹴飛ばされたかのように走り出した。
「おい貴様、何処へ行く!!」
マティアスの問いかけに、アッシュは返事を返さずひたすらに走り続けた。
足を止めたと思うと、そこはフェリシアの寝室の扉だった。アッシュは扉に手を突き立てて押した。巨大な石扉はゆっくりと開く。しかし開き切るまでにアッシュは部屋の中へと滑り込み、フェリシアのもとへ駆け寄る。
「アッシュくん、どうかしたの!?」
リーナが部屋を覗き込むと、そこには額に汗を浮かべているアッシュと、茫然とした表情のフェリシアの姿があった。
「いや、杞憂だったみたいだ。僕らが祭壇を破壊してる間にフェリシアさんの命を・・・・・・・・・・なんて考えちゃったもんでね」
「つまりヒュルデの狙いは俺たち姉弟の命ではないと?」
「言い切れるわけではないけどね。でもその可能性は低いと思う。でなきゃ今頃君たち二人とも、今頃ここにはいないかもしれないしね」
そう言ってアッシュは立ち上がり、額の汗を拭った。
「リーナさん、しばらくここで彼女の様子を見ていてくれないかな。万が一誰かが彼女の命を狙いに来た時のために」
「ええぇっ!!?でも、わたし戦闘能力ほとんどないよ!?」
「それでも誰もいないよりはマシだよ。それに、訓練課程で剣術は習ってるでしょ?」
「いや、そうだけど・・・・・・・・・」
そこまで言って、リーナは諦念の溜め息をついた。ここまでこればアッシュは意見を変えないだろう。それに、確かにそうすることが一番なのかもしれない。
「それじゃあ頼んだよ。あと───────────────────」
すれ違いざま、アッシュはリーナの耳元で囁いた。その言葉に、リーナの目が驚愕によって見開かれる。
それだけを言い残して、アッシュとマティアスは部屋を出て行った。扉が外側の世界からこの場所を重く閉ざす。
「変わった少年ですね、彼は」
フェリシアは優しく微笑みながら言った。
「はい。わたしの方が年上なのに、わたしよりしっかりしてて」
リーナも少し表情を崩しながら応える。そして、すれ違いざまのアッシュの言葉を頭の中で反芻させる。
───────────────────君の遺産の能力は治癒だけじゃないと思う。
その言葉が本当なのだとしたら、自分のこの胸元に吊るしてある宝石のようなものは、まだまだ力を秘めているということになる。
一体、どのような力なのだろうか。リーナはそれを自分の心の中に探そうとした。
「それで、貴様はこれから何処に行こうというのだ?」
「ここに眠る遺産がある場所。ここに来たなら大方の目的はそこだと思う」
「そうか・・・・・・・・・・・・。ならばそこにヒュルデがいるのだな」
「侵入者がそのヒュルデって人かは確かじゃないけど、誰かはいると思う。ただ、それが一人なのか複数人なのかは分からないけどね」
そう、アッシュがここに入った時からなんとなく考えていたこと。それは、侵入者の人数。
最初、アッシュはこの事件は単独犯によるものだと推測していた。そして、今でもその可能性が一番高い。何より疑わしいヒュルデという宮廷魔術師の存在が、その仮説を支えていた。そしてそれに並ぶのが複数人の集団による犯行という可能性。出入り口の封印は、万能な魔術師一人いれば、あんな強引な解除方法のみならず、もっと丁寧に解除することも出来る。先代の国王、マティアスの父親が彼女を贔屓していたようだから、万能型の魔術師なのかもしれないと思っていた。
しかし、もしそうではなく彼女が何かしらの分野に長けた魔術師だとすると、自然と浮かび上がってくるのは複数犯説。あの封印は魔術師一人で破壊できるような生易しいものではない。多くて四,五人は魔術師が必要になるような代物だ。もし魔術師が五人いたとして、大人五人対子供二人。この上なく分が悪い。
「そう言えば、君はここに眠ってる遺産がどんなものなのか知ってるのかい?」
「ああ。何度も見ているし触っている」
それを聞いてアッシュは驚いた。
「それってつまり遺産が君を認めてるってこと?」
「それならとっくに遺産は俺のもので、襲撃者なぞ来なかっただろうさ」
それもそうだ、とアッシュは思った。しかし、そもそも遺産に認められないとそれ自体に触れることはおろか、近づくことすら普通は出来ないはずだ。
アッシュの時は遺産がアッシュへ語り掛けた。我が子を救ってくれ、自分と同じ場所へ連れて来てくれ、と。
しかし、それならなおのこと妙な話だ。
「つまり君は遺産に認められていない・・・・・・・・わけではない、かなり中途半端な状態」
「そんなところだろうさ」
そう言いながら、二人はつかつかと純白の回廊を歩いていく。
しばらく歩いた後、マティアスは真っ白な大扉の前で立ち止まった。今まで見てきた扉の中で、一番大きい。
マティアスは徐に扉に触れ、軽く押した。すると、床と扉の設置面に施された魔法陣によって、扉の開放が補助される。物音ひとつ立てずに、大扉は開いた。
扉の向こうは、こちら側と同じく真っ白だった。巨大な円筒形の空間に、浮かぶ純白の石材の床。その周辺を、細い用水路がぐるりと巡り、中央と扉のこちら側とを、短い橋が繋いでいた。
そして、中央には、一人の女性が立っていた。
豊満な肉体を覆う黒い衣。しかし薄っすらと透けていた、その向こう側に細い肢体が見て取れる。
年齢はフェリシアより少し上くらいだろうか。年若く儚げな、妙齢の女性だ。
「ヒュルデ・・・・・・・・・・・・」
ぼそり、と。
マティアスが消え入りそうな声で零した。
アッシュは驚愕した。どう考えても辻褄が合わない。
マティアス曰く、彼が生まれる前からヒュルデは宮廷で仕えていた。そして、彼ら姉弟の二人目の母親、と言うくらいなのだから、それなりに年齢も離れているはずだ。なのに、アッシュの目の前に佇んでいるのは、どうみても若い女だった。
「あらあら、見覚えのある顔だと思えば・・・・・・・・・・。お久しぶりでございます、マティアス坊ちゃま」
そう言って黒衣の女性は恭しく、優雅に一礼した。その瞳はヴェールで翳になっており、見透かすには少し距離がある。
「ヒュルデ、貴様・・・・・・・・・・・・・よくのこのこと戻ってこられたな」
「はて、一体なんのことでしょう・・・・・・・・・・・。坊ちゃまに恨み言を言われるようなことをした覚えがありませんが」
「どの面を提げて俺の前に立っている、と聞いたのだ。湖に毒を撒き、姉上の身体に細工をしたのは貴様だろう!」
マティアスはなまじりを一層鋭くしてヒュルデを見やった。しかし当のヒュルデは飄々としており、マティアスの皮肉も何処吹く風だった。
「バレていましたか・・・・・・・・・。細工というほど手の込んだものではありませんが、フェリシア様から魔力を頂戴しておりました。彼女の魔力の量は頭抜けているので、これを使わない手は無いかと・・・・・・・・・・・」
「おい待て。姉上に魔術の素養は無かったはずだ!・・・・・・・・・まさか元来の病気がちな体質に偽装して・・・・・・・・?」
魔力とは命あるものすべてに宿る力で、転じて生命力とも言える。要は生命の営み、その奔流である。
一流の魔術師でも、時間の長短に関わらず魔力を大量に消費すると、体調に異常をきたしたり、最悪、死に至る場合だってある。魔力は時間経過や予備の魔力を結晶にした宝石なんかを使うことで回復するが、毎度魔力を体調を崩すまで吸い続ければ、自然と免疫力も落ちるし、病気がちに見せかけることは十分可能だ。
「ご明察。昔に比べて、多くの知識とその使い方を学んだように思われます」
そう言ってヒュルデは蠱惑的に笑った。
しかし、反してマティアスは肩を小刻みに震わせて、鋭い剣幕でヒュルデを睨んだ。
「貴様、よくも姉上をぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおッ!!!!」
マティアスは雄叫びを上げながら床を蹴り、ヒュルデ目掛けて走り出した。
しかし刹那、空間に漂う魔力が激流となってうねった。そして、マティアスの眼前に、巨大な火焔の球が出現した。
「マティアス、下がれ!!!」
それを瞬間的に察知したアッシュは、剣の鯉口を切った。火焔球は音も無く両断され、火の粉となって霧散した。突然の出来事に、マティアスはその場で尻もちをつく。
「他に来客があったことは把握しておりましたが・・・・・・・・・・なかなかのお手前で。しかし、そうなると厄介ですねぇ・・・・・・・・・・・・」
「じゃあ、厄介ついでに一つ訊かせてもらおうか」
「何なりと・・・・・・・」
アッシュの問いに、ヒュルデは慇懃に一礼して応える。
「お前の目的はなんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
アッシュの問いに、ヒュルデは黙り込んだ。
「ああ、どうしましょう。困りましたね・・・・・・・・・・・・。強いて言えば遺産が目的なのですが・・・・・・・・・・・・一体どこから説明しましょう」
しかし、口を開いたかと思えば、いまいち言葉を紡ぎあぐねていた。
「そうですね。一言で言えば、この国にある全ての魂です」
その口から出た言葉に、アッシュもマティアスも愕然とした。
「魂・・・・・・・・・つまり、魔力か」
アッシュがそう言うと、ヒュルデはヴェールの向こうで薄く微笑んだ。
『生け贄』という言葉がある。
大規模な儀式や魔術の中には、魔術師が何人集まっても足りないくらいの魔力を必要とするものがある。故に多くの魔術師は往々にして生け贄を用いることがある。
そもそも、魂は純粋な魔力の結晶体で、魔術師や魔獣、魔法を操る竜などは、そこから魔力を捻出したり、空気中に漂っているものを使用して魔術を行使する、というからくりだ。故に、一流の魔術師でも魔力を大量に消費すると、体調に変調をきたしたり、最悪、死に至る。生け贄とは、大規模な儀式や魔術行使における、そういった危険の回避策なのだ。
「なるほど・・・・・・・・・・・。だからここの泉に毒を流したのか。人や動物を殺してしまわない程度の麻痺毒で、生き物がこの国から少しでも遠くへ行ってしまわないように。そしてあんたは、生き物から魂を取り出す魔法陣を張るために放浪した。ここに帰ってきたのは、その準備が整ったから。違うか?」
「ええ、その通り・・・・・・!!まったくもってその通りです。貴方もなかなかの慧眼をお持ちのようで・・・・・・・・・・。お名前を伺っても・・・・・・・・・?」
「アッシュだ。そういうあんたは元クレタ王国宮廷魔導師のヒュルデで相違ないか?」
「はい、ヒュルデ・ブランヒルトと申します。アッシュ様、以後お知りおきを」
そう言ってヒュルデは優雅に一礼した。
「ふざけるなよ・・・・・・・・・・」
そう言ってマティアスは立ち上がってヒュルデを睨んだ。
「遺産のついでに多くの民草の命を奪うことが・・・・・・・・・・・そんなことが罷り通るとでも思っているのか!!!」
「ええ。私には・・・・・・・・・・いえ、“私たち”には為さねばならない目的があります。そのためには遺産が必要ですし、多くの魂が必要です。とにもかくにも、遺産を持ち帰るためにはマティアス様が邪魔ですし、魂を回収はアッシュ様が止めなさると思うので・・・・・・・・・・どの道お二人には消えてもらう必要があります」
そう言ってヒュルデは杖を掲げた。魔力の胎動により、今度は無数の氷柱が現れる。
ヒュルデが杖を振り下ろすと、氷柱は勢いよくアッシュたちに向かって飛翔した。
「はっ!!」
短い気合とともに、アッシュは剣を抜き放った。瞬間、魔力が大きくうねり、風の刃となって氷柱を全て粉砕した。
「マティアス、走れ!!」
硝子が砕けるような音の中、アッシュは叫んだ。
「あいつの狙いは国一個分の魂だ。止めなきゃ俺もお前も、フェリシアさんだって死ぬぞ!」
「そんなことは分かっている!!」
「だったら遺産をお前のものにしろ!!正直僕一人でどうこうできる相手じゃない。お前の力が必要なんだ!!」
そう説得しながら、アッシュは次々と殺到してくる炎や電撃を切り伏せる。
「早く行け!!ヒュルデは僕が抑える!!」
アッシュは剣を一振りし、一際強力な突風を起こし、ヒュルデの動きを止めた。マティアスは機を見て走り出した。
「そうはさせませんよ」
そう言ってヒュルデが再び杖を振った。突如として出現した火の玉がマティアスへ飛び掛かる。
しかし、突如吹き荒れた暴風により、火球はすべて掻き消された。次いで背に風を受けたアッシュが、高速で間合いを詰める。
「あら、貴方がお相手してくださるのですか?どうかお手柔らかに」
「社交界には疎いから、ちょっと保証しかねるね・・・・・・・・!」
マティアスは、遺産を前に立ち尽くしていた。
この遺産を目にするのはこれが初めてではない。だというのに、彼は今、その威容に半ば怖気づいていた。
白亜の床と祭壇に突き立てられたのは、白い柄と、大きな刃。マティアスの身の丈を超える、大斧だ。
当然、マティアスは馬鹿ではない。並みの筋力では、こんな金属の塊のような武器を扱えるはずがないことくらい、十分理解している。それに、今までこれを持ち上げようとしたことは、一度や二度ではない。経験則的にも、マティアスは知っていた。この斧は動かせない、と。
「クソッ、どうすれば・・・・・・・・・・・」
遺産に認められていないわけではない、中途半端な状態。アッシュはそう言った。
何が足りないのだろうか。何を以って、この斧は、この斧に宿る怪物は、マティアスを主と認めるのだろうか。考えたところで、答えが出るものではなかった。
マティアスはもどかしさを感じていた。昔は、望めばなんだって手に入った。金も、女も。全てがあの王宮にはあった。それが可能なほどの権力が、彼の一家にはあった。なのに、こればっかりはどうしても彼の手中に収まらない。
マティアスは、この時、望むことをしていなかった。
かつてあらゆるものを渇望し、羨望し、かつそれらを全て手中に収めることのできた先代国王は今やおらず、マティアスは何を望んでも手に入れることは出来なくなった。彼も歳を重ねて、それなりの思慮分別を身に着けたつもりだ。故に、今なにを望もうとも、それらは全て高望み・・・・・・・・・ないものねだりにしかならないと、彼は諦念していた。あれらはすべて、底知らぬ父親の財力の上に成り立っていた豪遊で、そこにマティアス自身の力は微々たりとも存在しない。自分には、なにもないのだ、と。
彼は、とっくに、欲することをやめていたのだ。
「マティアス、何やってる!!」
背後から鋭い叱責が飛んできた。振り返ると、アッシュがヒュルデと鍔迫り合いをしていた。服のあちこちはぼろぼろに裂け、または燃えて煤けている。ところどころに血液と思しき赤色の染みが広がっていた。
「このままじゃお前もフェリシアさんも死ぬんだぞ!?それでもいいのか!!」
激しい衝突音とともに、アッシュの声が届けられる。
「しゃんとしやがれ、傲慢王子!!思い出せ、その遺産の逸話を!!」
マティアスは、その言葉を半ば自失して聞いていた。
しかし、彼の脳裏にはふと、かつて母親から聞かされていた“とあるお話”が浮かんだ。
曰く、かつてこの王国を支配し、威張りちらしていた迷宮の主は、村の若い娘たちを生け贄として欲した。何十人と娘たちがこの迷路へ叩き落とされ、弄ばれ、凌辱され、最期に食われて死んでいったらしい。そしてついに勇者が行動に出るのだ。
何かが、引っかかった。
マティアスの意識に、何かが引っかかった。
「よく考えろ!その遺産は、お前自身だ!!!」
マティアスの瞳に、僅かだが光が戻った。
しかし、戻った熱は、ほんの僅か。
「しかし・・・・・・・・俺のは力に裏打ちされた欲望じゃない。この怪物は、その強欲を、傲慢を成しえるに足る力を持っていた。だが俺は・・・・・・・・・・・・・・」
「欲望に裏打ちもクソもあるか!!!どっちも“純粋な”欲だろうが!!!」
その言葉が耳朶を打った時、マティアスの瞳に確かな熱が宿った。
「少しお喋りがすぎますよ!!!」
直後、虚空に出現した氷柱が、アッシュ目掛けて飛翔した。風を起こして薙ぎ払うが、数本は風の刃をすり抜け、アッシュの腹部を鋭く穿った。
凍り付くような死の痛みに、アッシュは思わず倒れ伏した。痛みのあまり、身体が痺れて上手く動かない。
「さて、かなり手間取ってしまいましたが・・・・・・・・・・・次は坊ちゃまの番でございます」
そう言ってアッシュを突破したヒュルデが、緩やかな足取りでマティアスに詰め寄っていく。
「しかし、ここまで弄ばれたまま終わる、というのも少々癪ですね。ちょっといたぶってみましょうか」
そう言いながら、ヒュルデは杖を縦に振った。すると、強烈な前方からの突風が、マティアスの身体に叩きつけられた。空気の塊に押されて、マティアスが宙を舞った。
床に叩きつけられて二、三度跳ねて転がり、壁際を走る水路の手前で停止した。
痛みにもんどりうちながら、なんとかヒュルデの方を見据える。既にヒュルデは遺産の祭壇まで到達していた。
「さて、火炙りも水責めもなんでもござれですが・・・・・・・・・・・・せっかくなので、これを使ってみましょうか」
ヒュルデは細い指を遺産の柄にかけた。
「貴様、分かっているのか・・・・・・・・・・・?遺産は、持ち主以外には従わんぞ・・・・・・・・・・・・」
「ええ、知っていますとも。なので、ちょっとした暗示のようなものを。私をマティアス様と誤認させるように、この遺産を構成する魔術領域に、私の情報を刷り込むのです。少し時間はかかりますが、背後の彼も当分起き上がれないでしょうし、貴方はそもそも戦力外なので、気にする必要はありませんね」
そう言うと、ヒュルデの掌に複雑な幾何学模様が浮かび上がった。
そしてその瞬間、マティアスは、ぞわり、と総毛立つのを感じた。まるで、自分の奥深くに異物が入り込んでくるかのような。
「やめろ・・・・・・・・・・・!!!」
無意識に口走った言葉。
「それ以上、そいつに触るなッ!!!」
しかし、確固たる確信を得て放たれた言葉。
その言葉に呼応するかのように、黄金の閃光が迸り、ヒュルデを後方へ吹き飛ばした。
「これは・・・・・・・・・・・電撃?」
ヒュルデが思わず口にする。そう、彼女を後方へ弾き飛ばしたのは、遺産から放たれた雷撃だったのだ。
「悪いんだが・・・・・・・・・・そいつは俺のものだ」
マティアスはなまじりを鋭くしてヒュルデを睨んだ。瞬間、床に突き刺さっていた斧が独りでに動き、宙を舞ってマティアスの間隣に突き立った。
「そんな・・・・・・・・・・・まさか、遺産が主だと認めたというのですか!?」
「どうやらそうらしいな。それに、俺も多少は吹っ切れた。遠慮なくこの力を使うとしよう」
そう言ってマティアスは凶悪そうな笑みを浮かべた。その姿は、まさしく圧政者。独裁の頂点たる者の表情だった。
マティアスは斧の柄を握り、地面から引き抜いた。その重厚そうな様相に反して、重さはさほど感じない。皆無というわけではないが、手に馴染む、程よい重量感を感じていた。
「しかしいくら遺産を手に入れたからといって、所詮は素人。私の敵ではありません!!」
ヒュルデは形相を歪めて魔術を放った。無数の火球と氷柱がマティアスへ殺到する。
しかし、斧を中心とした電撃によって、全て撃ち落とされる。
「今度はこちらからだッ!!」
マティアスはそう叫びながら、ヒュルデへ向かって突進した。ヒュルデはそれを魔術で迎撃しようとする。だが無数の砲撃を全て閃光が消し飛ばし、遂に懐へ潜り込んだ。
「はあぁぁぁっ!!!!」
マティアスは渾身の気合とともに斧を振るった。しかし、ヒュルデの身体に接触する寸前で、魔術の障壁に阻まれてしまった。しかし、マティアスの突進の勢いと、彼が体感している以上の斧の重さの相乗によって、ヒュルデは後方へ大きく吹き飛んだ。
「・・・・・・・・・・・この、クソ餓鬼がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああッ!!!!!」
起き上がるとともに、ヒュルデは怒りの咆哮を上げた。その美貌は怒りで以って醜悪に歪み、歯は獣のごとく剥きだされている。
「ハッ!どうした、口調が乱れているぞ?それとも、それが本性か?」
そのマティアスの挑発にまんまと乗ったヒュルデは、極大の火焔球を出現させた。恐らく、ヒュルデ渾身の一撃。
「諸共消し炭にしてやるッ!!!死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
ヒュルデは絶叫とともに杖を振り、火焔球を放った。じわじわとその威容が視界を埋め尽くしていき、肌をじりじりと焼く熱が蔓延していった。
「疾れ、雷光───────────────」
一閃。
マティアスが縦に斧を振り下ろした。煌く刃は白亜の床に突き立てられた。刹那、大量の魔力が大きな奔流となってうねり、極太の雷閃となって空を駆けた。
それは火焔の大玉を貫いて霧散させ、その向こうにいたヒュルデに直撃した。
静まり返った室内には、電撃の音が、遠雷のように木霊していた。