;第零話
「───サキー、こっち手伝ってくれるー?」
「はーい!いま行く!」
春。
地中の種が、長らくの眠りから覚める時。
ちいさな二葉に姿を変えて、萌えいづる季節。
わたし吉野咲季は、先日に北海道まで越してきた。
今は母と二人、荷解きの作業に追われている。
早いもので、明日は高校の入学式。
明後日からは、高校生活が始まる予定だ。
わたしは市内の女子校に入学が決まっていて、届いた制服も着下ろし済み。
憧れだったセーラー服と共に、これからの青春を過ごしていけるかと思うと、感動も一入だ。
「ふー……。リビングの方は、とりあえず良いかしらね」
「お疲れさま。こっちもだいたい仕舞い終わったよ」
「ありがとー。
明日から新入生になろうって人に、本当はこんなことさせたくないんだけどねぇ」
「いいよいいよ。他にやること、もう終わったし。
お父さんは何時ごろ帰って来るんだっけ?」
「"定時の予定ではある"、だってさ」
「またそれかぁ」
もちろん、楽しいことばかりではない。
移住に伴って、慣れ親しんだ古巣とは離れ離れ。
仲の良かった友達や、親のように良くしてくれたご近所さん達とも、別れ別れになってしまった。
期待以上に不安が大きいというのが、新天地に対する率直な気持ちだ。
「栄転しても顎で使われてるようじゃあ、先が思いやられるよねぇ」
「うーん。頼りにされてる証拠かも?」
「そもそもよ?向こうがもっと前に整えてくれれば、今日明日で引っ越さずに済んだのに───」
「まぁまぁ。荷解きくらい、ゆっくりやればいいんだし。
あれ届かないー、これ壊れたー、とかが起きなかっただけでも、良しとしましょう」
「あっはは!どっちが親か分かんないね!」
とはいえ、嘆くことばかりでもない。
わたし個人の馴染みは薄くとも、北海道はわたしのルーツに関わる土地。
新しく根を下ろすなら、ここを除いて他にない。
景色が綺麗で、食べ物が美味しくて、冬になれば当たり前に雪が降る。
観光人気ナンバーワンの称号は伊達でないこと、楽しみながら慣れていけば、自ずと寂しさを越えられるはずだ。
「よし、一回休憩にしようか。
サキも、お腹減ったでしょ?焼きそばでも作る?」
「ううん、お腹は平気。
でもちょっと、肩っていうか……」
「凝った?」
「かなぁ?背中もお尻も、なんかゴワゴワになっちゃった。
外の空気吸いたいし、軽く散歩してきていい?」
「いいけど……。大丈夫?迷ったりしない?」
「ちょっと景色見てくるだけだよ。変なとこは行かない」
「そう。じゃあ、気を付けて。暗くなる前に戻っておいでね」
「はーい。行ってきます」
空の段ボール箱に囲まれた母が、飲みかけだったペットボトルの麦茶を飲み干して、こちらに手を振る。
わたしもそれにやり返し、お気に入りのカーディガンを羽織って、家を出た。
「んんー、気持ちいい」
穏やかな昼下がり、春うららの風が吹く。
乱された前髪を直しながら、後にしたばかりの我が家を仰ぐ。
菜の花を思わせる薄黄色、二階建ての一軒家。
神奈川にいた頃は借家のマンション暮らしだったから、未だに実感が湧かないけれど。
今日からわたしは、この家に"ただいま"を言うんだ。
「けっこう若い人いるなぁ。
あ、赤ちゃんだ!バイバーイ……!」
わたしの両親は、共に北海道で生まれ育った道産子。
幼馴染みから親友に、親友から恋人に発展した仲だそうだ。
通った学校は小・中・高と、更には大学まで同じ。
就職でやっと別の進路を選び、父は神奈川、母は東京へと移り住んだ。
いわゆる遠距離恋愛を続けていた間は、電話よりも手紙のやり取りが多かったと母は言う。
のちに籍を入れてからは、母が父のもとへ合流し、わたしが生まれた。
初めての子育てに悪戦苦闘した二人は、いつしかこんな話をするようになった。
新しい家族が出来たからには、遠からず故郷に帰りたい。
都会暮らしも悪くはないけれど、せっかくなら子供の成育に良い環境で再スタートを、と。
そして現在。
転勤という形で遅まきながら望みを叶えた父は、今度こそ故郷に骨を埋める決心をした。
母の要望とも擦り合わせ、二人がかりで築き上げた我が家。
時に仲違いをしたこともあったが、喧嘩するほど何とやらだと父は言う。
「(ほんとに綺麗なとこだなぁ。
こういうとこが故郷って言えるの、いいなぁ)」
銀花町。
花と名にある通り、美しい自然に恵まれた、北海道の田舎町。
大昔にはお殿様が住み、蝦夷の都とも称された城下町だったらしい。
城下でなくなったのは、後年に謀反が起きてから。
件のお殿様が酷い暴君で、民草の恨みを買った末に、お城もろとも焼き討ちにされてしまったのだそうだ。
僅かに残された城跡は、当時を物語る資料館として再建。
銀花町の名所のひとつとなり、おかげでわたしも歴史を学べた。
「お、たんぽぽはっけ───、あれ?ちょっと違う?
うーんと……、あ。でた。"ノゲシ"。聞いたことないや。
キク科の割には小さいねぇ、おまえ」
映画館よりも図書館が多く、
バスよりも市電が重宝され、
ショッピングモールがない代わりに、アーケード通りや商店街に人が集まる。
悪く言えば前時代的で、懐古主義な在り方かもしれない。
にも拘わらず、出生率は北海道随一。
若年層の移住率も、右肩上がりに増え続けている。
たとえ前時代的でも、住めば良い町である証拠だろう。
「おまえは知ってるぞ、"シロツメクサ"だ。
クローバーと違って、斑模様が入ってるんだっけ。
春だなぁ、かわいいなぁ。ふふ」
お城がなくてもいい。
お殿様がいなくたっていい。
誰かが際だって栄えるのではなく、誰もが健やかに暮らしていけるように。
かつて謀反を起こした者たちが、栄華ではなく安寧を求めた結果こそ今。
銀花という名前も、謀反に関わったある女性が、未来に希望を込めて名付けたとされている。
「この子見たことある。
………"ナズナ"。へぇー、これがナズナか。別名"ぺんぺん草"。
あ、春の七草。意外と知らないもんだなぁ」
不思議だ。
両親の生家は、厳密には隣町。
わたし個人に至っては、お盆や暮れに何度か帰省した程度で、馴染みも土地勘も殆どないはずなのに。
懐かしい。
初めて見る景色も、歩く道も、空気の匂いや手触りでさえも。
ずっと前から、知っていた気がする。
もしかして、両親の思い出が移ったか。
謎の未亡人が住むお屋敷があったとか、贔屓にしていた駄菓子屋が無くなったとか、今朝にも二人で語らっていたくらいだ。
「───ん。なんだろう、このにおい」
大通りをぐるっと巡ってから、我が家のある住宅地まで戻ってきた時だった。
ふと、花の香りがした。
道端に咲く野花とは一線を画すほどの、ひときわ強い香りだった。
足を止めたわたしは、改めて息を吸ってみた。
「さくら、かな」
これは、桜のにおいだ。
それも、蕾を開いて間もない、初桜のにおいだ。
「(たぶん、こっち。
家からは、ちょうど反対側だな)」
どこからともない、甘い誘惑。
しきりに鼻を鳴らしながら、誘惑の出どころを探し回る。
「わ、ひろーい……」
行きとは別の経路で、住宅地を彷徨うこと数分。
辿り着いたのは、閑散とした空き地だった。
元々なにがあった場所かはさて置き、住宅地の中とは思えない広さと奥行きを有している。
民家というよりは公共施設、公園なんかを作っても不足はなさそうだ。
ただし、空き地は空き地。
雑草は伸び放題で、砂利も転がり放題。
立入禁止の囲いや貼り紙なども、特に設置されていない。
本当に公園を作るとするなら、果たして何年かかるやらだ。
「やっぱり」
空き地の奥には、一本の桜木が立っていた。
ここを守る番人のような佇まいは、貫禄があって荘厳で、なにより美しかった。
「(北海道の桜は時期が遅いって聞いたけど……。
どうしてこんなところに、こんなに立派な……)」
神々しい、とでも言うべきか。
どこか引き寄せられる感じがして、自然と桜木の方へ足が向いた。
「さわっても、いいのかな」
誰にでもなく問いかけ、桜木に手を伸ばしてみる。
すると幹に触れた瞬間、鋭い衝撃がこめかみに走った。
鈍器で殴られたような痛みと、電流で揺さぶられるような熱。
幹に触れた指先から、全身に押し寄せてくる。
「ぁ、は───ッ!」
痛い。熱い。苦しい。
瞼の裏で閃光が瞬く。鼓膜の内を噪音が劈く。
目が回る。息が詰まる。
とても遠くで、とても近くで、何かが視界に色を差す。
"───、─────。"
あれは、人影か。
考えようにも、考えられない。
まるで、脳に情報を直送りされるみたいだ。
「ぅ、く───っ!」
たまらず地面に膝をつく。
幹に触れたままの手は、何故か剥がせない。
"─────、───。"
ならばと目を閉じてみる。
瞼の裏の閃光と、脳に送られる情報とが合わさって、ひとつの映像になる。
「(男の、ひと……、おんな……?
知らない、背中、服も、誰か───)」
長い黒髪、白い羽織。
腰に日本刀を差したこの人は、いったい誰だ。
忍者か侍のような出で立ちだけれど、時代背景が分からない。
顔立ちも、酷く霞がかって、よく見えない。
"いつ────時も、───お側に────。"
噪音に声が浮かび始める。
映像の人が、こちらに向かって話しかけている。
なにを言っているのか。
わたしに話しているのか。
絶え間ない頭痛と目眩に邪魔されて、肝心な部分が読み取れない。
"今日────を忘れ───、──さん。"
気付いたことは、この人だけ。
断片的に繰り返される映像の中で、登場人物はこの人しかいないということ。
この人と、わたし視点の誰かが、ずっと一緒にいるということ。
「あなた、は、わたしの───」
漠然と、理解した。
映像は、記憶だ。わたし視点の誰かが、実際に経験した出来事なんだ。
映像の人はきっと、記憶の持ち主にとって大切な相手。
時に笑って時に泣いて、睦まじく触れ合う様相からは、二人の親密さが窺える。
"──が─しょう。"
また映像が切り替わった。
わたしの視点、つまりは記憶の持ち主が、何かを手に握っている。
手鏡だ。
小さな枠に、反転した景色と、記憶の持ち主が映る。
「(わたし……?)」
日に焼けた髪、鶯色の瞳。
薄く化粧を施された、あどけなさを残す顔。
この少女、わたしと似ている。
いや、似ているどころではない。
他人の空似というには、あまりに共通点が多すぎる。
じゃあ、誰の記憶か。いつに起きた出来事なのか。
わたしは今、ここにいる。現代の日本に生きている。
こんな経験も、こんな相手も覚えがない。
母や祖母や、曾祖母の思い出話にも例がない。
だとすると、ひょっとして。
"姫様。"
ゆっくりと目を開ける。
立ち上がり、幹に額をくっつける。
「(わかった。
これは、わたしの、前世の記憶だ)」
確証はなかった。でも確信があった。
いつかのわたしは、確かにあの人を、心の底から愛していた。
最後に目にしたのは、鮮やかな群青。
あの人の胸に抱かれて、深く深く、泉の底まで沈んでいった。
一生一度の明鏡止水。帳向こうの十万億土。
命懸けだった、恋だった。
「(そっか、わたし。
あの人と、生きていたかった)」
だけど、どうしても。
最期の最後で、あの人と交わした言葉だけが、思い出せない。
「桜が、お好きなのですか」
次の瞬間、誰かの凛とした声が耳に響いた。
往時に胸を馳せるあまり、存在に気付けずにいたらしい。
驚いて声のした方へ振り返ると、その人との間を突風が吹いた。
反射的に目を瞑ってしまったわたしは、鎮まっていくのを肌で感じて、恐る恐ると瞼を上げた。
舞い散る花びらの先にいたのは、一人の少年だった。
「願わくは、いつかまた、この場所で」
短い黒髪、白いシャツ。
感嘆の息を逆に呑んでしまうほどの美貌を持った少年は、あの人と似ていた。
いいや。似ているどころでは、なかった。
"───本当に、生まれ変われると思う?"
"きっと。どこにいても、どんな姿になっても、必ず見付ける───。"
そうだ、約束をした。
あの日、共に眠ったこの場所で、今は桜が花開く。
そうだ、思い出した。
あなたは、かつてのわたしが愛した、あなたの名前は。
「必ず見付けるって、言ったでしょう」
微笑んだ少年が、こちらに手を差し延べる。
涙の溢れたわたしは、少年に向かって走り出した。
"───また会えたら、今度も仲良くしてくれる?"
"今度こそ、幸せにします。"
"幸せになる、でしょう。わたしも、あなたも───。"
わたしは、あなたを知らない。
今のあなたは、あの頃のあなたとは違う。
あの人とあなたは、同じであって別の存在。
なのに、とても。
懐かしくて、愛おしい気持ちが止まらない。
"わたしだけの───。"
大切なことを、忘れている気がしていた。
欠けたものを、探しながら過ごしてきた。
ずっと、待っていたんだ。
あなたと、再び会える、この時を。
「会いたかった、サイ」
ねえ、あなたの名前を教えて。
『あなたは桜花の化身』
;完結
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。