;最終話
才蔵は、道なき道を進み続けた。
千切れそうな体を引き摺りながら、想い人の名を叫びながら。
すると、才蔵の叫びに応える声があった。
小ぶりの鈴を転がしたような、か細くも通りの良い、少女の声だった。
少女の声のする方へ、才蔵は茂みを掻き分けていった。
やがて茂みが途切れると、大きな柏の木が現れた。
柏の木の下には、ひとりの少女がいた。
冷たい幹に凭れ、湿った草むらに隠れた少女は、息を潜めてじっと座り込んでいた。
少女こと雨希は、才蔵の顔を目にするや否や、才蔵の胸に飛びついた。
才蔵の怪我を案じながら、才蔵の無事を喜びながら。
雨希は、才蔵を信じていた。
必ず迎えに来てくれると信じていた。
だからこそ、たったひとりで待ち続けた。
どんなに寒くて怖くて、いつにも増した喀血に襲われても。
間に合わなかったらどうしようと、何度とない不安に駆られても。
雨希は才蔵を信じて、才蔵を信じる自分を信じて、待ち続けた。
互いに約束を守っての再会。
互いに瀕死を労っての抱擁。
才蔵は雨希の寛容に、雨希は才蔵の献身に、深く感謝した。
才蔵が流した血の分だけ、もしくはそれ以上に、雨希の涙は溢れて止まらなかった。
しかし、刻限は差し迫っていた。
才蔵は千切れそうな体に鞭打って雨希を支え、雨希は才蔵に負担を掛けまいと歯を食い縛り、二人で彼の地を目指した。
彼の地には、美しい泉が広がっていた。
鬱蒼とした茂み続きから一転、背の高い枝垂れ柳に囲われた泉は、あらゆる不浄を洗い流すがごとく、澄んだ空気に満ちていた。
きらきらと瞬く水面には、夕焼けの空が映っていた。
黄金色に染まった光景は、まるで春おわりの菜の花か、夏はじめの小麦畑のようだった。
もしも、雨希の故郷に恵みの雨が降ったならば。
同じ光景を、お目にかかることがあったかもしれない。
現し世の泉。
才蔵と雨希にとって正しく、そこは地上の楽土と呼ぶに相応しい場所であった。
泉のほとりには、一隻の小舟が捨ててあった。
小舟は筏ほどに小さく、長い年月を感じさせる舟だった。
誰のものかは定かでないが、いつぞやに此処を訪れた某が、無用の長物と置いていったのだろう。
最初に気付いた雨希が才蔵に教え、二人は小舟を使わせてもらった。
才蔵は雨希を抱えて小舟に乗せ、泉に浮かべてから自らも飛び乗った。
不思議なことに、小舟はひとりでに動き出した。
櫂を持たずとも、風が吹かずとも、小舟はより相応しい場所へと二人を誘った。
およそ泉の中心まで来たところで、ぴたりと小舟は止まった。
ここまで来れば大丈夫と、向かい合う二人は微笑んだ。
風前の灯火となった命が、燃え尽きる前の光を放つ。
息は浅く、瞼は重く。
座っているので精々で、視界も段々と白んでゆく。
さりとて二人は、穏やかな心地だった。
身を裂く痛みも苦しみも、この時ばかりは忘れられた。
思い立った才蔵は、自らの結髪に触れた。
赤い組紐を解くと同時に、雪崩を起こした毛先が、才蔵の腰と胸元に落ちていった。
解かれた組紐は才蔵の手で引き延ばされ、二人の手首を繋ぐ形で結び直された。
雨希は才蔵のなすがまま、二人で一つの赤をうっそりと見詰めていた。
「これでもう、離れません。私たちは、ずっと一緒です。」
結んだ手と手が表裏に重なる。
才蔵が握ると、雨希は指を絡めて返した。
「ええ。ずっと一緒。二度と、離れないわ。」
もう一方の手で才蔵の前髪を分けた雨希は、才蔵の額に口付けたあと、自らの額を寄せた。
「ねえ、サイ。後悔してない?」
「まさか。この瞬間のために生きてきた。」
「本当に、生まれ変われると思う?」
「きっと。どこにいても、どんな姿になっても、必ず見付ける。」
話したいことはたくさんあったが、話す必要はなかった。
話すために、言葉で紡ぐ必要がなかった。
「また会えたら、今度も仲良くしてくれる?」
「今度こそ、幸せにします。」
「幸せになる、でしょう。わたしも、あなたも。」
どちらともなく、最後の口付けを交わす。
「ねえ、サイ。
あなたの本当の名前を教えて。」
再び額を寄せあって、雨希は問うた。
「銀子。銀色の子ども。
それが私の、本当の名だった。」
雨希から目を逸らさずに、才蔵は答えた。
「銀色の、子ども。」
「ですが、貴女にとっての私は、玉月才蔵です。
貴女には、貴女が付けてくれた名で、呼んでほしい。」
「わかった。
あなたがそう言うなら、わたしにとってはずっと、あなたは才蔵。
わたしだけの、サイ。」
ああ、もう。
わたしは、あなたは。
泣き腫らした目が、また熱い涙を溢れさせる。
「愛しているわ、サイ。あなたに会えて、よかった。」
「私もです。愛しています。ウキさん。」
雨希は才蔵を、寂しい人だと思っていた。
誰にも愛されず、誰からも顧みられず、いつも一人ぼっちでいる可哀相な人だと思っていた。
いつしか雨希は、才蔵には支えとなる誰かが必要だと気付いた。
気付けば雨希は、その誰かに自分がなりたいと考えるようになった。
誰より義気と母性の強かった雨希には、世の醜悪に犯され続ける才蔵を放っておけなかった。
雨希はただ、才蔵と生きていたかっただけだった。
才蔵を支え、才蔵を守り、才蔵を幸せにする許しが欲しかっただけだった。
たとえ才蔵が、最後に自分を選ばずとも、構わなかった。
才蔵と自分で幸せになれずとも、自分と出会った才蔵が幸せになってくれれば、雨希には十分だった。
恋慕にして慈愛。
それこそが、雨希の愛のかたち。
雨希は確かに、才蔵を愛していた。
才蔵もまた、確かに雨希を愛していた。
世のため人のためと、自らの血肉を切り売りするような雨希が、才蔵にはいじらしくて堪らなかった。
ただし、才蔵と雨希とでは、愛のかたちが異なった。
雨希と同じ感情を、才蔵が向けていた相手は、己で手にかけた男だった。
才蔵は松吉を好いていた。
才蔵と松吉は、すれ違いながらも想いを通わせていた。
その上で才蔵は、雨希を選んだ。
才蔵が求めていたのは、恋ではなく愛だった。
松吉からの熱ではなく、雨希からの温もりに、才蔵は幸福を見出した。
敬慕にして親愛。
これこそが、才蔵の愛のかたち。
才蔵にとって雨希は、友人であり恋人であり、妻であり母だった。
才蔵と雨希。
愛し愛されながらも、かたちを違えた理由はふたつ。
雨希は、才蔵が男性であっても変わらず愛した。
才蔵は、己も雨希も女性であったからこそ愛せた。
雨希は、才蔵と生きていきたいと望んだ。
才蔵は、雨希に生きてほしいと望んだ。
近くて遠く、似て非なる。
性差を乗り越えた雨希と、性別に縛られた才蔵。
一目惚れだった雨希と、徐々に惹かれていった才蔵。
才蔵のためなら全てを差し出せる雨希と、雨希のためなら全てを投げ出せる才蔵。
二人の未来を夢に見た雨希と、雨希の明日を恋い焦がれた才蔵。
大きくて小さい、提灯に釣鐘。
報われない定めなら、叶わない願いなら。
捨てられる前に、破いて撒こう。
血みどろになって、徒花を咲かそう。
二人ぼっちの終わりを、二人きりの始まりに。
「おねがい。」
いっそ今が、一生で一番かもしれない。
来世に馳せる二人分の祈りを、焼けた太陽だけが静かに見守っていた。
「願わくは、いつかまた、この場所で。」
才蔵が囁き、雨希が頷く。
才蔵が抱き寄せ、雨希が寄り添う。
小舟が揺れ、飛沫が舞う。
無人が無音を連れてくる。
泉に身を投げる瞬間も、水底へと沈んでいく最中にも、二人が離れることは決してなかった。
慶応三年、四月二十三日。
玉月才蔵、千茅雨希。
群青の夢に抱かれ、ここに眠る。
『花の雨』