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現し世は桜花の化身  作者: 和達譲
;現し世から桜の園へ
74/75

;最終話



才蔵は、道なき道を進み続けた。

千切れそうな体を引き摺りながら、想い人の名を叫びながら。


すると、才蔵の叫びに応える声があった。

小ぶりの鈴を転がしたような、か細くも通りのい、少女の声だった。


少女の声のする方へ、才蔵は茂みを掻き分けていった。

やがて茂みが途切れると、大きな柏の木が現れた。


柏の木の下には、ひとりの少女がいた。

冷たい幹に凭れ、湿った草むらに隠れた少女は、息を潜めてじっと座り込んでいた。


少女こと雨希は、才蔵の顔を目にするや否や、才蔵の胸に飛びついた。

才蔵の怪我を案じながら、才蔵の無事を喜びながら。



雨希は、才蔵を信じていた。

必ず迎えに来てくれると信じていた。


だからこそ、たったひとりで待ち続けた。

どんなに寒くて怖くて、いつにも増した喀血に襲われても。

間に合わなかったらどうしようと、何度とない不安に駆られても。


雨希は才蔵を信じて、才蔵を信じる自分を信じて、待ち続けた。



互いに約束を守っての再会。

互いに瀕死をいたわっての抱擁。


才蔵は雨希の寛容に、雨希は才蔵の献身に、深く感謝した。

才蔵が流した血の分だけ、もしくはそれ以上に、雨希の涙は溢れて止まらなかった。


しかし、刻限は差し迫っていた。

才蔵は千切れそうな体に鞭打って雨希を支え、雨希は才蔵に負担を掛けまいと歯を食い縛り、二人で彼の地を目指した。



彼の地には、美しい泉が広がっていた。

鬱蒼とした茂み続きから一転、背の高い枝垂れ柳に囲われた泉は、あらゆる不浄を洗い流すがごとく、澄んだ空気に満ちていた。


きらきらと瞬く水面みなもには、夕焼けの空が映っていた。

黄金こがね色に染まった光景は、まるで春おわりの菜の花か、夏はじめの小麦畑のようだった。


もしも、雨希の故郷ふるさとに恵みの雨が降ったならば。

同じ光景を、お目にかかることがあったかもしれない。


現し世の泉。

才蔵と雨希にとってまさしく、そこは地上の楽土と呼ぶに相応しい場所であった。



泉のほとりには、一隻の小舟が捨ててあった。

小舟は筏ほどに小さく、長い年月としつきを感じさせる舟だった。


誰のものかは定かでないが、いつぞやに此処を訪れた某が、無用の長物と置いていったのだろう。


最初に気付いた雨希が才蔵に教え、二人は小舟を使わせてもらった。

才蔵は雨希を抱えて小舟に乗せ、泉に浮かべてから自らも飛び乗った。


不思議なことに、小舟はひとりでに動き出した。

櫂を持たずとも、風が吹かずとも、小舟はより相応しい場所へと二人をいざなった。


およそ泉の中心まで来たところで、ぴたりと小舟は止まった。

ここまで来れば大丈夫と、向かい合う二人は微笑んだ。



風前の灯火となった命が、燃え尽きる前の光を放つ。


息は浅く、瞼は重く。

座っているので精々で、視界も段々と白んでゆく。


さりとて二人は、穏やかな心地だった。

身を裂く痛みも苦しみも、この時ばかりは忘れられた。



思い立った才蔵は、自らの結髪に触れた。

赤い組紐を解くと同時に、雪崩を起こした毛先が、才蔵の腰と胸元に落ちていった。


解かれた組紐は才蔵の手で引き延ばされ、二人の手首を繋ぐ形で結び直された。

雨希は才蔵のなすがまま、二人で一つの赤をうっそりと見詰めていた。




「これでもう、離れません。私たちは、ずっと一緒です。」



結んだ手と手が表裏に重なる。

才蔵が握ると、雨希は指を絡めて返した。



「ええ。ずっと一緒。二度と、離れないわ。」



もう一方の手で才蔵の前髪を分けた雨希は、才蔵の額に口付けたあと、自らの額を寄せた。



「ねえ、サイ。後悔してない?」


「まさか。この瞬間のために生きてきた。」


「本当に、生まれ変われると思う?」


「きっと。どこにいても、どんな姿になっても、必ず見付ける。」



話したいことはたくさんあったが、話す必要はなかった。

話すために、言葉で紡ぐ必要がなかった。



「また会えたら、今度も仲良くしてくれる?」


「今度こそ、幸せにします。」


「幸せになる、でしょう。わたしも、あなたも。」



どちらともなく、最後の口付けを交わす。



「ねえ、サイ。

あなたの本当の名前を教えて。」



再び額を寄せあって、雨希は問うた。



「銀子。銀色の子ども。

それが私の、本当の名だった。」



雨希から目を逸らさずに、才蔵は答えた。



「銀色の、子ども。」


「ですが、貴女にとっての私は、玉月才蔵です。

貴女には、貴女が付けてくれた名で、呼んでほしい。」


「わかった。

あなたがそう言うなら、わたしにとってはずっと、あなたは才蔵。

わたしだけの、サイ。」



ああ、もう。

わたしは、あなたは。


泣き腫らした目が、また熱い涙を溢れさせる。



「愛しているわ、サイ。あなたに会えて、よかった。」


「私もです。愛しています。ウキさん。」




雨希は才蔵を、寂しい人だと思っていた。

誰にも愛されず、誰からも顧みられず、いつも一人ぼっちでいる可哀相な人だと思っていた。


いつしか雨希は、才蔵には支えとなる誰かが必要だと気付いた。

気付けば雨希は、その誰かに自分がなりたいと考えるようになった。

誰より義気と母性の強かった雨希には、世の醜悪に犯され続ける才蔵を放っておけなかった。


雨希はただ、才蔵と生きていたかっただけだった。

才蔵を支え、才蔵を守り、才蔵を幸せにする許しが欲しかっただけだった。


たとえ才蔵が、最後に自分を選ばずとも、構わなかった。

才蔵と自分で幸せになれずとも、自分と出会った才蔵が幸せになってくれれば、雨希には十分だった。


恋慕にして慈愛。

それこそが、雨希の愛のかたち。

雨希は確かに、才蔵を愛していた。



才蔵もまた、確かに雨希を愛していた。

世のため人のためと、自らの血肉を切り売りするような雨希が、才蔵にはいじらしくて堪らなかった。


ただし、才蔵と雨希とでは、愛のかたちが異なった。

雨希と同じ感情を、才蔵が向けていた相手は、己で手にかけた男だった。


才蔵は松吉を好いていた。

才蔵と松吉は、すれ違いながらも想いを通わせていた。


その上で才蔵は、雨希を選んだ。

才蔵が求めていたのは、恋ではなく愛だった。

松吉からの熱ではなく、雨希からの温もりに、才蔵は幸福を見出した。


敬慕にして親愛。

これこそが、才蔵の愛のかたち。

才蔵にとって雨希は、友人であり恋人であり、妻であり母だった。



才蔵と雨希。

愛し愛されながらも、かたちを違えた理由はふたつ。


雨希は、才蔵が男性であっても変わらず愛した。

才蔵は、己も雨希も女性であったからこそ愛せた。


雨希は、才蔵と生きていきたいと望んだ。

才蔵は、雨希に生きてほしいと望んだ。


近くて遠く、似て非なる。



性差を乗り越えた雨希と、性別に縛られた才蔵。

一目惚れだった雨希と、徐々に惹かれていった才蔵。


才蔵のためなら全てを差し出せる雨希と、雨希のためなら全てを投げ出せる才蔵。

二人の未来を夢に見た雨希と、雨希の明日を恋い焦がれた才蔵。


大きくて小さい、提灯に釣鐘。



報われない定めなら、叶わない願いなら。

捨てられる前に、破いて撒こう。

血みどろになって、徒花を咲かそう。


二人ぼっちの終わりを、二人きりの始まりに。




「おねがい。」



いっそ今が、一生で一番かもしれない。

来世に馳せる二人分の祈りを、焼けた太陽だけが静かに見守っていた。



「願わくは、いつかまた、この場所で。」



才蔵が囁き、雨希が頷く。

才蔵が抱き寄せ、雨希が寄り添う。


小舟が揺れ、飛沫が舞う。

無人が無音を連れてくる。


泉に身を投げる瞬間も、水底へと沈んでいく最中さなかにも、二人が離れることは決してなかった。




慶応三年、四月二十三日。


玉月才蔵、千茅雨希。

群青の夢に抱かれ、ここに眠る。







『花の雨』




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