;第二十七話 あいしてる
あいつの目は、じっと何かを見ていた。
あちらでもこちらでもない、地平線の彼方に浮かぶようなもの。
そんな朧げな何かを、あいつは見ている気がした。
それに気付いた時、俺は直感した。
あいつは、己の死を見詰めているのだと。
愛しい彼女と心中か、彼女が没して後を追うか。
いずれにせよ、あいつの未練はもう現世にない。
どうやら、気付くのが遅すぎたようだ。
既に意志を固めたあいつは、きっと梃子でも動かない。
"───姫様を、ウキさんを、愛してしまったんだ。"
あいつは確かに、そう言ったんだ。
俺ではなく、彼女を選ぶと。
滑稽だ。
朝も夜も、春も夏も秋も冬も、生き物が生まれて死ぬことさえも。
万物は永久に続かないのが世の常と、知っていたはずなのに。
あいつを喪うくらいなら、理なぞ糞を食らえと思ってしまうのだから。
"私は、ウキさんと共にいる。果てに何が待ち受けていようと。
だから────。"
しかし、悔やんだところで十日の菊。
最早どうにも叶わないのであれば、俺も腹を据えるしかない。
たとえ別の選択をしようとも、あいつには別の不幸が待っている。
自ら命を絶つよりも辛く苦しい、血に染まった手足で営み続けるという不幸が。
俺に出来ることをしよう。
せめて、あいつを呪縛から解き放ってやるために。
今さらの俺にも、あいつの大嫌いな俺にでも、出来ることをしよう。
引き留められずとも、背を押してやれずとも。
あいつと彼女が考えに考え抜いて出した答えを、尊重くらいはしてやれる。
そうだろ、ギン。
どんなに不格好な無頼漢でも、敵にするよりいいだろう。
歪な餞でも、贈らないよりマシだろう。
「───君はどうする?私は決めたよ。
火中の栗を拾うか、拾わないか───」
冬が明ける頃。
いつぞやの反逆隊が再結成され、勢力を拡大しているらしいと噂が立った。
しかも、そのきっかけを与えた黒幕は、奥方こと沙蘭様だという。
本名を、葛巻由良。
上様の正室にして、最大の敵といっても過言ではない人物だ。
今は昔、比類なき美貌の持ち主であった奥方は、先代の光倉郷臣によって雪竹城に召し上げられた。
息子の郷舟、すなわち上様が元服を迎えられた暁には、彼の正室とするために。
先代に気に入られていたこと、上様より四歳上の年長者であること。
加えて、出自が名家の令嬢であったことから、当初の奥方は心尽くしの寵愛を受けていた。
ところが。
奥方が子を成せない身と発覚するやいなや、先代ともども上様は掌を返した。
毎日のように侮蔑の言葉を浴びせかけ、奥方を有って無きもののように扱った。
のちに側室を増やしてからは、乙女たちが代わりとなって、上様の世継ぎを産み育てた。
正室とは名ばかりに落ちぶれた奥方は、上様の捌け口か受け皿として、苦汁を舐める他なかった。
無論、乙女たちにも上様の醜悪さは知れていたが、奥方には及ばない。
奥方が一番に苦汁を舐めていたおかげで、乙女たちは尊厳までは失わずに済んだとも言える。
いつしか奥方は町を徘徊し、他所に安らぎを求めるようになったと聞くが、なるほどな。
遊蕩目的と欺いて、裏で反逆隊の蜂起を促していたとすれば、奥方はかなりの策士である。
そしてだ。
真に驚いたのは、ここから。
奥方にだけは、最初から俺の本性を見抜かれていたらしい。
忠義に厚いふりをして、実際には忠義心など欠片もないことを。
その上で俺が城に留まっていた理由を含め、奥方は察しておられた。
「───あの子がいなくなれば、あなたもここに残る理由はなくなるんでしょう?」
つくづく、女ってやつは恐ろしい。
反目すれば厄介極まれりと、改めて痛感させられた。
「───今宵は、奥寺の倉賀屋に集まるそうだ。
あそこは隊士連中も時々冷やかしに来る。道中、用心しろよ───」
季節は巡り、春。
俺は城の内部情報を手土産に、ある男のもとを訪ねた。
まだ返り忠ほどの準備も覚悟もないが、反逆隊の手助けくらいはしてやりたかったからだ。
「───"風見"……。
そうか、君があの───」
神崎滋宗殿。
菖蒲吹姫の父君にして、此度の謀反を取り仕切る人物。
かつては山下さんも慕っていた、新生反逆隊の長である。
「俺を知っているんですか」
心構えに関係なく、俺が上様の親衛隊長であることは周知の事実。
突然訪ねていっても、門前払いを食らうかもしれない。
下手をすれば、城側の間者とされて、戦闘に発展するかもしれない。
故にこそ、丸腰で行った。
疑われて、襲われたとしても、俺は絶対に剣を抜かないと決めて行った。
「もちろんだよ。君のことは、山下くんからよく聞いていた。
君が味方をしてくれるとなれば、我々は百人力を得たも同然だな───」
神崎さんは、俺を門前払いにしなかった。
神崎さんの部下たちも、俺を受け入れた。
むしろ俺が、何故かと疑った。
神崎さんは、山下さんから教わったんだと、教えてくれた。
生前の山下さんが信頼していた相手ならば、自分達にとっても値するはずだと。
"───お前のことは、嫌いじゃなかったんだがな。"
俺は悔いた。
山下さんを手にかけたこと、山下さんの主義主張を否定したこと。
俺が愚かだったんだと、申し訳なくて堪らなくなった。
同時に、嬉しくもあった。
俺を弟分だと可愛がってくれたのは、俺を丸め込む方便ではなかったこと。
俺が最も尊敬した人は、確かに尊敬すべき人だったんだと、嬉しくて悲しかった。
「───裏切り者?俺たちの中にか?」
「らしい。
城と反逆隊とを行ったり来たりで、こっちの情報をあっちに渡してるとか何とか」
「あれか、二足の草鞋を履くってか」
「そんなデキる奴がウチにいるとは思えねえけどな」
「仮にいたとして、なんで正体割れないんだよ?
そうそう隠し通せるモンじゃあないだろ?」
「どっちだっていいさ。
俺たちには鉄の双璧が付いてるんだ。
反逆隊だろうが魑魅魍魎だろうが、何するものぞ、だ───」
あいつは足抜け、俺は返り忠。
双璧の崩れた雪竹城など、張りぼても同然。
二度目の謀反は、必ず成功する。
確信を得た俺は、ついに自分で自分の殻を破った。
「───いよいよ、今日が正念場です。各々がた、気を引き締めて。
今度こそ、あの冷血漢めに、人情とは何たるかを思い知らせてやりましょう───」
謀反実行当日。
駐屯の隊士どもが呑気に昼飯を食っている時分に、計画は動き出した。
始動の笛を鳴らしたのは、立役者である奥方だ。
まず、反逆隊の構成員が、各地で適当な騒ぎを起こしていく。
そこへ、巡回に出ていた隊士が駆け付け、騒ぎの収拾に取り掛かる。
程なくして、城にも騒ぎの一報が入る。
現場の判断に委ねて収拾を待つか、調査を徹底させて大元を叩くか。
上様の指示が仰がれる。
ここまでは、ほぼ予定通り。
多少の行き違いはあれど、想定の範疇で済んでいた。
想定外だったのは、上様の指示だ。
「───また商人どもの恨み節か。
すっかり味を占めたようだな。一度でも手心を加えてやるとこれだ」
「面通りは不可、税の引き下げも不可だ。
聞き分けなくば、力づくで黙らせよ───」
騒ぎを知った上様は、俺を含めた駐屯の隊士数名に加勢を命じた。
現場に任せても始末はつくが、人手を増やせば確実だろうと。
頭が悪いのか、覚えが悪いのか。
こうも同時多発的に騒ぎが起きるなど、裏があるに決まっているのに。
こういう時こそ、索敵より守衛に重点を置くべきと、馬鹿でも分かりそうなものなのに。
見事に術中に嵌っている。
指示の内容には驚きを越して呆れるが、兵力の分断という反逆隊の目論見は、上様の片生りのおかげで盤石となったわけだ。
「(───黙らせられんのは、あんたの方だよ)」
命ぜられた通り加勢に行くふりをした俺は、騒ぎの中心地から外れた旅籠にて、神崎さんと落ち合った。
城の状況、隊士の配備位置、奥方に教えてもらった秘密の抜け穴。
追加で伝えた情報は、俺が持ち合わせる知見の全てだった。
「助太刀、まこと感謝する。
君の行く末に、幸あらんことを───」
終わった。
俺の務めは果たした。
日が落ちれば、反逆隊の実働隊が動き出す。
あとは積年の恨みを晴らすなり、彼らの好きにやりゃあいい。
上様の首を刎ねる務めは、俺以外に適任がいるだろうしな。
「───残念です。
風見どのも本隊に入ってくだされば、こんなに心強いことは無いのに……」
「首領サマの一番弟子が、湿気た面すんなよ。
俺がいなくたって大丈夫。実働までに、露払いくらいはしといてやるしさ」
「……無礼なことをお尋ねしても?」
「なんだよ?」
「もし、玉月才蔵が出奔をせず、彼と相対することになっていたら……。
我々は今度こそ、彼を打倒できたでしょうか」
「……つまり、俺とあいつと、どっちが強いか聞きたいワケだ?」
「こんな時に不謹慎だということも承知しています。
ただ、双璧と名高いお二人が本気で戦えば、どうなるか……。
その結末だけは、個人的に、気になるといいますか……」
「……そうだな。
もし、俺とあいつが、真剣で殺りあう機会があったとして。
勝つのは、たぶん───」
神崎さんの左腕、別働隊の指南番、実働隊の切り込み隊長。
俺とそう歳の変わらない若者が、大役を担って奮闘する姿。
同じ時代を生きていても、進む道ひとつ違えるだけで、こんなにも。
妬ましい気持ちは、もう湧かなかった。
**
神崎さん達と別れ、あいつの分を含めた露払いに出た時だった。
騒ぎとは無関係の方角へ、一目散に向かっていく青年の姿があった。
上様お気に入りの小姓だ。
片時も上様の傍を離れない彼が単独行動をとるなど、天変地異の前触れでもない限り有り得ない。
不審に思った俺は、小姓を捕まえて問い質した。
すると小姓は、とんでもないことを白状してくれた。
「───つまり、なにか?城はほぼ蛻の殻ってことか!?」
「ヒ───ッ、はい。
手練れの者は皆、そちらの任務に当たるようにとの厳命で……」
騒ぎの一報に続き、あいつとお嬢さんが居なくなったとの急報。
畳み掛けての事態に怒り狂った上様は、守衛に残った隊士さえもを、二人の捜索に当てたという。
それも、後を追わせただけ、じゃない。
全員に武装をさせ、抵抗するなら殺して良しと付け加えた上でだ。
「そいつらの向かった方角は!?」
「し、松吉殿には、松吉殿の持ち場があるでしょう。
それに背くということは、貴殿にも同様の処罰が───」
「知るか!!」
殺してもいいってなんだよ。
あれだけ猫かわいがりしてたくせに、可愛さ余って憎さ百倍かよ。
いっそ命を奪ってしまえば、二人は永遠に自分のものだとでも思っているのか、馬鹿が。
小姓の口封じも忘れて、俺は捜索の奴らを追いかけた。
間に合わないかもしれないと諦めつつ、どうか無事でいてくれと願いながら。
「(早く、もっと早く───!)」
町を抜けると、雨が降り始めた。
冬の残り香のする、冷たい雨だ。
雨の向こうには、代わり映えのない景色が続いていた。
代わり映えのない景色の中で、俺と同じ黒服が蠢いていた。
「───化け物が」
野次、罵倒、怒号、冷笑。
男らの野太い声が重なりあい、あいつの凛とした声が隙間に響く。
遠目からでも、はっきり分かる。
黒服どもに虫のように集られた、あいつの姿。
ところどころに刀傷や矢傷を負い、血と泥に塗れた様は、まさに満身創痍だった。
あんなにボロボロになったあいつを、俺は一度でも見たことがあっただろうか。
反射的に奥歯を噛み締めると、ぎしりと軋んだ音が鳴った。
「詰めだ!!!」
あいつの背後から新手が迫る。
別の相手と鍔迫り合うあいつには、新手に反応するだけの余力はなさそうだった。
俺は帯から隠し苦無を取り出し、新手めがけてブン投げた。
項に命中した新手は、汚い悲鳴と共に崩れ落ちた。
「お前は───!」
黒服どもがこちらに振り返り、口々に驚きの声を上げる。
俺は休む間もなく懐刀を抜き、あいつと鍔ぜり合う男めがけてブン投げた。
眉間に命中した男は、ゆっくりと仰向けに倒れていった。
「何故お前が」
「どうしてこいつが」
自分たちが奇襲を仕掛けられるとは想像しなかったらしい。
すっかり怯んだ黒服どもは、俺の存在に気付いても襲って来なかった。
俺はここぞとばかりに黒服の波を掻き分け、ギンの間合いまで近付いた。
「風見だ」
「松吉の野郎」
「町に出たんじゃなかったのか」
「まさか敵に回るつもりか」
他の一切を無視して、ギンに歩み寄る。
触れられる距離まで近付いたところで、ギンはこちらに振り返った。
「───酷い顔だ」
赤黒く汚れたギンの顔。
せっかくの美人が台無しだけれど、どんなに汚れてもお前は美しい。
「しょうきち、」
腰を屈め、頬に触れる。
目尻にこびり付いた血を拭ってやると、揺らぐ藍色に閉じ込められた。
"───好きだったよ。"
お前に別れを告げられたあの日から、ずっと生きた心地がしなかった。
なにを見ても色がなくて、なにを食っても味がしなくて、いつもなにかが物足りなくて。
昔のお前じゃないが、まるで魂が抜けてしまったような感覚だった。
それがどうだ。
失くしたとばかり思っていたものが、再び自分の内に集まってくるのを感じる。
風の匂いが、雨の冷たさが、花や木々の鮮やかさが蘇る。
お前を傍に感じてやっと、お前の熱に触れてやっと。
俺は、呼吸の仕方を思い出した。
「ここからは、この俺、
───猛犬、風見松吉が相手だ」
分かったよ、ギン。
俺にはお前が必要だってこと。
お前がいなけりゃ、俺は息もできないってこと。
「惜しげのない奴から、前に出な」
お前が死んだら、俺は。