;第二十六話 鬼の真髄、篤と見よ 3
断末魔の叫びが聞こえた。
私が瞬きをする間に、私ではない誰かが叫んだ。
まるで、諦めかけた私を叱るような音だった。
「(なん、だ、今のは───)」
誰が叫んだのか。
どこで叫んだのか。
どうして叫んだのか。
考えるまでもなく、今度は耳元で空を切る音がした。
どこからか飛んできた短刀が、一直線に私の真横を通り過ぎたのだ。
「(この刀は───)」
短刀が岩男の眉間に突き刺さる。
岩男はぱくぱくと口を開け閉めし、蚊の鳴くより細い悲鳴を上げると、白目を剥いて仰向けに倒れた。
支えを失った私は、岩男の上に跨がるようにして、文字通りの共倒れをした。
未だ思考が追い付かないが、一先ずは助かった。
おかげで、挟み撃ちを食らう一瞬の猶予ができた。
急ぎ上体を起こし、新手のいる方向にして、短刀が投げられた方向に振り返る。
そこにいたのは、ここにいるはずのない人物だった。
「酷い顔だ」
驚きのあまり、息が詰まる。
目を丸くする私とは対照的に、彼は似つかわしくない表情をしていた。
「お嬢さんには振られちまったのか?」
絞り出した声で、彼の名を呼ぶ。
彼は"勘違いするな"と一言呟いて、腰を屈めた。
伸ばされた手は私の目尻に触れ、こびり付いた血を拭ってくれた。
「助けにきたわけじゃないからな」
すんと表情を改めた彼は、背後の隊士たちと向き合った。
「(やはり、あの刀は───)」
今一度、岩男の眉間に刺さった短刀を確認してみる。
見間違いかと思ったが、違わなかった。
これは、彼の愛刀だ。
太刀と、脇差と、護身用の懐刀。三つある内の一つ。
岩男の傍らには、共に挟み撃ちを狙ってきた新手の姿がある。
新手にも飛び道具が使われたようで、隊士用の苦無が項に刺さっていた。
つまり、断末魔の叫びは新手が発したもの。
新手も岩男も、彼が倒した。
そうでなければ、私は屍の仲間入りをしていただろう。
「やれやれ、とんだ茶番だぜ」
闇より濃い、漆黒の影。
仰ぐ私の一歩前に出て、堂々と仁王立つ後ろ姿は、とても気高く勇ましい。
「騙し討ちってのは、別に悪い戦法じゃあねえけどよ。
そりゃ俺の十八番なんだよ。勝手に真似されちゃ困る」
またもや似つかわしくない軽妙さで話す彼に、薮下が恐る恐ると尋ねる。
「なぜ、貴様が……。騒ぎの鎮圧に出ていたはずでは───」
「そうさ。町は今頃お祭り騒ぎだ。
───にも拘らず?この最中に?ドブネズミの群れが、ぞろぞろと列なして、持ち場を離れて行くもんだからよ。
何事かと付いて来ちまった」
「どぶ……!
まさか、内部から手引きしていた裏切り者は───」
何かを悟ったらしい薮下の顔が青ざめる。
そんな薮下に構うことなく、彼は続けた。
「そら不細工、お喋りはここまでだ。
あいにくと俺ァ今、虫の居所が悪いんでね。
敵味方関係なく、ぶちのめしたい気分なんだよ」
肌が粟立つほどの狂気と殺気。
彼から滲み出される気迫を前に、臆した隊士が一人二人と後ずさっていく。
沈着冷静を体現した彼が、こうも怒りを漲らせることは終ぞなかった。
明らかに狼狽えだした藪下を筆頭に、調子を乗せていた連中も意気消沈してしまった。
「(ああ、懐かしい、匂いがする)」
彼となら、やれる。二人でなら勝てる。
言葉にならない力のうねりが、私の全身を駆け巡る。
「(今までだって、そうだ。ずっと、そうだった)」
私とお前が並んだ時、そこに敗北は有り得なかった。
無意識に漏れた溜め息は、紛れも無い安堵から出たものだった。
「ここからは、この俺、
───猛犬、風見松吉が相手だ」
雨に濡れた前髪をかき上げながら、彼が自前の太刀を抜刀する。
「惜しげのない奴から、前に出な」
彼こと松吉が冷淡に告げる。
恐れた隊士たちは、更にもう一歩後ずさろうとした。
すると藪下が金切り声を上げ、制止に刀を振り回した。
「ええい怖気づくな!今さら引けるかってんだァ!
奴らに背を向けた弱味噌は末代まで呪われると思え!!」
目配せをし合った隊士たちが、方円の陣を組み直す。
形こそ歪であるものの、薮下の一喝は効果があったようだ。
鼠で例えるなら、窮鼠猫を噛む、といったところか。
腐っても武士の端くれ、往生際の悪さだけは敵ながら天晴れ。
「囲まれたな。が、大した数じゃねえ。
転がってる仏さんのが多いんじゃねえの?」
「いや、弓持ちの伏兵がいるはずだ。丘に潜み、こちらを狙っている」
「なるほど。そりゃ鬱陶しい」
腕に刺さったままでいた矢を引き抜き、立ち上がる。
松吉と背中を合わせ、汚れた顔を袖で擦る。
「おい」
後ろ手に私の脇腹を小突いた松吉は、首だけをこちらに向けて話し掛けた。
「この程度なら俺一人で十分だ。お前は話の弓兵どもを潰しに行きな」
「……いいのか。あてにするぞ」
「上等。
ただし、方ァ付いたからって、さっさと逃げたりすんなよ。俺の用はまだ済んじゃいねんだ」
「承知した。訳は後で聞くとしよう。
───かたじけない、松吉」
「ヘッ、ばーか」
五感が冴え、視界も良好。
冷え切ったはずの手足も、熱を取り戻し始めている。
首の皮一枚で凌いでいた劣勢ぶりが、まさに夢か走馬灯のようだ。
なにゆえ、松吉が我々を追ってきたのか。私を助けてくれるのか。
彼にどんな思惑があるのか、分からないが、構わない。
とにかく今は、彼の気まぐれに称賛を。哀れみに感謝を。
有象無象を撃滅する。
ただ、それだけだ。
『桜吹雪』
;サイ編 結