;第二十六話 鬼の真髄、篤と見よ 2
ぬかるんだ地面で、踏ん張りが利かない。
濡れた髪と羽織は、徐々に重さを増していく。
ただでさえ万全とは言えなかったのに、加えてこの雨だ。
長丁場になれば、持ちこたえるのは至難となるだろう。
だが戦況としては、こちらが優勢。
兵力差があろうとも、烏合の衆に後れを取る私ではない。
刀傷さえ受けなければ、思いのほか早く決着をつけられるかもしれない。
「───くそ……ッ。だらしねえぞテメエら!
決死の覚悟で向かっていく猛者はいねえのか!!」
薮下とやらの怒号が響く。
尻を叩かれたように一人、また一人と、隊士が襲いかかってくる。
私は一人、また一人と、かかってきた順に斬り伏せていく。
不意打ちの隙を与えないよう、極限まで神経を研ぎ澄ませながら。
「(目測、残り十八人───)」
やはり、所詮は烏合の衆。
数人が束となっても、大した脅威にはなり得ない。
当初の威勢はどこへやら、どいつも腰が引けてしまっている。
中でも藪下とやらは、あれそれと指示を飛ばすのみで、自らは前線に出ようとさえしない。
一瞬でも私の間合いに入ったならば、短い丈を更に短くしてやるものを。
「(油断するな。大丈夫。まだ戦える)」
なんにせよ、敵勢力は落ちている。
この調子でいけば、辛勝が叶う。
そう確信した時だった。
同時にかかってきた二人を薙ぎ払い、反動で僅かに身を捩った、次の瞬間。
左肩甲骨あたりに、鋭い衝撃が走った。
「が、───ッ!!」
鈍く湿った音。
たちまちに、左腕から力が抜ける。
「隙あり───!」
目の前にいた壮年の隊士が、鬼の首取ったりと迫ってくる。
私は即座に反応したが、脱力した左腕が妨げとなり、反撃の一手に出られなかった。
鍔迫り合いながら体勢を整え、壮年の隊士を睨むと、そいつは楽しそうに舌なめずりをしていた。
「今だ!」
「畳み掛けろ!」
二人、三人、五人。
控えていた他の隊士たちも、一斉に襲いかかってくる。
私は壮年の隊士を右腕頼りに振りほどき、一斉の斬撃を打ち払ってから後退した。
息を吸う度にずきずきと疼く、左半身を覆う鋭い痛み。
緊張を切らさないよう注意しつつ、指先で患部に触れてみると、細長い棒状の何かが刺さっていた。
「(間違いなく矢だ。
しかし、一体どこから───)」
改めて、周囲を見渡してみる。
先程まで腰の引けていた隊士たちが、水を得た魚のごとく生き生きとした様相に変わっている。
まるで、"待ってました"とでも言わんばかりの。
「───は。はは、はははははは!」
薮下がこちらを指差し、大口を開けて笑う。
「あの鬼畜生めに傷を負わせてやったぞ、ざまをみろ!
さすがのお前も、死角から放たれた矢には反応できまい!」
"死角から放たれた"。
とっさに丘の方へ振り返ると、見計らっていたように、三本の矢が追加で放たれた。
私は内の二本を躱し、脳天目掛けて降ってきた最後の一本を、朧で叩き落とした。
「休んでいいなんて言ってねえぞ!」
今度は背後から、若年の隊士が仕掛けてくる。
せめて一呼吸いれたいところだが、確かに休んでいる暇はなさそうだ。
「(先発組に弓持ちは居なかったはず。
後から更に増援を寄越したのか。それも、山岳戦に強い弓兵を……!)」
想定外の増援。
弓兵による援護射撃。
先発の隊士たちが逆に方円の陣を組んでいたのは、私の注意力を散漫にさせるため。
増援が位置に着くまでの時間を稼いでいたわけか。
「ちょっと数を減らしたくらいで、勝った気になるなよ!」
まずいな。
雨も激しくなってきた。
視界が悪い。鼻が利かない。
歩兵ならまだしも、弓兵の増援は厄介だ。
地の利を取られた上、何人潜んでいるかも見当がつかない。
陸戦に応じながら、どこからともなく降ってくる矢を全て回避する。
己の身一つでこれを捌くのは、あまりに。
「(絶対絶命、だな)」
あの悪党め。
姫様の奪還とは名ばかりに、本命は私の首だったか。
蓮の席が埋まらなかったこと、断頭の際まで呪うつもりらしい。
**
「───どうした玉月?動きが鈍くなってきてるぜ?」
「いつものお澄まし顔はどうしたよ?随分と苦しそうだ」
「恨むんなら俺達じゃなく、この命を出した上様か、間抜けな自分自身を恨むんだな」
剣の相手をしていれば矢が、矢を警戒していれば剣が。
弓兵の出現により、戦況は一変。こちらの劣勢が続いている。
あれから腰に一本、右腕に一本、矢傷を貰い。
右肩に一撃、左太股に一撃、刀傷を受けた。
痛むのは勿論のこと、血を流し過ぎたようだ。
吐き気を伴う目眩にも襲われ、正常に思考が働かない。
「ふーっ、ふーっ………」
冷や汗が噴き出す。
耳鳴りがうるさい。
こんなに追い込まれたのは初めてだ。
こんなに傷付けられたのも初めてだ。
景色が揺れる。
唾液が垂れる。
もはや、意志のみで立っている。
体力も気力も使い果たし、己の魂を燃やしてやっと、動いている。
「まだ倒れねえのかよ、コイツ……!」
歯を食い縛って、なんとか更に二人倒す。
残り十三人。
いや、潜んでいる弓兵の存在もあったな。
頭数を合わせれば、まだ二十人は超えるかもしれない。
「余所見してんじゃねえよ!」
ふと、右脇から気配が迫った。
私が朧を構えるよりも先に、そいつの拳が私の頬を殴った。
体勢を崩された私は、殴られた勢いのまま地面に尻餅をついた。
冷たい雨に紛れて、生暖かい鼻血が顎を伝っていく。
血塗れの羽織が泥にも塗れ、美しかった白が見る影もなくなる。
「かっはっはっは!こりゃあいいや!」
「こんなに愉快な見世物は久しぶりだな!」
「もっと無様を晒してくれよ!掃き溜めの鶴さんよぉ!」
高笑いし合う隊士たち。
殺るなら、さっさと殺れというのに。
常日頃の鬱憤を、ここぞとばかりに私で晴らす気か。
「どうする?誰が止め刺すかで賭けるか?」
「お前ほんと賭け事好きな」
「そうだぜやめとけ。
浮かれた奴から返り討ちにされて終いだ」
「そんなこと言って、お前は賭ける分も惜しいだけだろ?」
古参のこいつらにとって、新参のくせに優位だった己は、さぞかし目の上の瘤だろうという自覚はあった。
まさか、ここまで忌み嫌われていたとは。
自覚以上に、不興を買い過ぎてしまったのかもしれない。
「(懐かしい味がする)」
じわりと、滲んだ血が口内に溜まる。
ある程度溜まった血を、唾液に混ぜて吐き捨てる。
ゆっくりと、朧を杖代わりに立ち上がる。
再び剣として構えた朧に、己のあられもない姿が映し出される。
「(酷い顔だ)」
刃こぼれが酷い。
十数人分の血と汗と、脂のこびり付いた刃には、一撃で仕留められるほどの切れ味はない。
幾度も私を救い、私を苦しめてきた愛刀。
叔父に託されたあの日から、共に窮地を切り抜けてきた相棒。
片時も、離れたことはなかったけれど。
お前もここで、ようやく御役御免だな。
「(おやすみ、朧)」
朧を手放し、別の刀を拾い上げる。
無銘の打刀。
雪竹城の武器庫に格納されていた一つ。
こやつの主は早々に倒れたため、刃こぼれは殆どない。
「おい見ろよ!自分の刀、棄てやがったぜ!」
「なりふり構ってられねえってか?
剣士の風上にも置けねえぜ、そりゃあ!」
どうとでも嘲ればいい。
血で血を洗う戦場に、誇りもクソもあるものか。
武器になるなら何でもいい。
国宝だろうが棒切れだろうが、お前たちを殺せれば十分だ。
「嬉しいねぇ。お前のこんな姿をお目にかかれる日が来ようとは」
「てめえのことは嫌いだが、今のような見窄らしいサマは、なかなかそそるぜ?」
薮下に侍っていた例の二人が、ひときわ嘲りながら仕掛けてくる。
私は二人の喉元を狙って斬り裂き、力づくで黙らせた。
「どこにそんな力が……!」
「朧じゃなくてもコレかよ!」
姫様は、ご無事でおられるだろうか。
私が足止めを食っている間にも、また発作を起こしてはいないだろうか。
この雨の中、寒さに身を竦めて、息を潜めて。
きっと今も、約束を守って一人きり、私の迎えを待っている。
死んじゃ駄目だ。
こんなところで、死んじゃ駄目だ。
あのひとを一人残して、死んではいけない。
なんとしても、どんな卑劣を犯してでも、生きねばならない。
生きて、彼女の手をとって。
凍えた小さな体を、思いきり抱きしめてやるまでは。
私は、絶対に、死なない。
「───っづ、ォ、ぁぁああああアアア!!!!!」
腹の底から咆哮する。
捉えた隊士の胸板を、防御ごと力で叩き斬る。
大きく裂けた傷口から、大量の血飛沫が舞う。
額に瞼に頬に、私の顔に点々と返り血が付く。
「(あたたかい。
これは、命の温度だ)」
新たに積み重なった屍の山を、右足で踏み付ける。
屍の向こうに並んだ隊士たちを、無言で睨み付ける。
「鬼────」
全員の野次が止む。誰かが生唾を呑む。
弧を描いていた瞳が、恐怖に歪められていく。
「ひ───、怯むな!
たかだか手負いの小僧一匹、いつまでものさばらせておくな!!」
藪下がこちらに刀の切っ先を向ける。
並んでいた隊士のうち、真っ先に野次を止めた三人が、及び腰ながら飛び出してくる。
「(必ず───)」
額から垂れてきた、雨とも血とも分からぬ雫を舐め取る。
吐く息に言葉を乗せ、声にならない声で呟く。
「───勝つ」
必ず、勝つ。
たとえ、この腕がちぎれようと、脚がもげようと。
この身を地獄の業火にくべられようとも、諦めない。
生きたい。
こんなにも強く、心から生きたいと思ったことは、無かった。
「い、かげん、落ちやがれ、化け物が……!」
刃と刃の擦れる音。
鼻の先が触れそうなほど近くで、まばゆい火花が散る光。
均衡な鍔迫り合いが続き、疲労した腕が震えだす。
体勢を整えようと歩幅をずらすも、すかさず詰め寄られて身動きもとれない。
「(こいつ、強い……!)」
今度の隊士は、とりわけ腕っぷしが強いようだ。
力で叩くことはならず、反撃の隙も与えてくれない。
こうなっては、男と女の力量差。
一秒も早く主導権を取り戻さないと、じり貧でこちらが押し負ける。
「くそ……ッ!」
思わず舌を打つと、隊士と目が合った。
岩のように凸凹とした顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
「───詰めだ!!!」
またしても背後から気配が迫る。
弓兵による援護射撃ではない。
「(挟み撃ち……!?
まさか、こいつら最初から───)」
今度の隊士もとい、岩男と鍔迫り合ってから、僅か十秒足らず。
背後の新手に応じようにも、畳み掛けてきた岩男を、どうしても振りほどけない。
気配が殺気に、殺気が間近に。
死神の爪に、背中を撫でられる。
それでも、動けない。
「(姫様────)」
 




