;第二十五話 信じて 3
息が切れる。
腕が痺れる。
じっとりと、項に嫌な汗が滲む。
「(たえろ、たえろ、たえろ)」
この渦中に馬を借りる余裕など、あろうはずもなく。
ただひたすらに走って、走って、走り続けた。
現し世の泉へ向かって、命の終わりを目指して。
「(だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ)」
不思議なほど、恐怖はない。
死にたいのではない。
生きるのをやめたかったのでもない。
姫様が死ねば、私は生きられない。
姫様のいない世界を想像すれば、痛みも苦しみも怖くない。
"───あなたは、生きて、これからも前を向いて、歩いていかなくちゃ。"
私はとても、愚かな人間だ。
独り善がりで、向こう見ずだ。
姫様と心中をすると心に決めた時。
姫様のためにはならないと分かっていた。
自己犠牲なんて、所詮は、自己満足の裏返しに過ぎない。
松吉なら、そう言うに違いない。
"───一緒に逃げよう、ギン。"
もし。仮に。例えばの話。
姫様ではなく、松吉の手を取っていたなら。
今とは違う、幸せな未来もあったんだろうかと、何度か考えた。
考えるほど、考えるたびに、必ず同じ結論に行き着いた。
松吉と二人、静かな土地で、穏やかに暮らす権利を得たとしても。
私は永遠に、己の犯した罪から逃れられない。
夜には彼らが悪夢として、昼には姫様が白昼夢となって現れる。
そうして私は夢に浸り、虚に縋り、生きながらに死に続けるのだ。
"───サイ!"才蔵"の頭をとって、サイ!"
酸素の足りない頭が、狂ったように稼働している。
浮かんでは消えていく、瞼の裏の光景は、俗に走馬灯というやつだろうか。
「───姫様、ひめさま。
気を、確かに持ってください。泉までもう、目と鼻の先ですよ」
「あ、───ごめんなさい、ぼんやりして。
いつの間にか、町を出ていたのね」
「ええ、いつの間にか、なら、良かったです」
「……ねえ、サイ。
辛いでしょう。わたしを抱えて、ずっと走りっぱなしで。
無茶だと思ったら、今からでも、わたしを置いて、引き返していいのよ」
「は、……ッこの期に及んで、まだそのようなことを?
無茶なら、百も承知です。なんと言われようと、このまま、行きます」
「サイ……」
己の鼓動、姫様の鼓動。
己の足音、数多の足音。
姫様の鼓動は、背中越しに伝わる。
数多の足音は、土と風が教えてくれる。
「(追い手か)」
随分前から、気配はあった。
それも、両手を合わせて足りない人数だ。
着実に、空いた距離を縮めてきている。
追い付かれるのは、もはや時間の問題だろう。
いくら姫様を抱えながらとはいえ、あまりに展開が急すぎる。
反逆隊の面々が撹乱を行ってくれているなら、分断された兵力を更に余分には割けないはずだ。
となると、追い手がかけられたのは、撹乱の前か。
騒ぎが大きくなるより早く、我々の動向を嗅ぎ付けられたのかもしれない。
つくづく、あの悪党の直感もとい、悪運には手を焼かされる。
「申し訳ありません、姫様。
しばし、そこの茂みに隠れて、待機をお願いできますか」
姫様を地面に下ろし、向かって左手にある茂みを指差す。
姫様は一瞬呆けた後、怪訝に眉を寄せた。
「待機、って、わたし一人で?
泉はもう目の前なんでしょう?だったら……。
まさか────」
姫様がハッと息を呑む。
私の意図を察してくれたようだ。
「残念ながら、そのまさかです」
道端に立ち、周囲を見渡す。
向かって右手には丘。
左手には茂みと、奥に小川。
辛うじて身を隠せる場所はあれど、手分けされれば一溜りもない。
奴らと相対するまでの小休止、が関の山だろう。
では、奴らが間に合わなければいい。
うんと急いで振り切れば、追い付かれたとて後の祭り。
既に本懐を遂げた我々を、水底まで責め立てる酔狂はいまい。
けれど、それは、たぶん、無理だ。
想定より体力の消耗が激しい。
出立時と比べて、速力も落ちてしまっている。
この調子では振り切るどころか、姫様を守れるかさえ怪しい。
「サイ」
姫様の瞳が不安に揺らぐ。
私は右手の拳を握り締めた。
「(弱気になるな、玉月才蔵)」
私が願った。姫様が応えた。
私から契った約束を、私から破るなんて無体は、断じてあってはならない。
戦うしかない。
戦って、勝って、貴女を私のものにする。私が貴女のものになる。
二人で終わって、始めるんだ。
「じきに追い手が来ます。
私はここで彼らと戦い、彼らを倒さねばなりません」
「そんな……」
左手を姫様の肩に。
右手は拳を緩め、腰に帯びた朧に添える。
「事が済み次第、急ぎ姫様のもとへ向かいます。
それまでどうか、安全な場所でご辛抱を」
「やり過ごすのは?
一緒に隠れて、隠れながらゆっくり先を行けば───」
「いいえ。
ここぞという時に水を差されては堪らない」
「でも、でも。サイ。多勢に無勢、なんでしょう?
いくらあなたでも、そんなにたくさんを一度に相手すれば───」
「私は大丈夫」
姫様の肩を引き寄せ、姫様の心ごと抱き締める。
姫様の香りに埋まりながら、姫様の耳元で囁く。
「必ず迎えに行きます」
姫様は何も言わず、抱き締め返してくれた。
首筋にかかる息は、本当は離れたくないんだと、叫んでいるようだった。
「信じて」
名残惜しくも、抱擁を解く。
姫様は意を決した表情で頷き、私の頬を一撫でしてから、茂みの中へと入っていった。
愛しい背中が遠ざかる。
忌まわしい足音が迫る。
決戦の予感がする。
私にとって、まさしく最後の戦いとなる。
最後くらいは殺生抜きで済ませたいところ、だったけれど。
どうやら、そうもいかない状況のようだ。
風が吹く。
道の中央に立つ。
朧の柄に指を這わせる。
来るなら来い。
貴様らの挑む相手が何者か、腐った骨の髄まで思い知らせてやる。
『花見鳥』




