;第二十五話 信じて 2
窓がなければ灯りもなく、湿った匂いと纏わる冷気に満ちた、常闇の空間。
大の男であれば一人でやっと通れるほどの、狭く細く長いばかりの一本道。
よもや秘密の扉が、こんな隠し通路に繋がっていたとは。
縁の間に立ち入ったことのない姫様も、扉の存在だけは把握していた私も、実際に使うのは最初で最後だ。
「───まさか扉の向こうに、このような空間が広がっていたとは……。
出口は外へ抜けられるのですか?」
「ええ。
縁の間から外、逆もまた然り。一本の道で通じているわ」
手燭を持った麻菊様が、歩調を合わせて先導してくれる。
互いの声が残響し、第三者の気配を錯覚させる。
「上様の私室にも、似た抜け道があるとは存じていましたが───」
「こっちにもあるのは意外?」
「偽りなく申しますと、はい。
ひとえに皆さんを案じて、とは、どうしても思えない」
「慧眼ね。経験則とでも言うべきかしら?」
「となると……」
「表向きは、火事なんかが起きた場合に、いち早く私たちを逃がすためにって造られたものらしいわ。
表向きは、ね」
火事に地震、謀反に攻城。
なんらかの事情で退路が塞がれてしまった場合、乙女たちを筆頭にここから城を脱出できる。
言うなれば、最後の砦ならぬ、最後の抜け道である。
しかし、そこは本音と建前。
本音としては、敢えて抜け道を傍に据えることで、乙女たちの信用を試すものだという。
つまりは、罠。
いつ乙女たちの中から脱走者が出ても速やかに対処できるよう、出口には見張り役の隊士が必ず待機しているとのこと。
「だから、ここの存在を知ってるのは、限られた人間だけ。
私たちと、上様と、上様から特別な許可を貰った何人か」
「件の見張り役、ですか」
「あとは、上様の側近連中ね。
私たちが脱走を試みたとして、それを引っ捕らえるのが隊士なら、告げ知らせるのが側近の役目ってとこ」
「どうりで私には通達がないわけだ」
「そりゃあ、あんたは凶状持ちだからね。
いくら腕があっても、今度ばかりは門外漢よ」
麻菊様いわく"特別な許可"とは、上様じきじきのお墨付きのこと。
ただ能力が高いだけではいけない。
ただ忠義に厚いだけでもいけない。
こいつだけは絶対に裏切らない、と見做された者だけが賜る、褒賞にして役職。
私自身も、お墨付きだ何だと下賜されてきた側だが、今度ばかりは覚えがない。
能力の方は自負しても、忠義の方は裏があるためだろう。
当の上様が、どこからどこまでを裁定したかは知らないが。
「側近ってのは、そもそもが、上様の腰巾着が集まったものだけど。
そいつらは更に上をいく、金魚の糞みたいなものなのよ。
上様に気に入られるためなら、自分が出世するためなら、どんなことだって躊躇しない。
たとえ、女子供を打ち据えて、殺すことでもね」
掌大から実寸大へ。
進んだ分だけ、出口が本来の大きさに近付いていく。
そこから漏れる眩い光は、陽光だ。
「必ず待機、ということは、今もこの先で待ち構えているのでしょう?
どう掻い潜ったものか……」
「言ったじゃない、時間を稼ぐって。
ここは、じき崩壊する。火蓋は既に切られているのよ」
"火蓋は既に"。
淡々と返す麻菊様だが、えらく含みのある発言だ。
乙女たちの腹を括った様子といい、我々が足抜けすることと無関係とは思えない。
「雪竹城は、いずれ陥落すると?」
「いずれ、ってほど遠くないわね。
あんた達は引きこもってたから、知らないでしょうけど。
───もうすぐよ」
出口を指差した麻菊様が、首だけでこちらに振り向く。
「さっき、の」
今まで沈黙していた姫様が、怖ず怖ずと麻菊様に尋ねる。
「崩壊、とか、陥落とかって、わたしのせい、ですか。
わたしが、色んなものを壊す、原因を、作ってしまった、ですか」
不安そうな姫様に対し、麻菊様は歩みを止めずに答えた。
「確かに、きっかけを作ったのは、あなたかもね。
けど、あなたの考えてる意味とは少し違うわ。
あなたのせいじゃなく、あなたのおかげと言った方が正しいかしら」
「どういうこと、ですか」
出口の扉に着いた。
麻菊様が足を止め、私たちも立ち止まる。
「まだ早いわね……。
今のうちに、話しておきましょうか」
扉に耳を当てた麻菊様は、今度こそこちらに向き直った。
外に人の気配でもするのだろう。
声を潜めるわけではないあたり、件の見張り役ではなさそうだ。
「いい?あんた達がここを出て行った後、間もなく反逆隊が攻め入るって算段なの。
その騒ぎに乗じて、私達もみんな逃げるのよ。こんな窮屈な暮らしとはオサラバってわけ」
手燭を足元に置いた麻菊様は、衝撃の事実を告げた。
「反逆隊……。
とは、二年前の───」
「まさしく。
あの時あんたが一掃してくれちゃった人達の、主に家族がね。
彼らの無念を晴らそう、今度は上手くやってみせようって、また集まったのよ。
顔ぶれは違うけど、名前はそのまま、反逆隊の再来として」
"反逆隊"。
上様の暴虐に業を煮やした男衆が、決死の覚悟で寄り集まった小さな組織。
ひとりは家を、ひとりは職を。
ひとりは娘を、妹を、恋人を奪われ、もはや後にも先にも潰え失せた、盾なき猛者たち。
結成当時の人数は、たったの十八人。
勝ち目はなくとも、抗議の刃を向けることで、何かしらの変化が起きてほしいと、彼らは望んだ。
私が力づくで捩じ伏せたせいで、切っ先すら届かず終いだったのだけど。
「狙いは、私の首ですか」
「は?」
「再来の話は初耳ですが、彼らの血族に狙われたことは過去にもあります。なにせ私は、父息子の仇ですから。
彼らの無念を晴らすのが目的なら、私を素通りは出来ないはずです」
「……そうね。中にはそういう奴もいるって聞いたわ。
けど、諸悪の根源はあんたじゃないってことは、みんな理解してる」
「それでも───」
「本当の、一番の目的は、圧政の撤廃。
本命はあくまで上様なの。思い上がりも大概になさい」
反逆隊の再結成。
目的は光倉郷舟の捕縛、延いては圧政の撤廃。
初めて知らされる、水面下での激動。
とはいえ、これ以上の時間を食っていられない。
今や麻菊様の言葉を信じるしか、二代目反逆隊に後を託すしかない。
「サイ」
私を呼ぶ声に、視線を下げる。
心許なげな姫様が、瞬きもせず見上げている。
「(敵わないな、この目には)」
私の犯した罪の数々を、私は姫様に告白してきた。
告白して、仮初めの赦しを乞うてきた。
嘘はついていない。
ただ、包み隠さず、とも言えない。
罪の数を数えども、罪の重さを量りはしなかった。
誰を何人殺めたかを明かしても、彼らに何人家族がいたかは教えなかった。
私は化け物、私は鬼と、壮語に包んで委細を誤魔化した。
元はただの人間で、所詮はただの人殺しと、丸裸にはどうしてもなれなかった。
道すがらにでも、伝えるべきだろうか。
私も、私の殺めた者たちも。
等しく人間で、等しく命があったことを。
聞けば姫様は、どんな顔をするだろうか。
「大丈夫。
貴女のことは、私が守ります」
浮かない表情を残しつつも、姫様は頷いてくれた。
私は目を伏せ、深呼吸をしてから、再び麻菊様と向き合った。
「詫びて済むことではないと、重々承知の上でお願いします、菊姫様。
もし、彼らと接触する機会があったなら………。
本当に、すまなかったと、伝えてもらえますか。
あの日奪った十八もの命を、私は死ぬまで、───死んでも、絶対に忘れないと」
「わたしからも」
私の懺悔に続き、姫様が僅かに身を乗り出す。
「わたしは、部外者かも、しれないですけど。
罰が必要、なら、わたしも一緒に受けます。
だから、この命に免じて、どうか───」
途中、姫様は勢いよく喉を詰まらせた。
「ごめ、なさい。ごぇ、なざい」
私と麻菊様に浴びせないためか、泣きじゃくるような体勢で姫様は咳き込んだ。
口元を覆う指からは、うっすらと血が滴っている。
私は姫様の背中を擦ってやろうとして、出来なかった。
自分の両手が塞がっていること、自分が彼女を抱いていることを、失念していた。
「まったく。
二人して自分をなおざりにするんだから」
麻菊様が姫様の頭を撫でる。
私が背中を擦ってやれない代わりに、菌が伝染るかもしれないとは恐れずに。
「必ず、伝えるわ。
あんた達は、自分のことだけ考えていなさい」
最後に麻菊様は、姫様の頬を一撫でした。
すっかり落ち着いた姫様は、麻菊様と私にそれぞれ微笑みかけた。
「恩に着ます」
「ありがとう、麻菊さん」
私と姫様が頭を下げると、麻菊様は照れ臭そうに息を荒げた。
「はあ!もう!湿っぽいのはナシナシ!
とにかく、決行は日が落ちた後。それまでは町に散らばって、適当に騒ぎを起こして撹乱させる予定だそうよ。
その隙に、あんた達は遠くへ逃げる!」
「囮ですか。
随分と段取りがいいようですが、采配は誰が?」
「名前は知らない。ただ、指揮をとってるのは菖蒲の父親だって話。
城の中にも内通者がいるらしいし?もう滅茶苦茶よ」
麻菊様いわく、反逆隊の再結成には、ある立役者の尽力があったという。
その立役者こそ、母のように我々を送り出してくれた、沙蘭様だ。
実は沙蘭様は、私と姫様の様子をずっと観察していたらしい。
私たちが救いの手を求めた時、真っ先に応えられるように。
故に沙蘭様は、私たちの目論見にも真っ先に勘付いた。
いつか、あの二人は決断をする。
あの窮屈な部屋を出て、二人きりでいられる場所へ旅立つだろうと。
そこから沙蘭様は、方々に呼び掛けを始めた。
雪竹城の要は、玉月才蔵と風見松吉の双璧によるもの。
内の一人が出奔となれば、攻城も幾許かは易しくなるはず。
父に息子、兄弟に友、失われた彼らの仇を、今こそ討つべし。
かつてのさすらい癖を隠れ蓑とし、築き上げた人脈を足掛かりとし、得意の口八丁手八丁をもって同士を集める。
こうして興された組織が、二代目反逆隊。
沙蘭様の呼び掛けがなければ、散り散りにあった同士は二の舞を畏れ、蜂起には至らなかったかもしれない。
残った兵力は各地に分断。
城の警備が手薄となったところを、一気に攻め入る。
囚われの乙女たちは全員解放。
寄る辺をなくした隊士や女中は、町全体で支えあって面倒をみる。
あとは上様その人と、彼の信者を成敗し、皆で方針を議論していくだけ。
計画は日に日に具体化が進み、確実性が増し、現実味を帯びていった。
やがては関係者のみならず、我関せずを決め込んでいた保守派も協力を申し出た。
最終的に連ねた人数は、実働隊が五十八人。
別働隊が三十三人、構成員が百人以上。
城の隊士に引けを取らない大所帯となった。
そして、今日。
玉月才蔵が出奔する今日こそ吉日と、沙蘭様の号令により計画は始動したのである。
「とはいえ、あんた達だけで全部決めちゃうんだもの。
沙蘭様が冴えてなかったら、昨日の今日で出動だったところよ」
「わたしとサイの様子を見ながら、ずっと待っててくれたんですか?」
「なんとか順調にいってるみたいだから、文句は言わないけどね。
───さ、無駄話はおしまい!」
"そろそろ大丈夫とは思うけど、油断しないで"。
慎重に扉を開けた麻菊様が、後ろ手に合図する。
彼女に続き外に出てみれば、人っ子一人いなかった。
兵力の分断とやらは、首尾よく運べているようだ。
私は姫様を背負う方に改めて抱え、麻菊様にも別れの挨拶をした。
「感謝の言葉もありません、菊姫様。
お恥ずかしながら、この御恩に報いるだけの余力が───」
「あー、はいはい分かったから!どういたしまして!
道中ちょっとでも気を緩めるんじゃないよ!」
不器用ながらも鼓舞してくれる姿が、実に麻菊様らしい。
「はい。ご忠告、しかと受け取りました」
「麻菊さん、お元気で」
自らの弱さや脆さを、意地と根性で隠して。
間違えて空回って、悔やんで落ち込んで。
いつも自分に正直だった彼女は、とても可愛い人だった。
「才蔵」
出発しようとした私たちを、麻菊様が呼び止める。
振り返った先には、初めて見る彼女の笑顔があった。
「あたし、あんたのことずっと……。
ちょっといいなって、思ってたよ」
"───ほんと、あんたって四角四面なヤツよね。
もうちょっとくらいドジな方が、可愛げあるってものよ?"。
"───まーた、あの髭面どもに雑用押し付けられたんでしょ。
可哀相だから、途中まで手伝ってあげるわ。"
"───たまにはこっちに、お茶でも飲みにいらっしゃいな。
……別に、椿が会いたがってるから、そのついで。"
"才蔵。"
"ねえ、才蔵。"
"……いいえ。やっぱり、なんでもないわ。"
仏頂面ばかりが印象にあったけれど。
貴女だって、こんなに自然に笑えるんじゃないか。
「貴女のそういうところ、素敵だと思います」
走り出した私の背中に、消え入りそうな"さよなら"が、後押ししてくれた気がした。




