;第二十四話 約束したでしょう
「───ああ、サイ。
外から鶯の声が聞こえるわ。もう春ね」
初めて姫様のお姿をこの目にした時、それは驚いたものだった。
庭の桜を眺めながら、うっそりとたをやかな笑みを浮かべた横顔は、話に聞いていたよりずっと幼かったから。
繊細そうで、どこか頑固でもありそうで。
俗世の穢れ爛れとは交わらずに育ったような、あどけなさを残した少女。
こんな、女と呼ぶには早い少女が、上様への新しい貢ぎ物となるのか。
史上最年少の側室となった彼女に、まずなんと声をかけたら良いか、とても悩んだのを覚えている。
「覚えてる?
また二人で、一緒に桜を見ましょうって、約束したわよね」
無知で、無謀で、無邪気で。
痛々しいまでに健気で。
優しくしてやろうと思った。
かつての私が、拠り所となる存在を望んでいたように。
彼女にとっての私が、そうなれたらと思った。
いや、違う。
最初は、彼女のためではなかった。
かつての己と今の彼女とを重ね、彼女を救うことで己も救われたかった。
己の生に意味が、己の罪に慈悲が欲しくて、彼女を中心に据えた。
私は彼女に憧れ、癒やされ、そして同時に、嫉妬していたのだ。
「もうすっかり雪は解けたのに、あの桜はまだ、花をつけてくれないみたい。
残念だけど、なんだかちょっと、意地悪ね」
彼女を生み育んだ家族。
彼女と共に歩んだ隣人たち。
彼らは酷くお節介でお喋りで、干渉が過ぎることも有ったという。
けれど、諍いに発展したことは一度もなかった。
彼女の中で、煩わしさが愛おしさに勝ることは、ただの一度もなかったそうな。
お節介もお喋りも、干渉が過ぎてしまうのも、ひとえに彼女を案じてこそ。
彼女が笑えば負けじと笑い、彼女が泣けば背中を摩り、彼女を傷付ける輩を断じて赦さない。
解るからこそ、憎めない。
煩わしくて、愛おしい。
不完全な彼らを彼女は愛し、彼らもまた、不格好なりに彼女を愛していた。
そんな彼女が、私には酷く、眩しかった。
ありったけの愛を受けたであろう彼女が、時に羨ましく、時に妬ましかった。
彼女が楽しげに語ってくれる逸話の数々を、楽しんでは聞いてやれない己が、惨めで堪らなかった。
気付かされたのは、思いがけない己の弱さ。
孤高を気取りながらも、実は人肌に飢えていた、己のさもしい本性だった。
「せっかく、約束してくれたのに、守れそうに、ない」
意味を、慈悲を、愛を。
真っさらな笑顔を、真っすぐな信頼を。
誰かに頼られること、誰かに必要とされることが、どんなに嬉しいことかを。
私に無いものを全て持っていた彼女は、私に全てを分けてくれた。
こつこつと拾って、いっぱいに集めた幸せを、自分の手柄と独り占めにせず、恩返しだお裾分けだと、私にくれた。
いつからか、彼女の声を心地好いと感じるようになった。
嫉妬ではなく尊敬が、羨望よりも思慕が上回っていった。
この人は、この人だから、愛されてきたのだ。
理解して、納得して、私も彼女を愛する一人になった。
「やっぱり、自分の体は、自分が一番、よく分かるみたい。
だから、なんとなく、わかるの」
長い、短い、日々だった。
柄にもなく、永遠や不滅などという絵空事に、縋りたくなった。
「わたし、たぶん、もう二十日と持たないわ。
いいえ、実際はきっと、もっと早くに」
私を人にしてくれたのは、彼女だった。
疎まれ、蔑まれ、幾度となく否定されて、自暴自棄になっていた私に、希望をくれたのが彼女だった。
そのままでいいのだと。
私はここにいてもいいのだと。
彼女の温もりに触れた瞬間、私は深い水底から引き上げられた気分だった。
「ねえ、サイ。
さいごに、わたしのお願いを、聞いてくれるかしら」
いつだって彼女が、行く道を照らしてくれた。
彼女という光を失えば、私はもう立って歩けない。
暗闇に呑まれて、この身ごと潰れてしまうだろう。
「現し世の泉に、わたしの亡きがらを、葬ってほしいの」
鶯色の瞳が、こちらを向く。
痩せこけた頬も、ひび割れた唇も、固く乾いて生気がない。
あんなに瑞々しく、愛らしかった面差しが、今や死相の漂う窶れよう。
覚悟していた、のに。
いざ目の前にすると、なにも考えられない。
「辛いことを、頼んでる、けど、あなたしか、いないの。
それ以上は何も、もう、望まないから、せめて。
せめて、最期に見る景色くらいは、自分で決めたいの」
彼女のご両親は、どうしているだろう。
彼女の故郷は、どうなっただろう。
元気に暮らしておられるだろうか。
再興は進んでいるだろうか。
恵みの雨は、果たして降ったか。
愛娘の訃音に接して、悲嘆に暮れる夫婦の様子が思い浮かばれる。
ウキ、可愛いウキと、声にならない叫びが、彼方より響いてくる。
お礼を伝えたかった。
彼女を生んでくれて、育ててくれて、ありがとう。
私と出会わせてくれて、ありがとうと。
いい人達なんだろうな。
最後に一度くらい、会わせてやりたかったな。
「───サイ。
わたしが死んだら、あなたは泣いてくれる?」
ぜえぜえと胸を上下させながら、姫様が私の気配を確かめる。
私の名を呼び、私に触れようと手を伸ばしてくる。
私は彷徨う姫様の手を掴み、自らの両手で強く握り締めた。
「本当に、ひどい人だ、貴女は」
姫様は、時として残酷だ。
泣いてくれるか、などと。
自らが去った後のことを、私の口から言わせようとするなんて。
「約束したでしょう。
死ぬまで側にいると。守り抜いてみせると」
守り抜くことは、叶わなかったけれど。
「私はもう、貴女のいない世界では、生きられないんですよ」
失いたくない。
この手を離したくない。
だから、離さない。離れない。
「どうか、最期までお供させてください」
一年。
姫様と過ごした季節は、どこを切り取っても、綺麗だった。
春には桜を、夏には澄み渡る空を。
秋には楓を、冬には降り頻る雪を、二人並んで見た。
何十年と空虚に日々を費やすより、永遠や不滅に縋るより。
愛する人と限られた一年を生きた方が、ずっと報われた人生かもしれない。
「それっ、て───」
私の心中を察したらしい姫様が、滂沱の涙を溢れさせる。
「だめ。だめよ、そんな。いや。そんなこと、してはいけないわ。
あなたは、生きて、これからも前を向いて、歩いていかなくちゃ」
いやいやと首を振りながら、もう一方の手で私の衿に掴みかかる姫様。
私は敢えて返事をせず、抵抗をせず、姫様の涙を指で掬い、微笑みかけた。
乱心しているわけではない。
これはもはや、どうにもならない。
悟ったらしい姫様は、私の衿から手を離し、力無く布団に倒れた。
「そ、んな……。サイ、……ッ。
ごめんなさい、ごめんなさい───」
合わさった私の手を抱えるようにして、姫様が慟哭する。
ごめん、ごめんと、主語のない赦しを乞いながら。
ごめんは要らない。
赦される必要はない。
心地好い姫様の声。
私の好きな貴女の声で、貴女への謗りを聞かされるのは、うんざりだ。
「泣かないで、姫様」
「でも、でも……っ」
「ごめんね、ウキ。
私は、どうしても、貴女と一緒がいいんだ」
私からの、最後の願い。
貴女のいなくなった世界に、私はいない。
松吉、すまない。
私は生くるお前より、死する彼女と共にゆく。
『彼岸桜』




